【書評】歴史は山上徹也をどう裁くのか、鈴木エイトの『アンビバレント』を読む

ルポルタージュを読んでいて時々お目にかかるのが、まるで詳しい年表を読んでいるように味気ない作品である。とにかく情報が詰まっている。しかも、同じ密度で記述されているので、読み物としては単調になりがちである。
鈴木エイトの『アンビバレント』は、その対極にある作品である。巧みな構成により、ひとつの書籍の中で二つのドラマが並行して展開する。ひとつは、山上徹也被告の十五回にわたる公判から判決を経て、著者が拘置所で被告と接見するに至るドキュメンタリーである。単に裁判記録を紹介しているだけではなく、恐らく調書には残らない生の声も記録されている。たとえば、山上被告の母親が証言台に立った時の次の場面である。
「徹也には本当に申し訳ないことをしたと思っています」
「尋問は終わりにしますので、しばらく待機していてください」
裁判長の注意を無視して、母親は再び被告人席に向かって呼び掛けた。
「てっちゃん、ごめんね」
「ここはあなたが発言する場ではない。黙ってください」
と、裁判長から厳しく注意を受ける母親。
この時、山上被告は涙を浮かべていたという。第十三回公判では、安倍晋三元首相の妻・安倍昭恵が入廷する。そして本書のクライマックスで、著者の鈴木エイトは拘置所で山上被告と向き合い、安倍元首相殺害とは何だったのかを問い直す。それは裁判や既存メディアの報道から浮かび上がる人物像とは異なる側面を示していた。
これら一連のエピソードと同時進行するもうひとつのドラマが、山上被告がどのような境遇で育ち、どのようにして安倍元首相殺害に至ったのかの事実検証である。山上被告の半生が、関係者の証言を通して再構成されている。そこでは宗教二世の悲劇が具体的なエピソードによって語られる。
本書は、単に事件を忠実に記録したという域を超えて、複雑な事件を整理し、意味づけし、秩序立てて読者の前に提示した。ジャーナリズムの手本にほかならない。それを可能にしたのは、長い歳月を費やした取材と対象への執念ではないだろうか。
私的な話になるが、中米のニカラグアにも山上被告と同じようにテロに走った青年がいる。リゴベルタ・ロペスという詩人である。ロペスは一九五六年、上流階級の豪勢な宴会に紛れ込み、至近距離から独裁者アナスタシオ・ソモサを銃殺した。ソモサは当時、長期独裁体制を築き、ニカラグアの政治から、軍事、産業までを一族で支配していた人物である。米国の強い支援を受けながら統治を続け、貧しい人々の血を吸いとる売国奴と見なされていた。
リゴベルタ・ロペスは事件後、即座に射殺された。その後、一九七九年にソモサ独裁政権が革命によって崩壊すると、リゴベルタ・ロペスの名はよみがえった。国民的英雄となったのである。
詩人という肩書が付されているので、私は彼の詩作を調べてみた。しかし、後世に残るような作品は見当たらなかった。なぜ「詩人」なのか。この答えをニカラグアの人に尋ねてみると、詩人という言葉の意味が日本とは異なることが分かった。詩人とは、純粋な魂を持ち、不正を容認せず、真実に忠実な人のことなのだという。
テロという行為そのものが正当化されることはない。しかし、その背景や動機についての歴史的評価は、時代とともに変化する可能性がある。本書『アンビバレント』は、そのことを考えるための重要な材料を提供している。
タイトル:アンビバレント
著者:鈴木エイト
版元:講談社
