1. 「押し紙」問題を取材してきた本当の理由、M君暴行事件との接点、隠ぺいという深刻な社会病理

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2018年11月03日 (土曜日)

「押し紙」問題を取材してきた本当の理由、M君暴行事件との接点、隠ぺいという深刻な社会病理

なぜ、「押し紙」問題を取材してきたのかとよく質問されることがある。「一旦着手したテーマで、まだ解決していないからだ」と答えるのが常だったが、正直なところわたし自身よく分かっていなかった。心の深層を探っていくと釈然としないものがあった。正義感ではない。もっと刺激が強い何かを感じてはいたが、具体的な像はかすんで見えなかった。

ところが11月1日に、国会議員会館で小坪慎也(行橋市議)氏らと開催した「押し紙」学習会で、自民党の木原稔議員が、「押し紙」と折込広告の水増し請求を指して明らかな「詐欺」だと断言されたとき、何かに打たれように、「押し紙」問題を取材してきた理由が分かった。漠然とした思考が具体的な輪郭を現したのだ。

結論を先に言えば、それは「押し紙」をフィルターにしたとき、日本人の不可解なメンタリティーが見え、その闇の深さが心のどこかで好奇心をかき立てていたのだ。

木原議員が指摘したように、だれが判断しても、折込広告の水増し請求という刑法上の詐欺を日本のジャーナリズムの巨塔である新聞社がやってきた重い事実。しかも、それを少なくとも1970年代の終わりから続けている事実。「押し紙」は一部もないと開きなおる事実。この実態を告発するひとがほとんどいない事実。指摘する少数派の人々は、なぜかバッシングを受ける事実。裁判を起こされることすらある。政治家もそれにメスを入れない。これらのメガトン級の事実とジャーナリズム企業の看板である「正義」とのギャップがわたしの意識の中で好奇心として根を下ろしていたのだ。

国際的に見ると、極めて珍しい現象だ。

この現象に異常な興味をそそられ、「押し紙」問題から目が離せなくなったのだ。そして、それを言葉で説明できるようになった日、つまり11月1日には、取材開始からすでに20年が過ぎていたのだ。それだけの話で、販売店を救済しようというような動機ではない。日本人のメンタリティーに不可解なものを感じていたのである。

動機が解明できると、別の取材テーマもかたちを変えてきた。

たとえば、今年に入ってから取材したM君暴行事件でも、事件の存在そのものを多くの人々が、「知らぬ、存ぜぬ」と隠蔽する奇妙な現象に遭遇した。事件をなかった事にしようとしているのだ。その中心的な役割を果たしてきたのが、なんと著名な「文化人」たちである。野党の政治家たちである。

もちろん暴行の事実を正面から見据えている人々もいるが、奇妙なことに彼らがM君を擁護するためには、回りに忖度して、勇気を奮いたたさなければならない。この現象は、「押し紙」問題を通して見えてくる精神構造とどこか類似してはいないか。

道ばたの池でおぼれかけている人を発見すれば、救助へと向かうのが常識だ。ところが日本ではそうはならない。まず、水上でもがき苦しんでいる人が誰かを観察する。それから救助に向かう人を観察して、その人が左派か右派か、あるいは日本人か外国人か、さらにはライバルか身方かを勘ぐってから態度を決める。恐ろしいメンタリティーである。こんな国は世界のどこにもないだろう。

何が原因で日本はこんな国になってしまったのか。闇の正体を探る努力が必要ではないか。深刻な社会病理である。

 

【冒頭の写真】シマウマの群れは、先頭が走る方向へと突進する。東へ向かえば、一斉に東へ。西へ方向転換すれば一斉に西へ。これがスタンピード現象。