横浜副流煙裁判、藤井さんと井坂さんの潜入取材による2重の裏付け作業
【『紙の爆弾』(3月号)より転載】
近年、反ヘイトの市民運動に顕著に現れているように、住民の行動規範や道徳観を条例を制定することなどで、「矯正・指導」する現象がみられる。禁煙、あるいは分煙をめぐる市民運動にも同じ傾向がある。オリンピックと連動した禁煙キャンペーン。その中で、自宅内での喫煙禁止を求める裁判も起きたが、禁煙ファシズムの野望は砕かれた。
昨年の11月28日、横浜地裁は、日本における禁煙学の権威で日本赤十字社医療センターの医師、作田学博士に痛手となる判決を下した。博士にとっては、頭を拳で殴られたような感覚だったに違いない。
午後1時10分、入廷してきた3人の裁判官が着席し、新谷晋司裁判長が判決を読み上げた。
「1、原告らの請求をいずれも棄却する。2、訴訟費用は原告らの負担とする。」
満席になった法廷に拍手が起こった。裁判官が退廷すると、傍聴席の前のほうにいた一人の女性が立ち上がり、法廷の後方にいた一人の老紳士を指さし、
「作田、恥を知れ!」
と、一括した。自宅で煙草を吸って裁判にかけられ、4500万円を請求された藤井将登さんの妻・敦子さんだった。
作田博士は、藤井将登さんを訴えた原告3人のために「受動喫煙症」、「化学物質過敏症」などの病名を付した診断書を作成していた。後に判決を精読して分かったことだが、横浜地裁は作田医師が医師法20条に違反したことを認定していた。医師法20条違反は患者を直接診察せずに診断書を作成する行為を禁じている。
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裁判の発端は横浜市青葉区の団地で起きた煙草の副流煙をめぐる隣人トラブルである。この団地のマンション1階に住んでいる藤井将登さんは作曲、編曲、演奏などを行うミュージシャンである。仕事の関係で、外出していることが多いが、自宅にいるときも、たいてい防音構造になった部屋で仕事している。藤井さんは、外国製の煙草を吸っていた。とはいえヘビースモーカーではない。1日の喫煙本数も数本程度である。煙草の煙は、部屋が防音構造になっている関係で、逃げ場がなく、空気清浄機を使って処理していた。そもそも煙が外部に流出する状態ではなかった。
ところが2016年、藤井さんの煙草の副流煙で病気になったと訴える隣人が現れたのである。苦情を申し立てたのは、右隣の住民でも、左隣の住民でもない。また、真上のマンションの住民でもない。真上のマンションの隣のマンションに住む池内さん一家だった。藤井さん宅から発生する煙草の煙で、夫の池内康夫さん、妻の敏子さん、娘の香織さんの一家3人が体調を崩しているので、喫煙を止めてほしいという。団地の管理組合T氏の仲介で話し合いをもったが埒が明かなかった。
藤井さんは、池内敏子さんを立ち会わせてある実験をしてみた。自宅の換気扇の下で煙草を吸い、それが池内家へ届いているかを調べてみたのである。しかし、池内さんは、煙草の匂いを感知できなかった。また、一定期間、自宅での喫煙を控えてみた。そのうえで池内さんに、煙草の匂いの有無を聞いたところ、匂うと答えた。この時点で藤井さんは、匂いの原因は自分ではないことを確信した。ちなみに原告は、非喫煙者である藤井敦子さんも喫煙者よばわりしていた。
2017年4月、藤井将登さんは、一通の通知書を配達証明で受け取った。差出人は、弁護士の山田義雄氏だった。山田弁護士は、将登さんに対して自部での「喫煙は一切控えていただきたい」と伝えてきた。その後も山田弁護士は同じ趣旨の書面を送付し続けた。警告を聞き入れない場合は、法的措置を取らざるを得ない旨も通報されていた。
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事態はさらに悪化する。2017年8月、今度は神奈川県警の刑事ら4人の警察関係者が藤井家を訪問して、自宅にいた敦子さんを取り調べたのだ。敦子さんが言う。
「結局、何も問題になるようなことは指摘されませんでした。取り調べの最後に刑事らは、夫の仕事部屋にも入って、写真を撮影し、『もう2度ときません』と言って帰っていきました」
ところが、それから約3カ月後の11月、池内家の一家3人は、藤井将登さんに対して4500万円の損害賠償を求めて裁判をおこした。
化学物質過敏症は、有害な化学物質が体内に入ることによって引き起こされる疾病の総称で、多様な症状を呈する。極めて微量の化学物質を被爆しても、重篤な症状が表れることもある。煙草の煙にも有害な化学物質が含まれており、化学物質過敏症の原因のひとつである。最近は、「香害」という言葉も独り歩きしている。
化学物質過敏症は、現在の公害として浮上しているので、池内家の3人が煙草の副流煙で化学物質過敏症などになったとする主張も、全く的が外れているわけではない。その原因は多様だ。米国などで原因物質として最近特に指摘されているのはイソシオネートである。こうした状況の下で、煙草の副流煙をふくむ化学物質過敏症による損害賠償を求める裁判は増加している。しかも、訴えた側が賠償を命じられるケースが増えている。
たとえば化学物質過敏症になった花王の元作業員が花王を訴えた裁判では、4000万円の請求に対して、2000万円の支払いが命じられた。その際に判決の重要な判断基準になったのは5人の医師が原告のために作成した5通の診断書と意見書の方向性が一致していたことである。医療は極めて専門的な分野なので、複数の診断書が原告の健康被害を認定していることが重要な要件になるのだ。
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藤井将登さんが被告にされた裁判でも、5人の医師による診断書が提出された。しかも、5通とも原告3人の受動喫煙症や化学物質過敏症を認定していた。ところが藤井さんの支援者のあいだから、作田医師が作成した診断書に対する疑問の声があがるようになった。診断書としては記述が不自然だというのだ。たとえば次の診断書の記述である。
1年前から団地の1階にミュージシャンが家にいてデンマーク産のコルトとインドネシアのガラムなど甘く強い香りのタバコを四六時中吸うようになり、徐々にタバコの煙に過敏になっていった。煙を感じるたびに喉に低温やけどのようなひりひりする感じが出始めた。このためマスクを外せなくなった。体調も悪くなり、体重が減少している。そのうちに、香水などの香りがすると同様の症状がおきるようになった。
これは化学物質過敏症が発症し、徐々に悪化している状況であり、深刻な事態である。
聞き書きの文体である。事実と著しく異なる記述もみうけられる。たとえば藤井将登さんが、「タバコを四六時中吸う」ことになっているが、ヘビースモーカーではないうえに仕事柄あまり自宅にはいない。また、「1年前から」外国の煙草を吸っていることになっているが、実際は30年ほど前から吸っている。
さらに支援者ひとりの医師が原告準備書面の次の記述を指摘した。原告の池内香織さんの診断書作成に言及した箇所である。
なお、当時原告香織は既に寝たきりで外出困難となっていたため、原告敏子が代わりに香織の委任状と香織直筆の自覚症状、くらた内科クリニック・そよ風クリニックの診断書を提出して、作田医師の診断で、診断書を作成していただいたものである。
池内香織さんの診断書は、作田医師が直接診察して作成したものではないと山田弁護士がみずから記述しているのだ。しかし、無診察による診断書作成は医師法20条に違反する。
その後、作田医師が作成した池内香織さんの診断書が2通存在し、それぞれ病名が異なっていることも分かった。原告は、単なるミスであると主張したが、不透明感は拭えない。
さらに診断書が作田医師から山田弁護士へメール電送されていたことも判明した。
ちなみに裁判が始まった当初、藤井さん夫妻は訴訟をM弁護士に委任していたが、途中で解任した。戦略が弱腰すぎたからだ。弁護士を解任したのち、藤井夫妻と支援者の意思で自由に裁判の方針を決めるようになった。
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こうした状況の下で、作田医師の診断書作成のプロセスを徹底調査するために、藤井敦子さんと支援者のひとりが初老の夫妻に扮して、日赤の「作田禁煙外来」に潜入する計画が浮上した。藤井敦子さんの夫役として、外来を受診する役を担ったのは、煙草の煙に軽度のアレルギー反応がある井坂泰三(仮名)さんだった。
井坂さんはまず自宅近くのクリニックを受診した。作田医師への紹介状を作成してもらう必要があったからだ。しかし、MRI、CT、それにホルター心電図検査(24時間にわたって心電図を取る検査)など綿密な検査を受けたにもかかわらず受動喫煙症とは診断されなかった。高血圧症との診断されたのである。これでは作田医師への紹介状は作成してもらえない。そこで「作田医師のセカンドオピニオン」が聞きたいと申し出たところ、紹介状を作成してくれたのである。
2019年7月17日の午前、JR渋谷駅の東口に設けられたバス停から藤井敦子さんと井坂さんが都営バスに乗り込んだ。2人が向かう先は、広尾にある日本赤十字社の医療センターである。井坂さんは、この日のために真っ白な下着を新調していた。作田医師が診察時に体に触れることを想定した配慮だった。汚れた下着では、博士に申し訳ないと思ったからである。
作田医師の外来は、ロビーからエスカレーターを上がった病棟の2階にある。受け付けを終えると、井坂さんは問診票を記入した。薄暗い廊下に設置された椅子に腰を下ろして、しばらくすると名前を呼ばれた。診察室に入り、井坂さんは椅子に腰を下ろしながら、
「こんにちは」と言った。
「あ、どうも」
敦子さんは、
「失礼します」と言って咳払いをした。
「高血圧ってのはいつ頃から言われてるんですか?」
作田医師は、さっそく診察に入った。
「いや、あのね、紹介状書いてもらった先生とこに行って」
井坂さんは、作田医師の禁煙外来を受診した理由を次のように説明した。自分は、設備管理の仕事で定期的にP社(仮名)へ足を運ぶ。この会社の休憩室は分煙になっているものの、ビニールシートで遮断されているだけなので、喫煙室の煙が禁煙区域にもれる。そこで、診断書を会社へ提出して改善を求めたい。――。
診断時間は、20分程度だった。その中で井坂さんも藤井さんも不自然に感じた点があった。それは作田医師が井坂さんの訴える症状の原因をすべて煙草の煙と関連づけているように感じたことである。たとえば次の会話である。
「えっと、脳の検査はしたことは過去にある?」
「えっとこないだ、こないだやったんじゃなかったけな。あの、MRIってやつ」
「あー」
「それからCT、CTと」
井坂さんはCTとMRIのデータを持参していたが、それを確認しようともしない。そして早々と次の質問へ移る。
「んーー。不整脈がひどくなるってことはある? タバコの煙で」
話が不意に不整脈のことになり、その原因がタバコの煙であることの肯定を求めるような問いかけをした。煙草のことしか思量にないような印象を受けたという。
また、井坂さんが衣服の繊維を吸い込んでも咳き込むと繰り返し訴えても、原因として煙草の煙を持ち出している。次のくだりである。
「タバコの煙のないところではこの症状は出ないわけですね?」
「だから、その、洋服の、何、ユニクロみたいなああいうところ行くと、また別に起こんじゃん」
「ユニクロ?」
「ユニクロ 、洋服屋さん、洋服屋ありますよね? あそこのようなとこ行くと洋服の、何ていうの、カス、何ていうの、こう飛んで見えないんだけど、そこにいるだけで、行く時には完全にマスクして、マスク濡らしていかないと」
結局、診察を通じて作田医師が井坂さんの体に触れることは一度もなかった。井坂さんが自分の手首に指を当てて、脈を図るデスチャーをしながら不整脈を訴えたときも、聴診器すら使わなかった。
うして作成された診断書には次の病名が記されていた。
「受動喫煙症レベル3(筆者注:レベル1からレベル5で診断) 咳、淡、不整脈」
井坂さんが最初に受診したクリニックでは、受動喫煙症には該当しないとされたが、作田医師は受動喫煙症レベル3と診断したのである。井坂さんが熱心に訴えた繊維によるアレルギーはどこにも記されていなかった。
藤井さん夫妻は、控訴審になった場合に備えて潜入記録を裁判所に提出しなかったが、第3者から見るとこの記録と作田医師による医師法20条違反は整合している。受動喫煙症を前面に出した診断書く習慣が身についており、池内香織さんのケースでも無診療で診断書に化学物質過敏症などの病名を記したのである。
事実、判決は訴訟目的で作田医師らが診断書を作成したことも認定している。次のくだりである。
「その基準(注:日本禁煙学会による「受動喫煙症の分類と診断基準」)が受動喫煙自体についての客観的証拠がなくとも、患者の申告だけで受動喫煙と診断してかまわないとしているのは、早期治療に着手するためとか、法的手段をとるための布石とするといった一種の政策目的によるものと認められる」
日本禁煙学会が定めている診断基準そのものが、「法的手段をとるための布石」であり、「政策目的」で作成されていると認定したのである。
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これを受けて筆者は日本禁煙学会に、同学会と裁判の関係を問い合わせてみた。
黒薮:裁判を積極的に勧めているのですか?
学会:(少し間をおいてから)はい。
黒薮:どういうかたちで裁判を支援していますか?
学会:基本的には弁護士さんに相談したうえのことですが。
黒薮:そちらで弁護士さんを紹介されていますか?
学会:担当の弁護士はそんなに多くないものですから。 岡本(光樹)弁護士という受動喫煙のサイトを持っている人がいます。今、都議会議員ですが。 その方をご紹介して場所とか地域とかをみて近くの弁護士さんを紹介するとか、また何人かのチームを作ってやるなどしてきています。(筆者注:岡本弁護士は山田弁護士との関係を否定している。)
黒薮:作田先生も裁判するように勧められているのですか?
学会:裁判するように勧めるというよりも、普通に(禁煙を)お願いしてうまくいかなかった場合は、 最悪裁判になってしまうということです。
日本禁煙学会が藤井さんの裁判に関与していたか否かが、今後の解明点になりそうだ。