フィデル・カストロとボゴタソ事件

執筆者:ロベルト・トロバホ・エルナンデス
キューバ人のフィデル・カストロとラファエル・デル・ピノは、ベネズエラ人のロムロ・ベタンクールと共謀し、スターリンのために活動していた。彼らはNKVD(KGBの前身)のロシア人スパイから資金提供を受けており、暗殺されたガイタンや「ボゴタソ(Bogotazo)」で命を落とした他の4,000人に対する責任がある。
※黒薮注:ガイタンは1940年代のコロンビアで絶大な人気を誇った自由党の政治家で、貧困層や労働者の支持を集めた。社会改革や格差是正を訴え、1948年には次期大統領の最有力候補とみなされ、「人民の代弁者」として広く支持されていた。
スターリンはNKVDの対外諜報活動を強化し、その指示のもと、ソ連諜報機関は共産主義インターナショナル(コミンテルン)を通じて工作員を潜入させ、秘密ネットワークを構築した。
ソ連の独裁者スターリンは極端な自己愛主義者であり、自分以上の人気を持つ指導者が世界に存在することに耐えられなかった。そのため彼は、ジョージ・マーシャル将軍への暗殺計画と、ホルヘ・エリエセル・ガイタンの抹殺を企てた。
マーシャルは当時アメリカ合衆国国務長官であり、第二次世界大戦の伝説的英雄だった。また、ヨーロッパを飢餓から救い、経済復興への道を開いたマーシャル・プランの立案者でもあった。彼は第9回パンアメリカン会議に出席して、米州機構(OAS)を創設する段取りになっていた。マーシャルはその場で、アメリカ大陸諸国への共産主義の浸透を阻止する方策を提案する予定だった。
ガイタンは民衆の指導者としてますます名声を高めており、すでに著名な社会主義者として認識され、コロンビア国外でも広く知られる存在となっていた。
これは純粋かつ不吉な地政学であった。スターリンは、マーシャルとガイタンが自分以上に名声を得ることを決して許そうとしなかった。
二人に対して死が運命づけられていた。最終的に暗殺されたのはガイタンだけであり、マーシャルは警察とCIAによって厳重に警護されていたため無事だった。
CIAは1948年2月2日、第9回パンアメリカン会議の警備責任者であった警察副長官代理ヴィルヒリオ・バルコ・セスペデス大佐に対し、共産主義者たちが会議を妨害するためにデモ活動や攻撃を計画しており、出席する外国要人やコロンビア人指導者への襲撃も含まれていると報告した。CIAが発見したその破壊工作計画は、ロシア側から資金提供を受けていた。
スターリンは、コミンテルン内部の工作員を通じて、第9回パンアメリカン会議と並行して「ラテンアメリカ学生会議」を開催するという構想を推進した。この学生会議は、表向きにはアルゼンチンのペロン主義青年組織によって企画・資金提供されているように見せかけられていた。
ソ連のその影響力を使って、アルゼンチン人、キューバ人、そしてベネズエラ人へと資金を流した。ペロン主義者たちは、共産党や自由主義的社会主義者に近いコロンビア人学生たちとともに、その会議を組織する任務を帯びてボゴタに到着した。
ハバナでは、フィデル・カストロ・ルスとラファエル・デル・ピノ・シエロが南米へ渡航できるよう「支援」活動が行われた。この二人には学生会議へ潜り込む任務が与えられていた。とはいえ、フィデル・カストロとラファエル・デル・ピノは学生会議への正式招待を受けていなかった。キューバの公式代表は、キューバ学生連盟の著名な指導者であったエンリケ・オバレスとアルフレド・ゲバラだった。
フィデルとラファエルはボゴタへ直接向かわず、まずカラカスへ飛んだ。なぜか、何のためにか?。
彼らはベネズエラの首都で、左派指導者ロムロ・ベタンクールと会うためだった。ベタンクールは、第9回パンアメリカン会議に派遣されるベネズエラ代表団の団長に選ばれていた人物であった。
ロムロ・ベタンクールは民主行動党(Acción Democrática)の党首であり、同志たちの全面的な支持を得て、オスピナ・ペレス大統領を打倒するために人員と武器を提供することを約束していた。反乱が始まれば、コロンビア軍の制服を着たベネズエラ人たちがコロンビア領内に侵入し、その蜂起を支援する手はずになっていた。そのための最も好都合な機会が国際会議であり、その妨害工作が行動開始の合図となるはずだった。
出発前夜、ロムロはフィデル・カストロとラファエル・デル・ピノに会い、彼らに強力な支援を与えた。3月29日、ベネズエラ人であるロムロがボゴタに到着したのと同時に、フィデルとラファエルはメデジン経由でコロンビアへ入国した。
フィデルちがボゴタに到着すると、フランス人のデモンに迎えられた。彼はパリのロシア系ネットワークを通じて送られた5万ドル以上の資金を携えており、その資金は会議期間中に共産主義的扇動活動を行うためのものだった。
フィデルとラファエルは、アルゼンチンのペロン主義派上院議員ディエゴ・ルイス・モリナリと接触した。彼らはキューバ人のホセ・パルド・リャダ(正統党の指導者でありフィデルの友人)から紹介されていた。モリナリは以前ハバナでパルド・リャダと知り合っており、その際、彼はキューバ学生連盟の指導者であるオバレスとゲバラを招待するためにハバナを訪れていた。
その結果、モリナリはフィデルの要請を受け入れ、フィデルとラファエルをキューバ学生代表団の一員として加えることに同意した。
反帝国主義学生会議を開催する学生グループへの潜入に成功したフィデルとラファエルは、次の段階へ進んだ。すなわち、彼らをガイタンへ接触させる人物との連絡である。
フランス人が彼らを宿泊させたクラリッジ・ホテル(16番街、7番街通りから3ブロックの場所)で、二人はガイタンへの接近を可能にする人物と出会った。デモンはロシア人サヴィンスキーを伴って現れたのである。
もうひとりは、シルベストレ・サヴィンスキー。彼は、いくつかの理由からこの仕事を引き受けていた。第一に、ソ連のスパイたちから、スターリンが恩赦を与えてくれると保証されたためである。これにより、泥棒かつ裏切り者として処罰される恐れなく生きられると考えた。
第二に、事件の反響が大きくなれば、自身が望んでいた「ボリシェヴィキ型革命」がコロンビアで実現すると信じていたためである。
第三に、当時フリーメイソンであった彼は、ボゴタのフリーメイソン組織「ヴェリタス・ヴィンキト13(Veritas Vincit 13)」に所属する自由主義派メイソンの仲間たちを利用することができたからである。ガイタンは1939年11月11日にそのロッジへ入会しており、暗殺の数週間前にはフリーメイソン第2階級に昇格していた。
こうしてサヴィンスキーは、自由主義派メイソンたちを通じて、1948年4月8日にフィデルとラファエルをガイタンの事務所まで案内することに成功したのである。
ガイタンとの会談で、フィデルは学生会議の開会式にガイタンを招待した。そして、ガイタンが演説を行う予定とされたその催しの詳細について話し合うため、翌日に再び会うことが取り決められた。
4月9日午後1時少し前、ラファエル・デル・ピノとフィデル・カストロはグラナダ薬局の近くに陣取った。そこから彼らはロア・シエラの姿を見ていた。ロア・シエラは、就職のための推薦状を書いてもらおうとしてガイタンを待っていたのである。
午後1時5分、ガイタンが友人のプリニオ・メンドーサ・ネイラとエリセオ・クルスを伴って現れた。するとラファエル・デル・ピノがガイタンに発砲し、フィデル・カストロはロア・シエラを薬局の中へ押し込んだ。そして集まってきた群衆に向かって、「ロアがガイタンを殺したのだ」と叫んだ。
激怒した群衆はロア・シエラに容赦ない暴行を加え、彼を縛り上げて大統領官邸まで引きずっていった。その一方で、フィデルとラファエルは、ロシア人によって訓練された任務を果たした後、7番街通りを通ってその場を離れた。
その後の行動も同様に正確に遂行された。彼らは学生たちを扇動して破壊活動に参加させ、第5警察署に赴いて武器を入手し、会議を警備していた兵士たちに向けて発砲させた。
CIAと軍は、第9回パンアメリカン会議を妨害するために混乱を指揮していた「ロシア人」を捜索する大規模な追跡を開始した。しかし、彼らはフィデル・カストロとラファエル・デル・ピノを発見できなかった。なぜなら、捜索対象はロシア人であり、二人はキューバ人だったからである。
フィデルとラファエルは、メキシコ労働組合連合の指導者ロンバルド・トレダーノを頼った。彼は表向きには闘牛用の牛を購入するためにボゴタへ来ていたとされていた。トレダーノは、4月11日の日曜日に自家用機で二人をパナマへ連れ出し、彼らに向けられる嫌疑から速やかに逃れさせた。
これらは後年、マイアミでラファエル・デル・ピノがミゲル・サンタマリア・ダビラとの会話の中で行った告白であるとされている。
ミゲル・サンタマリア・ダビラは、弁護士、元国会議員、元州知事、元外交官、コロンビア畜産連盟および国際畜産連盟の元会長、コロンビア陸軍予備役大佐であり、現在はコロンビア・ボリバル協会会長を務めている人物である。
その後メキシコで、フィデル・カストロがキューバでゲリラ闘争を開始するための遠征計画を準備していた頃、フィデルとラファエルは対立し、互いに敵対するようになった。
アメリカ市民権を持っていたラファエル・デル・ピノは、マイアミに居住していた。
しかし、フィデル・カストロは彼に罠を仕掛けた。すでにキューバ大統領となっていたフィデルは、関係修復と友情回復を口実に、1959年7月にラファエルをハバナへ招待した。
しかし、ラファエル・デル・ピノが飛行機を降りると直ちに逮捕され、キューバ国内で反革命分子の逃亡を助けた共犯者であると告発された。そして、キューバ体制下の裁判の末、30年の政治犯としての刑を宣告された。
1977年8月8日、彼はハバナのコンビナド・デル・エステ刑務所の独房で首を吊った状態で発見された。
こうしてフィデル・カストロは、自らのボゴタでの行動、ガイタン暗殺、彼が関与したとされる兵士たちの死、そしてボゴタ市民を混乱へと追い込んだ責任を隠そうとしたのである。また同時に、政府転覆を目的とする武装蜂起の実情を見極めようとしていたとされる。
筆者紹介
ロベルト・トロバホ・エルナンデス。
世界ジャーナリスト会議(WJC)ラテンアメリカ・カリブ地域ディレクター、AL PRESS代表(CEO)

