2026年10月08日 (木曜日)
黙示録という名のゲーム

雑誌『アクチュアリダ・グロバル・インテルナシオナル』、『エクストラ』(米国)、『フォコ&デスタケ』(ブラジル・サンパウロ)、ラジオ「友人たちとの語らい」(タイス・アギラールが制作・司会を務めるラジオ・コスタリカの番組)は、ジャーナリストで実業家、ロベルト・トロバホ・エルナンデス氏の短編小説『黙示録という名のゲーム』の発表を心より祝福します。秀逸な一篇です。おめでとうございます。
執筆者:ロベルト・トロバホ・エルナンデス
エル・ドラドは、かつてラテンアメリカのひとつの首都だった。だが水をめぐる戦争のあと、それは〈快適さ〉という名のウイルスとなって、世界へ蔓延していった。ウィルス「エル・ドラド」が入り込んだ場所では、人々は問いを発することをやめた。
進歩は祭りの仮面をかぶり、欲望はひとつの型にはめられた。同じブランド。同じ時刻。同じ微笑み。水はビールよりも高かった。誰も、それを不思議とは思わなかった。それが、最初の奇跡だった。
二つ目の奇跡は、誰もが喜んで金を払ったことだ。そして三つ目は、鏡がもう、人の顔を映さなくなったことだった。映るのは、身分証だけだった。
僕は、しばらくのあいだだけ、ここにいるつもりだった。最上階をあてがわれた。
何ものにも遮られない眺め。僕をスターでもあるかのように見つめる女。賞。そして、きれいに包装された未来。僕は、これらのものを受け取った。
エル・ドラドでは、誰もがすべてを受け取った。だが、ある日のことだった。
演説もなく、プラカードもなく、僕はひとつの言葉を口にした。それは、たった二文字。魔法を解く言葉だった。
「ノー」
――いやだ。
◆思想と肉体の黄昏
ディレクターの執務室には、冷房と真新しい革の匂いが満ちていた。いや。あれは匂いではなかった。アリバイだった。
エル・ドラドでは、何か重大なことが決められる場所は、どこも同じ匂いがした。
人工の冷気。そして、生きた獣の肌に一度も触れたことがないような革の匂い。
スクリーンのなかで、「セックス・フェスティバル」のCMが黒へ溶けていった。光。肉体。いつもの、鈍く腹に響くビート。コピーを書いたのは僕だった。
「快楽する自由」
その言葉が闇へ消えてゆくのを見ながら、僕は、自分のなかの何かも一緒に消えてゆくのを感じていた。誰も口をきかなかった。巧みに語られた嘘のあとにだけ残る、あの沈黙だった。
ハイルが、針にでも刺されたように立ち上がり、テレビを消した。
「で?」
骨をねだる犬のような笑みを浮かべ、ゲオベルに訊いた。ゲオベルは彼を見ようともしなかった。ソファに深く身を沈め、脚を組んだままだった。
その姿勢には、権力というものの神学が、そっくり収まっていた。人を支配するのに、彼は立ち上がる必要さえなかった。
「最高だ」
そう言った。短いひと言。エル・ドラドでは、それはこういう意味だった。
――買ってやる。
だが、誰が金を払うのか、忘れるな。
ハイルが息を吐いた。肩から空気が抜けていくのがわかった。
「クリスティアン」
僕を目で探した。
「君の番だ」
僕は動かなかった。背中に革が貼りついていた。耳の奥で、かすかな羽音のようなものが鳴っていた。
「凄絶だな」
僕は言った。褒め言葉にも聞こえる。悪口にも聞こえる。どちらに取るかは、彼らに任せた。
ゲオベルが、初めて僕を見た。そして笑った。僕がこうして、崖っぷちまで出てゆくのが、彼は好きだった。
「それが狙いなんだよ、天才クリエイター君」
ハイルは慌てて商談を畳みにかかった。
「パブリシタールは、皆さまにご満足いただくことを何より大切にしております。グロリア夫人にも、われわれが百パーセント全力で取り組んでいるとお伝えください」
「全部、伝えておくよ」
ゲオベルは僕から目を離さなかった。
「細かいところまで、何もかもな」
そこで僕は、ゲームの正体を悟った。こいつはCMを見に来たんじゃない。僕を量りに来たのだ。
「これは祭りなんかじゃない」
僕は言った。
「別のものだ」
空気が、もう一段冷えた。ゲオベルは立ち上がった。ハイルの肩に手を置いた。友人がするような、軽いひと叩き。ただしエル・ドラドでは、その仕草には別の意味があった。
――おまえはもう友人ではない。
雇われた人間だ。ゲオベルは低い声で言った。
「市場の第一原則だ。金を払う者が命令する。君のところの若いのは、それを忘れかけているらしい」
そして僕を見た。
「ロマンチストすぎるな、クリスティアン」
エル・ドラドでは、人をロマンチストと呼ぶのは、その人間を馬鹿と呼ぶ、もっとも上品なやり方だった。
「いまの時代、愛がSFに聞こえるとしたら」
僕は言った。
「あんたたちみたいな人間がいるからだ」
僕は、高価なジャケットをつかんだ。ディレクターらしく見せるために買ったものだった。そして、そのまま出ていった。
外では、夕暮れが血のような色をして、ビルの窓という窓を打っていた。何年ぶりだろう。その赤を見ても、胸はざわつかなかった。安らかだった。
◆獣の玉座
その場に、僕はいなかった。けれど、あとになってハイルが話してくれた。彼が「消される」前の晩だった。自分がもう始末されると知っている人間の声で、彼は語った。
グロリアの邸宅は、エル・ドラドにはなかった。エル・ドラドの、さらに上にあった。街でいちばん高い丘の頂。ガラスと白い大理石でできた館。そこから見下ろす街は、スイッチひとつで明かりを消せる模型のようだった。
ゲオベルが入ってきた。グロリアはすでに二つのグラスを用意していた。赤ワイン。高級なもの。彼女は、それ以外の酒を口にしなかった。
エル・ドラドでは、ワインはひとつの教義だった。下にいる者たちはビールを飲んだ。手っ取り早く忘れるために。上にいる者たちはワインを飲んだ。自分たちが上にいることを、忘れないために。
「パブリシタールが面倒なことになっています」
ゲオベルは立ったまま言った。グロリアの家では、許しなく椅子に座る者はいなかった。グロリアは振り返らなかった。肥えてゆく家畜の群れでも眺めるように、街を見下ろしていた。
「クリスティアン?」
「クリスティアンです」
ゲオベルは答えた。
「CMはクソだ、と。ハイルの目の前で」
グロリアが笑った。一瞬だけ。刃のような笑みだった。
「それで、ハイルは?」
「いつものハイルですよ。懇願していました」
グロリアはグラスを手に取った。ゆっくりとひと口飲んだ。まるで時間そのものを飲むように。
「ハイルは、怯えているあいだは使える。でも、二十八歳の若造ひとり御せないのなら、もう使えない」
彼女は立ち上がった。机まで歩き、パブリシタールのファイルを開いた。そして、ひと文字も読まずに閉じた。読む必要などなかった。その会社にどれほどの価値があるのか。そして、それを壊すのに自分がどれほどわずかな代償しか払わずにすむのか。彼女は、もう知っていた。
「どの広告代理店も、私のフェスティバルに食わせてもらっている。ひとりのクリエイターが『ノー』と言って、それを私が見逃せば、明日には千人が『ノー』と言いだす」
「締め上げますか?」
「壊して」
グロリアは言った。
「脅すんじゃない。脅しは、これから何をするか相手に教えてしまう。私は予告なんかしない。壊すの」
そして続けた。
「外へ出たら、自分には何ひとつ残っていない。そう思い知らせて。どこの代理店も雇わない。烙印を押された男と一緒になりたがる女もいない。わかる?」
ゲオベルはうなずいた。グロリアの言葉には、形容詞がなかった。
あるのは、動詞だけだった。壊す。消す。閉ざす。
「それでも屈しなかったら?」
グロリアは、棺の蓋でも閉じるような静けさで、ファイルを閉じた。
「誰だって屈するわ」
彼女は言った。
「違うのは、そこまでにどれだけ時間がかかるかだけ」
そしてゲオベルを見た。
「フェスティバルまでに、あの男を跪かせて私の前へ連れてきなさい。できないなら、ハイルを代理店から追い出す。やり方は、あなたに任せる」
そのころ、ずっと下にある僕のオフィスで、僕はまだ、自分は会社を辞めたのだと思っていた。わかっていなかった。エル・ドラドでは、人は辞めることなどできない。追い出されるか。埋められるか。
その夜、僕は良心に何の曇りもなく眠った。グロリアは眠らなかった。権力は、眠らない。
◆辞職
翌日、僕は荷物を取りにパブリシタールへ戻った。ハイルは自分の部屋で待っていた。シャツの裾はズボンから出たまま。目の下には、濃い隈ができていた。僕が入るなり、彼はドアを閉めた。
「おまえ、正気か?」
怒鳴りはしなかった。そのほうが、ずっと悪かった。すべてを失いかけている人間の、低い声だった。
「昨夜、電話があった。グロリアとゲオベルからだ。おまえを抑えられなければ、俺から代理店を取り上げるって。二十年だぞ、クリスティアン。二十年なんだ」
「議論しに来たんじゃない」
「議論しに来たんだよ!」
ハイルは言った。
「おまえは好き勝手できるさ。俺には社員がいる。給料を払わなきゃならない。大学に通ってる娘が二人いる。俺はここで、おまえに何もかも与えてやった」
「仕事はもらった」
僕は言った。
「でも、僕を買ったわけじゃない」
ハイルは黙って僕を見つめた。手が震えていた。怒りではなかった。喪に服している人間の震えだった。エル・ドラドでは、誰かが「ノー」と言うと、その人間のための喪が始まる。
「何が欲しいんだ?」
ハイルは言った。
「もっと金か? 給料を上げる。クリエイティブ・ディレクターの椅子か? やるよ。おまえのものだ。だから、フェスティバルのことでごちゃごちゃ言うのはやめてくれ」
「金じゃない」
僕は言った。
「あれを売ることが、もうできないんだ」
「なぜだ!」
ハイルの声が跳ねた。
「おまえだって〈黄金のヴァギナ〉へ行って、ストレスを抜いてるじゃないか! そのときは道徳なんか気にもしないくせに。聖人ぶるな。俺はおまえを知ってるんだぞ」
痛かった。半分だけ、本当だったからだ。僕はそこへ行っていた。みんな通っていた。
それこそが、エル・ドラドが人間を黙らせるやり方だった。自由について問い始めないように、快楽を与える。
「昨日まで、あんたは僕の上司で、友人だった」
僕は言った。
「今日のあんたは、ただのグロリアの仲介人だ。僕は彼女のために働きたくない」
僕は自分の荷物を手に取った。
本が二冊。それに、ノートが一冊。それだけだった。ハイルがドアの前に立ちはだかった。
「そのドアを出たら、もう戻れないぞ。すべてのドアを閉ざされる。グロリアは何もかも持ってるんだ。おまえ、飢え死にするぞ」
「飢えて死ぬほうがいい」
僕は言った。
「尊厳を失って生きるよりは」
肩で、そっと彼を脇へ押した。強く押す必要はなかった。彼はもう、自分ひとりで倒れかけていた。オフィスを出ると、代理店じゅうの人間が僕を見た。誰も、何も言わなかった。たった一日で社会の外へ追いやられるというのは、たぶん、こういうことなのだ。
――明日は自分かもしれない。
そう知っている人間たちの、沈黙。外へ出ると、エル・ドラドはガソリンと揚げ物の匂いがした。何年ぶりだろう。空気には、冷房の匂いがなかった。街の匂いがした。自由の匂いがした。
◆蜜の罠
夜もだいぶ更けてから、セルマから電話があった。仕事を失って、もう何日も経っていた。蒸し暑い部屋で眠り、チャットのなかから自分の名前が消えていくのを、ただ眺めていた。
「どこにいるの?」
「どこにも」
「〈テクノ〉に来て。会いたい」
〈テクノ〉は、僕たちの店だった。グロリアのフェスティバルが始まる前。僕たちがまだ、服従ではなく、愛の行為のような広告を作っていたころ。店のいちばん奥、仕切られた席にセルマはいた。
テーブルにはグラスが二つ。彼女はもう、自分の酒に口をつけていた。痩せていた。撮影中、目の前にあるものが気に入らないとき、彼女はいつもあんな目をした。
「ひどい顔だな」
僕は言った。
「あなたのほうがひどい。最後にまともなもの食べたの、いつ?」
彼女はグラスをひとつ、僕の前へ滑らせた。
「ハイルから聞いた。あなたがやったこと。会社を辞めたって」
「追い出されたんだ。同じじゃない」
セルマは身体を滑らせるように、僕の隣へ来た。いつもの匂いがした。賞を取ったときに買った、あの高価な香水。僕たちが幸せだったころの匂い。エル・ドラドでは、香水は汗を隠すためにあるんじゃない。恐怖を覆い隠すためにある。
「私にもグロリアから電話があった」
セルマは声を落とした。
「あなたに、いいポストを用意するって伝えろって。私があなたを説得して戻せたら、フェスティバルのキャンペーンを二人に任せるって。半分ずつ。大金を稼いで、それから二人でここを出ればいい」
そのとき、分かった。これはデートじゃない。仕事だった。グロリアは、最初から兵隊を送り込んだりはしない。まず、あなたが愛している人間を使う。
「いくらもらうんだ?」
セルマの息が止まった。
「お金のためじゃない。怖いのよ。あなたにはわからない。グロリアから電話がかかってきて、言うとおりにしなければ、おまえを消すって言われるのが、どういうことか」
僕は彼女の手を取った。氷のように冷たかった。熱気に満ちたディスコで握る、冷えきった手。エル・ドラドを喩えるなら、これ以上のものはない。外側は祭り。内側は、低体温症。
「それで、なんて答えた?」
「やるって。あなたのことはよく知ってるから、考えを変えさせる方法もわかってるって」
彼女は一瞬、黙った。
「踊って。私と。……それでも嫌だっていうなら、私は帰る。グロリアには、できなかったって言うから」
音楽は耳を潰すほど鳴っていた。赤い光が、僕たちの顔を二つに切り裂いていた。
踊った。彼女の身体が、僕の身体に触れた。身体が憶えているとき、人は簡単に忘れることができる。セルマが耳もとで囁いた。
「うちへ行こう。みんなのことなんか忘れよう」
僕たちは店を出た。彼女の部屋は暗かった。明かりをつけようともしなかった。僕がドアを閉めるより先に、彼女は僕に口づけた。必死な口づけだった。この世界にもまだ、本物の何かが残っている。それを証明しようとでもするように。
僕たちはベッドへ倒れ込んだ。今度は、殴り合いもなかった。叫び声もなかった。ゆっくりだった。互いの身体を通して、もう一度、互いを見つけた。しばらくのあいだ、エル・ドラドは存在しなかった。やがて、二人とも汗に濡れ、息を切らして横たわっていると、セルマは天井を見つめたまま言った。
「ほら。こうして、ずっと一緒にいられるのよ。あなたが受け入れさえすれば。グロリアだって、『イエス』と言っていれば、そんなに悪い人じゃない」
罠が戻ってきた。グロリアが、腹話術師のようにセルマの喉の奥へ入り込んでいた。僕は服を着た。
「できないよ、セルマ。受け入れたら、僕はハイルになってしまう」
セルマはシーツで身体を覆い、泣き始めた。女優の泣き方ではなかった。怯えた子供のように泣いた。
「だったら、あなたは殺される」
彼女は言った。
「私も殺される」
外へ出ると、〈テクノ〉にいた二人の男が待っていた。ゲオベルがセルマを送り込んだのは、僕を誘惑させるためだけではなかった。僕に印をつけるためだった。二人の男は、僕を黒い車に押し込んだ。
◆罪と毒
目を覚ましたとき、自分がどこにいるのかわからなかった。鼻には管が入っていた。
左目は包帯で覆われていた。白い光が痛かった。身体を動かそうとすると、肋骨をほとんど全部へし折られたような痛みが走った。ドアのところには警官がいた。
僕を守るためじゃない。逃がさないために。看護師が、僕を見もせずに言った。
「昨夜、運び込まれたの。強盗に遭ったそうよ」
何ひとつ盗まれてはいなかった。財布は、まだポケットにあった。エル・ドラドでは、公式の物語はいつだって、ありふれた犯罪のせいにする。そうすれば、何ひとつ政治にはならない。
午後も半ばを過ぎたころ、セルマが来た。化粧はしていなかった。目は泣き腫らしていた。彼女はベッドの脇に腰を下ろした。
「ハイルから聞いたの。家に帰るところを襲われたって」
僕は答えなかった。口をきくのも痛かった。彼女を見るのは、もっと痛かった。
「クリスティアン、こんなことをされるなんて知らなかったの。少し脅されるだけだと思ってた……」
包帯のないほうの目で、僕は彼女を見た。
「ゲオベルに、僕の住所を教えたのか?」
セルマは黙った。その沈黙が、告白だった。
「セルマ。僕の住所を教えたのか?」
彼女はうつむいた。
「ゲオベルが、教えなかったら何もかも取り上げるって」
「そうか」
「誓って、私は――」
「帰ってくれ。頼む」
怒鳴り合いにはならなかった。そんなものは、必要なかった。彼女にはわかった。そして出ていった。廊下へ出るまでは、泣かなかった。ベッドから、その声が聞こえた。罪悪感に泣く声だった。数分後、ハイルが入ってきた。花を抱えていた。まだ自分は人間なのだと伝える、彼なりのやり方だった。
「具合はどうだ、息子よ」
「いいよ」
「医者が言ってた。一週間もすれば出られるって。おとなしくしてればな」
「誰が命令した?」
ハイルは、さっきまでセルマが座っていた椅子に腰を下ろした。
ドアの警官を見た。
「グロリアとは交渉できない。言っただろう。こうなったのは、おまえが『ノー』と言ったからだ。エル・ドラドでは、誰もグロリアに『ノー』とは言わない」
「殴られるって、知ってたのか?」
ハイルは答えなかった。
花を見つめた。
「退院したら、街を出ろ。ここではもう、おまえには印がついている」
少し間を置いた。
「チップを埋め込まれた。足首に。自分じゃ取れない」
それも、エル・ドラドが誇る革新のひとつだった。足枷など、もう要らない。皮膚の下に、ひと粒のシリコンを埋め込めばいい。あとは人工知能に、〈見張るべき人間〉を追わせればいいのだ。
「止めようとはしたんだ」
ハイルは言った。
「本当だ。信じてくれ」
「わかってる」
僕は言った。
「怖いんだろ」
ハイルが帰ると、僕は心電図モニターの電子音と二人きりになった。
そのとき、わかった。セルマが僕を裏切ったのは、彼女が悪い人間だったからじゃない。あまりにも、怖かったからだ。悪は、自ら選ぶ。恐怖は、命令に従う。それが、グロリアとセルマの違いだった。恐怖ゆえに従う者に必要なのは、憎しみではない。憐れみだ。もうひとつ、わかったことがあった。
ゲオベルは、まだ僕を殺すつもりではない。僕に印をつけたかったのだ。生きていること。足を引きずっていること。そして、身体のなかにチップがあること。そのすべてによって、僕は街を歩く一枚の看板になる。そこには、こう書かれている。
「見ろ。『ノー』と言った人間が、どうなるかを」
死んでしまえば、僕は殉教者になる。その夜、夢を見た。僕は、チップを埋め込まれた犬の群れに囲まれていた。どの犬も、グロリアに向かって尻尾を振っていた。
◆獣のサーカス
遠くまでは逃げられなかった。足首を撃たれ、僕は泥のなかへ倒れた。ブーツが身体にのしかかり、手錠をかけられ、黒い袋を頭からかぶせられた。袋を外されたとき、僕はフェスティバルの円形劇場にいた。あれほど大勢の人間を、一度に見たことはなかった。観客席を埋め尽くす何千人もの人々。中央には、人工芝を敷いた闘技場。周囲には、無数のカメラ。エル・ドラド全土へ、生中継されていた。
貴賓席にはグロリアがいた。隙のない姿。手には白ワインのグラス。その隣で、ピエドラ将軍が冷たく笑っていた。ゲオベルが突然消えたあと、彼女は弾圧装置の全権を握っていた。僕は闘技場の中央へ投げ込まれた。裸足だった。服は破れ、血にまみれていた。グロリアがマイクを手に取った。その声が、スピーカーを震わせた。
「エル・ドラドの市民たち。これが、あなたたちから自由を奪おうとした男です。このフェスティバルは汚れていると言った男。あなたたちを、罪悪感を抱えたまま教会へ戻そうとした男。よく見なさい」
観客が叫んだ。憎しみからなのか。見世物への興奮からなのか。エル・ドラドでは、もう誰にも区別がつかなかった。
「今日は、あなたたちが決めるのです。楽しみたくない人間を、どうしましょう?」
グロリアは親指を下へ向けた。観客も同じ仕草をした。何千もの親指。いや、何百万もの親指。家々のスクリーンの前でも、人々は投票していた。僕は理解した。僕は、生中継で殺される。見せしめにするために。
ピエドラ将軍が闘技場へ下りてきた。僕を見下ろした。
「最後の言葉を言え」
僕はひざまずいた。足首から血が流れていた。メインカメラのレンズを探した。
「僕はクリスティアン。パブリシタールで働いていた」
僕は言った。
「これはフェスティバルじゃない。商売だ。僕たちから水を盗んで、そのあいだに、奪われたものがどこへ消えたのか誰も訊かないように、このショーを見せている。僕は敵じゃない。今日、僕を殺しても、明日にはまた別の誰かが『ノー』と言う」
グロリアが苛立ったように合図をした。音声を切れ、と。だが、もう遅かった。若い技術者がひとりいた。かつて僕のもとで研修生をしていた男だった。彼は命令に背き、数秒だけカメラを回しつづけた。それで十分だった。
ピエドラ将軍が、ライフルの銃床で僕を殴った。僕は横倒しになった。最後に見えたのは、グロリアではなかった。観客席に設置された巨大スクリーンだった。そこには、血のにじんだ口を開けた僕が、巨大な姿で映っていた。
「また別の誰かが現れる」
そう言っていた。そのあと、兵士たちが僕を引きずっていった。その後に起きたことを、僕は語らない。公式の報告書には、こう書かれるだろう。
もみ合いの最中、心停止で死亡した。だが、街では別の話がされる。運び出されるあいだ、僕はグロリアが予想していなかったものを聞いた。沈黙だった。何千人もの人間が、完全に黙っていた。何年ものあいだ、誰も口にしなかったことを、誰かが初めて言った。台本に書かれていない言葉を。
◆その後……
グロリアは、いまもエル・ドラドを支配している。セクシュアル・フェスティバルは、観光事業として大成功を収めた。パブリシタールには新しいディレクターがいる。
何にでも「イエス」と言う、あの手の人間だ。
エステラ祖母の小屋は焼け落ちた。リズの遺体は見つかっていない。公式には、行方不明者のままだ。だが、国外へ出ていく彼女を見たという者もいる。手には、USBメモリを握っていたという。そのUSBには、すべてが入っていた。フェスティバルの契約書。ピエドラ将軍の地下室を撮影した映像。僕に埋め込まれたチップの記録。そして、グロリアの声。
「跪かせて、私のところへ連れてきなさい」
USBは、ひとりのジャーナリストの手に渡っている。彼が公表するかどうかは、わからない。エル・ドラドでは、ジャーナリストもまた、恐怖を抱えている。だが昨日、パブリシタールの壁に、誰かが黒いマーカーで書いた。
「僕も『ノー』と言う」
その下に、別の筆跡が続いた。
「私も」
さらに、その下にも。壁は、たくさんの言葉で埋め尽くされていた。
僕は死んだ。けれど……わからない。
◆コーダ
エル・ドラド情報局 機密記録第666号件名:現在故人となっているグロリア・マトロナ旧邸より回収された資料について
背景注記:本記録は、旧体制崩壊後に機密指定を解除されたものである。邸宅の金庫から、以下の三点が回収された。
1.皮下埋め込み型追跡チップ G-2型
回収時も作動中。チップには、エステラ祖母の小屋の座標、および47時間分の音声記録が保存されていた。
2.黒色USBメモリ メーカー不詳
手書きのラベルが貼られており、そこにはこう記されていた。
「誰もいなくなったときのために」
収録内容は以下のとおり。精神病院内で行われた拷問を記録した映像、12本。パブリシタールと大統領府とのあいだで締結された、総額数十億にのぼる契約書。そして、クリスティアンがこう語る姿を収めた、5秒間の映像。
「また別の誰かが現れる」
この映像が放送されることはなかった。公式のマスター映像からは削除されていた。
しかし、最高権力者であったグロリアが、戦利品として手元に残していたこの私的なコピーには、映像が保存されていた。
3.革表紙のノート 一冊
〈牧師〉の娘、リズの所有物と確認。最後の記述は、エステラ祖母の小屋が襲撃された翌日の日付となっている。以下、原文のまま転記する。
「これを読んでいるのがあなたなら、クリスティアン、私たちはうまくやれなかったということね。
私は今日か、明日には殺される。昨日、グロリアにこう言われた。
『あなたのこと、殺すには好きすぎるの。でも、黙っているあなたなら、もっと好き』
私は、何ひとつ後悔していない。あの女の屋敷に入ったことも。
ゲオベルを殺したことも。あなたを精神病院から連れ出したことも。ひとつだけ、知っておいてほしい。あの夜、おばあちゃんの家で、私たちはただ、ひとりでいたくなかった。口づけ。抱擁。眠り。それだけ。
何年ぶりだろう。あのときだけ、私はもう一度、人間になれた気がした。もしあなたが生きてここを出られたなら、私を探しに来ないで。立ち去って。これを世に出して。エル・ドラドの人たちに知らせて。私たち全員が『イエス』と言ったわけじゃない。
――リズ」
調査官付記:本ノートは、「セルマ」と名乗る匿名の情報提供者によって、世界各国の報道機関へ提供された。同人は現在、国際証人保護プログラムの保護下にある。
供述調書によれば、グロリアはクリスティアンの「処理」を命じたという。その理由として、グロリアはこう語ったと記録されている。
「『ノー』と言うひとりの人間は、『イエス』と言う何千人よりも危険だから」
G-2型チップは現在もなお、フェスティバルが開催された円形劇場の瓦礫の下から、微弱な信号を発しつづけている。その周波数を停止させることは、不可能である。
――記録終了
筆者紹介:ロベルト・トロバホ・エルナンデス(Roberto Trobajo Hernández)
世界ジャーナリスト評議会(GJC)ラテンアメリカ・カリブ地域ディレクター、AL PRESS代表(CEO)。キューバ出身、コロンビア在住。劇作家、ジャーナリスト。ラテンアメリカ・ジャーナリスト賞、アントニオ・ナリーニョ全国報道賞等を受賞。著書に『Teatro Clandestino(地下演劇)』、『Sobrevivimos(私たちは生き延びた)』。
■Fuente: https://www.actualidadglobalinternacional.com/post/apocalipsis-show
