2026年07月24日 (金曜日)
閉ざされた扉の向こうにある司法――日本における法廷アクセスの問題

次の記事(上写真)は、世界ジャーナリスト評議会(GJC、トルコ)の国際誌『Global Media』に掲載した記事(筆者・黒薮)の日本語訳であある。左ページはトルコ語、右ページは英語。
安倍晋三元首相を暗殺した罪に問われた山上徹也被告の裁判は、日本でこれまで十分に注目されてこなかった問題、すなわち一般市民による司法制度へのアクセスのあり方を浮き彫りにした。
2026年1月、奈良地方裁判所は山上被告に無期懲役を言い渡した。この事件は国内外から大きな関心を集めたが、実際に公判を傍聴できた人はごくわずかだった。
計15回の公判には、毎回700人から800人が傍聴を希望して裁判所を訪れた。しかし、用意された傍聴席はわずか64席だった。その半数は抽選で一般市民に割り当てられ、残りは裁判所の判断により、報道機関やフリーランスのジャーナリストに配分された。
外国人記者のうち、すべての公判に出席したのはただ一人、フランス人ジャーナリストで元AFP通信特派員のカリン・ニシムラ氏だけだった。ニシムラ氏は月刊誌『世界』への寄稿記事で、この裁判をきっかけに、日本の司法制度の透明性をめぐる、より広範な問題を提起した。
フランスでは、社会的関心の高い事件の裁判が行われる際、仮設法廷を設けたり、映像システムを使って複数の部屋をつないだりすることで、より多くの人が傍聴できるようにすることがある。2015年11月に発生したパリ同時多発テロ事件をめぐる裁判では、当局が約500席を備えた仮設法廷を設置した。それでも席が足りないことが明らかになると、映像中継と大型スクリーンを用いて、さらに11の法廷に審理の様子を中継し、数千人が裁判の経過を見守れるようにした。
日本では、社会的意義の大きな事件であっても法廷への入場が厳しく制限されているため、このような対応は想像しにくい。
福島原発事故とその法的余波
この問題は、山上被告の裁判に限ったものではない。原子力をめぐる訴訟でも、同様の傾向が見られる。
2011年の地震と津波によって引き起こされた福島第一原発事故の後、政府や東京電力を相手取った数多くの訴訟が提起された。その多くは現在も続いている。
例えば、福島県で実施された甲状腺検査では、子どもや若年層の間で多数の甲状腺がんが確認されており、その原因や法的責任をめぐる議論が続いている。日本が地震の多い国であることや、原子力エネルギーをめぐって長年議論が続いてきたことを考えれば、こうした訴訟に国民の関心が集まるのは当然だろう。
しかし、裁判へのアクセスは依然として制限されている。多くの市民は自ら公判を傍聴することができず、メディアの報道に頼らざるを得ない。小規模な週刊誌や月刊誌は、原告や被災地の視点に立った貴重な報道を行うことが多いものの、大手新聞やテレビ局ほどの発信力や影響力は持っていない。
法廷へのアクセスは問題の一部にすぎない
日本では、一般の傍聴人が法廷での審理を撮影したり、録音・録画したりすることは、原則として禁止されている。ジャーナリストも同様の制限を受ける。そのため、スマートフォンで社会のほぼあらゆる場面を即座に記録できる時代になっても、法廷スケッチは依然として裁判報道に欠かせないものとなっている。
さらに近年、新たな課題も浮上している。裁判所では、デジタルプラットフォームを通じて法廷と法律事務所をつなぎ、一部の手続きをオンラインで行うケースが増えている。こうした仕組みは効率を高める一方で、一般市民から裁判の過程を見えにくくする恐れもある。事件に直接関わっていない人にとっては、審理で何が起きたのかを知る現実的な手段がほとんどない場合も多い。
その結果、一般市民が裁判について理解するためには、審理への立ち入りを認められた比較的少数の記者に大きく頼らざるを得なくなる。重要な法的議論が、ごく限られた視点を通してしか伝わらないというリスクが生じるのである。
とはいえ、日本に表現の自由がないわけではない。法律上、言論の自由と報道の自由は強く保障されている。実際、第二次世界大戦後の日本は、概してジャーナリストを政治的迫害から守ってきた実績があり、この点では他の多くの国と比べても良好な状況にある。
国境を越えるジャーナリズム
民主主義社会は、法的に発言する権利だけでなく、情報を収集する能力によっても支えられている。裁判手続きへのアクセスが制限され、写真撮影や録音・録画が禁止され、公判がますます一般の人々の目の届かないところで行われるようになれば、市民は、自分たちの名の下に正義がどのように執行されているのかを理解するうえで、大きな障害に直面することになる。
こうした制限は長い間「当たり前」のものとして受け入れられてきたため、批判の対象になることはほとんどない。多くの日本人ジャーナリストは、キャリアを通じてこの制度の中で仕事をしてきた。慣れ親しんだ慣行は、時として問題として認識されにくくなるものだ。
だからこそ、ジャーナリスト同士の国際交流が重要になる。他国の制度に目を向けることで、自国では疑問を持たれないまま受け入れられている前提に気づくことがある。透明性、効率性、プライバシー、安全保障の間でどのようにバランスを取るかは、社会によって異なる。完璧な制度は存在しないが、他国との比較は、自国の制度を見つめ直すきっかけになる。
ジャーナリズムは、国境を越えることで豊かになる。他の民主主義国が共通の課題にどのように向き合っているかを検証することで、記者は自国社会に対する新たな視点を得ることができる。世界の相互依存がますます深まるなか、こうした知見や発想の交換は、ジャーナリズムが果たす最も価値ある役割の一つだと言えるだろう。
