1. M君リンチ事件の控訴審、23日から大阪高裁で、最大の争点は作家・李信恵氏の関与の有無

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2018年07月23日 (月曜日)

M君リンチ事件の控訴審、23日から大阪高裁で、最大の争点は作家・李信恵氏の関与の有無

メディア黒書でたびたび報じてきたM君リンチ事件の控訴審が、23日に大阪高裁で始まる。開廷は14:30。別館7階74号法廷である。1時40分から別館で傍聴の抽選が行われる見込みだ。

この事件は、高い関心を集めているわりには、ほとんど報道されていない。報道すると一部の人々にとって不都合な要素を内包しているからだろう。

事件が発生したのは2014年の暮れである。「カウンター」、あるいは広義の「しばき隊」と称するグループのメンバーらが、大学院生のMさんに暴言と暴力で襲いかかり、ひん死の重症を負わせた事件である。原因は金銭をめぐる組織内の問題だった。メンバーの一部が右翼から、金銭を受け取ったという話が広がり、その原因を作ったとされるM君が、深夜の酒場に謝罪に呼び出され、暴行を受けたというのが事件の概略だ。

現場には5人のメンバーがいた。M君は、身の危険を感じて、ポケットに隠し持っていたレコーダーを「ON」にしていた。そのために暴言や「しばき音」が鮮明に記録されている。

・「かかってこいや!へたれ!」
・「訴えるもんなら、訴えてみい!」
・「エル金さんの代わりに殴っていいか?」(のあとに「パーン」)
・「殺されるから(店に)はいってきたんちゃう?」
・「京都朝鮮学校の弁護団?お前の味方になってもらえると思うか?」
・「朝鮮学校のガキらの前で言えるんかこら!」
・「めっちゃ不細工やわ(笑)」(M氏の腫れ上がった顔を見て)

筆者は、この事件には3つの重要ポインがあると考えている。

◇第1のポイント-客観的な事実の把握

改めていうまでもなく、ある事件を見る場合、その大前提になるのが客観的事実の把握である。客観的事実の把握が間違っていると、事件の評価も的を得ないものになってしまう。

M君に暴行を加え続けた人物がだれかという点は既に確定している。双方に争はない。Aと呼ばれる人物である。

裁判で大きな争点になっているのが、作家の李信恵氏の関与である。第1審では、M君が現場となった酒場に到着した途端、李氏がM君の胸ぐらを掴んだことが認定された。しかし、殴った事実は認定されなかった。こうした事情も考慮して、李氏は、事件には無関係とされたのである。

しかし、5名のうち3名には総額で80万円程度の損害賠償が命じられた。
従って、形のうえでは、原告M君の勝訴である。だが、賠償額があまりにも少額であるのに加えて、最初にM君の体にふれた李氏の責任が認定されなかったので、M君が控訴したのである。

読者は、冒頭の動画(音声)を参考に、事実関係について推測してほしい。延々と暴行を続けていながら、80万円の賠償は、あまりにも少額だろう。

◇第2のポイント-事件を隠ぺいする人々

なぜかこの事件には、事実関係を暴露するよりも、逆に隠ぺいする力が働いている。不思議なことに、多くの著名人がこの事件には触れたがらない。それどころか、「なかったこと」にする動きもある。事件を隠ぺいしようとしている人々があまりにも多いので、その理由をひとまとめにすることは出来ないが、本質的な部分は同じではないか。

結論を先に言えば、運動が受けるダメージを心配した結果である。

M君リンチ事件が公になれば反レイシズムの運動が暴力的なものであることが明らかになり、運動が打撃を受ける。広義しばき隊を共闘している野党連合もダメージを受ける。

事実、ヘイトスピーチ対策法成立の立役者のひとりで、『ヘイト・スピーチとは何か』(岩波新書)の著者・  師岡康子弁護士の私信が、「デジタル鹿砦社通信」(■出典で暴露され、その中で運動への懸念が述べられている。一部を引用しておこう。文中の「その人」というのは、M君のことである。

この私信が送られたのは、リンチ事件から間もない時期の2014年12月22日である。M君は民事訴訟の前に刑事告訴をしているのだが、その告訴を妨害したいという師岡弁護士の考えが露骨に現れている。理由は、繰り返しになるが、反レイシズム運動が打撃を受けるからだ。

◇第3のポイント-言論統制のための政治利用

第3のポイントは、反レイシズム運動が、政治利用されている可能性を、M君リンチ事件を通じて再考することである。

筆者は反レイシズム運動そのものを否定するつもりはない。が、問題はその方法である。周知のように反レイシズム運動の先頭に立っている人々は、次々と名誉毀損裁判を起こしている。特に辛淑玉は際立っていて、差別とは別のテーマでも、名誉毀損裁判を複数起こしている。

周知のように、名誉毀損裁判は、訴えた側が圧倒的に有利な法理になっている。従って、訴えが認められ、言論を規制する判例が次々と生まれているのが実態だ。つまり公権力にとって、名誉毀損裁判の提起は、言論統制の布石になるので、歓迎すべきことなのだ。

事実、小泉構造改革の中で行われた司法制度改革でも、名誉毀損裁判の賠償金を高額化する方針が打ち出されている。

こうした動きと連動して、特定秘密保護法や共謀罪法が施行された。

つまり現在の言論状況を客観的にみれば、重層的に言論の自由を制限する条件が整っているのだ。このトリックに広義しばき隊の人々は、まったく気づいていないようだ。言論統制がやがて自分たちにも、ブーメランとなって跳ね返ってくるリスクが分かっていない。恐ろしく鈍感なのだ。

人間が発する言葉は内面の反映である。その内面は、個人的な体験や読書などの影響で形成されていく。そして、ここからが先が肝心なのだが、それぞれの人は自分の内部で出来上がった世界観や人生観が最も崇高と信じて疑わないのである。自分の内面を客観的に直視することはほぼ不可能なのだ。

と、すれば法律により人間の内面を規制する行為は、誤っている上に無意味でもある。規制しても物事の解決にはならない。それよりも言論の自由を100%保証して、議論する方が、心の栄養になり、互いの憎しみを解消するための近道なのだ。

まして「釘バット」による威嚇など論外だろう。