1. 素手で便器磨きは美談か? 安倍内閣が進める道徳教育の本質は奴隷の大量生産

エッセイに関連する記事

2017年11月24日 (金曜日)

素手で便器磨きは美談か? 安倍内閣が進める道徳教育の本質は奴隷の大量生産

便器を中学生らが素手で磨かされた事件が関心を集めている。J-Castニュースは、その実態を次のように伝えている。

 男子トイレ内の便器を女子中学生が「素手」で掃除している写真を巡って大騒ぎが起きている。トイレ掃除をすることによって生徒達の心を磨くことができる、ということだが、写真を見た人から「これって虐待にならないか?」「感染症のリスク高すぎるだろ」といった批判が出て、大量にネットの掲示板やブログに書き込まれる事態になっている。出典

この記事が指摘しているように、素手によるトイレ掃除は、「トイレ掃除をすることによって生徒達の心を磨くことができる」という、考えに端を発した道徳教育である。安倍内閣のもとで積極的に推進されている道徳教育=観念論と軌道が一致している。

しかし、このような心がけを重視する発想は、今に始まったものではない。その原型は1960年代、日本が高度経済成長のレールの上を走り始める時代に、文部省の中教審が提言した「期待される人間像」である。だれから期待されるのかを示す主語が省略されて、日本語としては未熟だが、それはともかくとして、心の教育に期待を寄せたのは、ほかならぬ財界である。文句を言わず従順で、心がけがいい人間の大量生産を、日本の財界は「期待」してきたのである。

その期待にこたえて、とんでもない文教政策を進めてきたのが、自民党と文部科学省の先輩である。

その文教政策の土台となってきたのが観念論である。

◇義務教育の中での観念論教育

古い記憶になるが、筆者が小学校3年生の時、確か社会科のテストだったと記憶しているが、「公園で立て看板が倒れていましたが、どうすべきですか?」との設問があり、「なおす」「そのままにしておく」の2つの選択肢があった。筆者は、「そのままにしておく」を選んだ。結果、「×」を貰った。抗議したが、もちろん受け入れられなかった。

中学校の教育現場では、もっと極端な心の教育を体験した。たとえば、校舎(当時は木造だった)の廊下の柱に「光り輝けボロ校舎」という標語が張ってあった。校長の毛筆による制作だった。これもおかしな日本語だが、この標語に象徴されるように、筆者らは真冬に冷水を使って、校長室や職員室の床を雑巾がけすることが、尊い行為だと教わったのである。後にこの校長は、教育功労賞を受けることになる。

朝礼の時には、全校で呪文を唱える儀式があった。次のような呪文である。

・今日一日にすべてを集中しよう。
・すべての物に感謝しよう。
・草にも木にもよいことをしよう。
・足下をふり返ろう。
・進んで求めよう。

これも教育功労賞の校長の発案だった。筆者の卒業前には、この呪文を石碑に刻んで、校庭の芝に埋め込み、卒業記念碑とする作業も行われた。筆者は、後年に恥じをかくことになりかねないので、思いとどまるように意見を述べたが、もちろん無視された。

こうした道徳教育の最大の誤りは、背景に観念論哲学の思想があることだ。観念論哲学とは何かを説明するには、膨大な字数が必要なので、ここでは深くは踏み込まないが、端的に言えば、「心がけがよくなれば、それで社会はよくなる」という単純な考えである。それはある意味では真理を含んでいるが、根本的に完全に間違っている。

観念論の対極にある唯物論を支持する人々は、客観的な仕組みを変化させることが、社会をよくする基本的な道筋であるという立場を取る。当然、心がけは、副次的なものとしかみなさない。重視しない。逆に、心というものは、外界の変化によって左右されるとする立場を取る。

このようにふたつの哲学は対立している。観念論が正しいのか、唯物論が正しいのかという検証をさけて、教育現場における道徳教育の評価は絶対にできない。安倍内閣の文教政策を検証する際に避けることができない点なのである。

ところがこまったことに、日本の学校教育では、観念論と唯物論の違いすらも教えない。その結果、大半の人が両者の決定的な違いを理解していない。結果、唯物論とは、快楽のために物を浪費することを奨励する哲学、といったとんでもない誤解が一人歩きする。

観念論は支配階級のための哲学である。財界は道徳教育=観念論で従順な人間の「大量生産」を期待している。安倍内閣に心を重視する道徳教育を求めているのだ。組合運動でも組織して、ものごとを客観的に変えていく型の人間は、歓迎しない。

◇前近代的な世界-日本相撲協会

道徳教育=観念論の弊害は、すでに露骨なかたちで現れている。前出の「トイレ騒動」はいうまでもなく、たとえば次のニュース、「『お手本になる人がね』白鵬の態度に勝負審判も首ひねる」についても、審判団がおそらく無意識のうちに「汚染」されている観念論による影響と考えるべきだろう。

 22日にあった大相撲九州場所11日目の結びの一番で、寄り切りで敗れた横綱白鵬が、土俵に戻らず軍配への不満をアピールしたことについて、土俵下で勝負審判を務めた親方たちも首をひねった。出典

白鳳が判定に疑問を持ったことが、「悪」であるはずがない。貴乃花が弟子の人権を優先したことも、「悪」であるはずがない。重症を負った弟子の弁である。

「みんなで話しているときにちょっとだけ携帯電話をいじっていたら、急に日馬富士がやって来て殴り始めました。灰皿やカラオケのリモコンなどで手当たり次第に僕を殴りました。僕は両手で頭を抱えました。だいたい40~50回ぐらい殴ったと思います」出典

日本相撲協会は、完全に狂っているのである。便器磨きを強要する学校の比ではないだろう。マスコミが批判しないのもおかしい。