1. 読売・YC久留米文化センター前店における部数内訳 47%が「虚偽」も、「押し紙」ゼロの司法判断

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2014年03月19日 (水曜日)

読売・YC久留米文化センター前店における部数内訳 47%が「虚偽」も、「押し紙」ゼロの司法判断

読売新聞の部数内訳を示す資料を紹介しよう。具体例として取り上げるのは、YC久留米文化センター前店のケースである。裁判の中で「押し紙」の有無が争点になったケースの検証である。(地位保全裁判であるにもかかわらず、なぜ「押し紙」の有無が争点になるのかは後述する。)

※YC=読売新聞販売店

「押し紙」の定義は、2つ存在する。?新聞経営者(以下、新聞人)が主張し、裁判所が全面的に認定している定義と、?一般の人々が社会通念を働かせてイメージしている定義の2つがある。そこであらかじめこの点について若干説明しておきたい。

?新聞人と裁判官の定義

新聞人と裁判官が採用してきた「押し紙」の定義とは、新聞社が販売店に対して押し売りした新聞部数のことである。したがって、「押し売り」の証拠がなければ、たとえ多量の新聞が店舗に余っていても、それは「押し紙」ではないという判断になる。

こうした論法を「へりくつ」と批判する声もあるが、裁判所はそれを認定してきた。広告主がうける被害という視点が欠落している結果にほかならない。

たとえば販売店に新聞を2000部搬入し、実際に配達していた部数が1200部とすれば、800部が過剰になる。しかし、新聞社がこの800部を「押し売り」をした事実を販売店が立証できなければ、「押し紙」とはみなされない。「押し紙」は1部も存在しないということになる。

新聞人は、この種の新聞を「残紙」、あるいは「積み紙」と呼んでいる。最近では、「予備紙」と言うようにもなっている。口が裂けても「押し紙」とは言わない。

次に示すのは、2009年に読売が提起した名誉毀損裁判(被告は、新潮社と黒薮)で、読売の宮本友丘副社長が、自社には1部の「押し紙」も存在しないと断言した証言である。

それゆえにわたしが読売の名誉を毀損したとする論理であるが、証言の中で宮本氏が言及している「押し紙」とは、「押し売り」の証拠がある新聞のことである。それゆえに「押し紙」は、過去にも現在も、1部たりとも存在しないと胸を張って断言したのである。

◇読売・宮本証言に見る「押し紙」の定義  

新聞人にとって「押し紙」とは何かを物語る格好の事例である。宮本氏は、代理人の喜田村洋一・自由人権協会代表理事の質問に応答するかたちで次のように述べている。

喜田村洋一弁護士:この裁判では、読売新聞の押し紙が全国的に見ると30パーセントから40パーセントあるんだという週刊新潮の記事が問題になっております。この点は陳述書でも書いていただいていることですけれども、大切なことですのでもう1度お尋ねいたしますけれども、読売新聞社にとって不要な新聞を販売店に強要するという意味での押し紙政策があるのかどうか、この点について裁判所に御説明ください。

?宮本専務:読売新聞の販売局、あと読売新聞社として押し紙をしたことは1回もございません。

喜田村:それは、昔からそういう状況が続いているというふうにお聞きしてよろしいですか。

宮本:はい。

喜田村:新聞の注文の仕方について改めて確認をさせていただきますけれども、販売店が自分のお店に何部配達してほしいのか、搬入してほしいのかということを読売新聞社に注文するわけですね。

宮本:はい。 (略)

喜田村:被告の側では、押し紙というものがあるんだということの御主張なんですけれども、なぜその押し紙が出てくるのかということについて、読売新聞社が販売店に対してノルマを課すと。そうすると販売店はノルマを達成しないと改廃されてしまうと。そうすると販売店のほうでは読者がいない紙であっても注文をして、結局これが押し紙になっていくんだと、こんなような御主張になっているんですけれども、読売新聞社においてそのようなノルマの押しつけ、あるいはノルマが未達成だということによってお店が改廃されるということはあるんでしょうか。

宮本:今まで1件もございません。

繰り返しになるが、日本の裁判所も宮本氏の「押し紙」についての思考法を全面的に認めている。

?一般の人々の定義 ?

これに対して広く一般の人々に受け入れられている「押し紙」の定義は、単純に販売店で過剰になっている新聞のことである。新聞の商取引の裏側を知らない一般の人々は、社会通念を働かせて、販売予定のない商品(「押し紙」)を好んで注文し、その代金を支払うバカは存在しないと考えているからだ。

従って、販売店で過剰になった新聞は、すべて押し売りの結果発生したと考えている。大半の人々にとっては、残紙=「押し紙」である。

◇47%の部数が虚偽

2008年3月1日に、読売はYC久留米文化センター前店を強制廃業にした。店主が自主的に新聞の注文部数を約2000部から、約1000部に減らしたところ、3ヶ月後に改廃されたのである。

これに対してYC久留米文化センター前店の店主は、地位保全裁判を提起した。裁判の中で、同店における新聞の部数内訳の実態が表に出たのである。

裁判所は、YC久留米文化センター前には、新聞人が主張している「押し紙」は存在しないと認定した。しかし、搬入部数と実配部数が大きく異なっていたことは、判決の中で明らかになっている。

■YC久留米文化センター前店の部数内訳(H16年1月?H20年2月)??

※赤線部分に注意。注文部数が大幅に減っている。

【表の見方】  

定数:搬入部数を意味する。新聞部数の「定数」を意味する。

実配(報告書):店主が読売に報告していた実配部数

実配(実態):同店が本当に配達していた部数

虚偽報告部数:実配(報告書)?実配(実態)

残紙:余っていた部数

多量の新聞が余っていた事実は重い。判決によると、最終的には「約47.5パーセントが虚偽」だった。しかし、裁判所はこれらの偽装部数を、新聞人が主張する「押し紙」とは認めなかった。押し売りした証拠がないのが、その理由のひとつである。

責任はむしろ部数内訳を正確に報告していなかった店主の側にあると判断した。それを正当な改廃理由として認めた。この裁判でも、読売は裁判に圧倒的に強いことを見せつけたのである。

しかし、多量の新聞が過剰になっていた事実は重い。結果として、実態のない部数により、ABC部数がかさ上げ状態になり、紙面広告の価格に影響を及ぼした可能性があるからだ。

◇地位保全裁判で「押し紙」の有無が争点になる理由

念を押すまでもなく新聞販売店の地位保全裁判では、店主の解任が正当か不当かが判決により決定される。読売のケースに限らず、販売主の地位保全裁判で極めて頻繁に争点になるのは、「押し紙」の有無である。その理由を説明しよう。

既に述べたように新聞人たちは、過去から延々と、新聞業界には1部の「押し紙」も存在しないと主張してきた。これも繰り返しになるが、彼らにとって「押し紙」とは、押し売りを立証できる新聞のことである。「残紙」のことではない。「押し紙」は独禁法に抵触するので、口が裂けても「押し紙」があるとはいえない。そこで「残紙」、「予備紙」などの言葉で言い換えているのだ。

こうした事情を販売店の側も承知している。文句も言わない。新聞社は販売店にとって大切な取引先であるからだ。そこで部数の内訳を新聞社に報告する場合、販売店は実配部数に「押し紙」を加えた数字を報告する。もちろん報告書のフォーマットに「押し紙」というカテゴリーも存在しない。

新聞社に対する忠誠心がある店主ほど、「押し紙」を隠して、部数内訳を報告する。そうすることで帳簿上では、1部の「押し紙」も存在しないことになる。

ところがこのような事務処理は、法的に見れば部数の虚偽報告である。新聞社にウソの報告をしたことになる。この点を逆手にとれば、新聞社は虚偽報告を理由として、販売店を正当に改廃することが出来るのだ。

これが販売店の地位保全裁判で、「押し紙」の有無と、それに伴う虚偽報告の有無が争点になる理由である。

しかし、部数の虚偽報告が改廃理由にはならないとする判例もある。YC久留米文化センター前の改廃事件の半年まえに出た真村裁判の福岡高裁判決である。この判決は最高裁でも認定された。日本の新聞社経営に決定的な影響を及ぼしかねない判決だったのである。

■真村裁判の福岡高裁判決

重要な部分を抜き書きしてみよう。

新聞販売店が虚偽報告をする背景には、ひたすら増紙を求め、減紙を極端に嫌う一審被告の方針があり、それは一審被告の体質にさえなっているといっても過言ではない程である。

一審原告真村が、予備紙の部数を偽っていたとして誓約書を提出した際に提出した平成12年10月目標増紙計画表では、定数年間目標を1665部、実配年間目標を1659部とし、同年5月時点での定数を1625部、実配数を1586部、予備紙を39部と、同年10月時点での実配数を1586部、予備紙を39部として上記定数を維持した記載をしているところ、一審被告は、このような報告を受けても、

それに合うように定数を減らさせることをせず、上記計画表記載のとおりの同一審原告らの注文を受けていたものであり、同様に、予備紙の虚偽報告が発覚した久留米中央店の荒木に対しても、ほぼ同様の対応に終始しているのである(甲131、乙81、104、原審証人YM)。

このように、一方で定数と実配数が異なることを知りながら、あえて定数と実配数を一致させることをせず、定数だけをABC協会に報告して広告料計算の基礎としているという態度が見られるのであり、これは、自らの利益のためには定数と実配数の齟齬をある程度容認するかのような姿勢であると評されても仕方のないところである。

そうであれば、一審原告真村の虚偽報告を一方的に厳しく非難することは、上記のような自らの利益優先の態度と比較して身勝手のそしりを免れないものというべきである

YC久留米文化センター前の店主が、自主的に新聞の発注部数を約1000部減らしたのも、もとをたどれば真村裁判の福岡高裁判決に勇気ずけられたからにほかならない。ところが、真村裁判の判例は、YC久留米文化センター前の裁判では、完全に覆ったのである。

読売は、やはり圧倒的に裁判に強いのだ