博報堂に5人の国家公務員が天下り、2007年の国会・内閣委員会でも、共産党の吉井英勝議員が指摘
内閣府、あるいは内閣官房(総理直属の機関)から博報堂への「天下り」が慣行化している実態が過去の国会議事録などから分かった。
現時点でも、博報堂への天下りは、少なくとも阪本和道氏(元内閣府審議官)と、田幸大輔氏(元広報室参事官補佐・広報戦略推進官)のケースが判明している。他の省庁からのものを含めると、松田昇氏(元最高検刑事部長)、前川信一氏(元大阪府警察学校長)、蛭田正則氏(元警視庁地域部長)らも博報堂、あるいはその持株会社である博報堂DYホールディングスに再就職している。
国家予算の一部が形を変えて、彼らに報酬として支払われていることになる。
なんのために博報堂グループが退職した国家公務員を受け入れているのかについては、個々の元国家公務員か、内閣府を取材しなければ分からないにもかかわらず、「天下り」の連携プレーを演じている当事者らは、阪本氏らの再就職は合法で「天下り」に該当しないという詭弁(きべん)を弄しているので、真相解明の糸口すら掴めない。
彼らの詭弁がどのようなものであるかは、後述することにして、国家公務員らによる凄まじい天下りの実態を過去の国会議事録から紹介しよう。
◇過去にも博報堂に5名が天下り
2007年5月11日の国会。内閣委員会で共産党の吉井英勝議員(写真)は、内閣府と広告代理店の不透明な関係を、特に新聞の公共広告に特化して追及した。内閣府が募集する公共の新聞広告(国策プロパガンダの媒体)の入札が、表向きは競争入札になっているが、実態としては随意入札や談合になっている事実を指摘している。
もちろんこの国会質問は、博報堂の実態だけに特化したものではなく、電通を筆頭とする日本の広告業界全体の談合体質を糾弾しているのだが、その中に不透明な取り引きの背景に「天下り」があることを指摘している。
博報堂の場合は、「経済社会総合研究所総括政策研究官を最後に退職した丸岡淳助氏の二人の天下りがあるということになっております」と、述べているほか、他の省庁も含めた実態については、「衆院調査局の中央省庁の補助金等交付状況、事業発注状況及び国家公務員の再就職状況予備的調査によれば」「博報堂には五人、うち常勤三人」だと指摘している。
その上で吉井議員は、次のように公務員制度改革が機能していない実態を批判する。
政府広報を契約する内閣府の人が天下りをしていっている。そして、この入札の一連のいろいろな問題の中で、いろいろな疑念とか疑惑、そういったものが持たれるものについて、やはりまずこれを徹底的に解明する。そのことなしに公務員制度改革を口にするということは、私は、かなり筋が違うんじゃないか。改革を口にするんだったら、まず実態の究明、解明だということを言わなきゃならぬと思うんです。
◇天下りが後を絶たない本当の理由
「天下り」はなぜ後を絶たないのか?
答えは簡単で、言葉の定義にある。伝統的に司法の場では、天下りは官庁が国家公務員の退官後のポストを民間企業に設けさせて受け入れさせることを意味し、このような上からの強制がなければ、「天下り」とは解釈されないからだ。
実際には、「天下り」という言葉は、広義に国家公務員が取引先に再就職することを指しているが、司法の世界では、狭義の「天下り」にしか解釈されない。従って、再就職等監視委員会による調査基準も次のようにずさんなものになっている。
1 現職職員による他の職員・元職員の再就職依頼・情報提供等規制
2 現職職員による利害関係企業等への求職活動規制
3 再就職者(元職員)による元の職場への働きかけ規制
これでは、問題の根源を絶てるはずがない。また、彼らに問題を解決しようという気概もない。彼ら自分自身、退官後の再就職を希望しているからだろう。
◇国策プロパガンダと金
余談になるが、「押し紙」という言葉も、恣意的な解釈が行われている。たとえば「押し紙」裁判で読売の代理人を務めてきた自由人権協会・代表理事の喜田村洋一弁護士らは、読売には、過去も現在も、1部の「押し紙」も存在しないと主張してきたが、筆者が保存している裁判記録によると、そのひとつの根拠になっていたのが、なんと「押し紙」の定義である。喜田村弁護士らによれば、押し売りした証拠がない新聞は、「押し紙」ではないので、読売には1部も「押し紙」が存在しないという理論になるのだ。
司法の世界では、この程度の論理が通用してしまう危険性があるのだ。実社会では、社会通念からして、販売予定のない商品を多量に仕入れるバカはいないので、販売店に残っている新聞は押し売りされたものと解釈して、広義に「押し紙」と言っているのだが。
「天下り」という言葉にも、まったく同じ罠が潜んでいる。
博報堂の諸問題は、かなり以前から国会で問題になってきた事が過去の国会議事録から判明した。しかし、まったく改善されることなく今日に至っている。
今も同じことを繰り返しているのだ。
これにメスを入れるには、やはり公共広告の在り方、あるいは国策プロパガンダと公共広告、金について考える住民運動を組織することも必要ではないか。