
次に示すのは、ここ10年間における中央紙のABC部数の変遷である。社名の左側の数字は2017年11月のもので、()内は10年前、つまり2007年11月のものである。
朝日 6,136,337(8,010,922)
毎日 2,942,247(3,882,063)
読売 8,713,985(9,983,032)
日経 2,702,584(2,882,495)
産経 1,519,645(2,167,187)
朝日新聞は約187万部、読売新聞は約127万部、毎日新聞は約94万部の減部数となっている。これら3社の減部数の合計は、約408万部となり、発行部数が44万部程度の京都新聞社が、9社消えた状況に匹敵する。大変な凋落ぶりである。
しかも、メディア黒書で繰り返し報じてきたように、これらの部数には「押し紙」が含まれているので、実際には、ABC部数に現れた数値よりもさらに部数減の規模が大きい可能性が高い。
■■「押し紙」とは?
「押し紙」とは、新聞社が新聞販売店に対して、搬入する新聞のうち、配達されないまま回収される新聞のことである。たとえば2000部しか配達していない販売店に3000部を搬入すると、過剰になった1000部が「押し紙」である。偽装部数ともいう。
ただし、予備紙(配達中の破損などに備えて余分に確保しておく新聞で、通常は、搬入部数の2%)は、「押し紙」に含まれない。
公正取引委員会の見解は、実際に配達する新聞の部数に予備紙をプラスした部数が、正常な新聞販売店経営に必要な部数であって、それを超えた部数は、機械的にすべて「押し紙」と定義している。新聞社は、「押し紙」についても、卸代金を徴収する。
新聞人ら(ここでは新聞社の経営陣)は、一貫して「押し紙」は1部も存在しないと主張している。しかし、次の動画を見る限り、故意に嘘をついているとしか思えない。ちなみに今年、新聞人らが新聞週間のために決めた標語は、「新聞で見分けるフェイク 知るファクト」である。彼らは、次の動画を凝視すべきだろう。
【動画】「押し紙」の回収。本記事とは関係ありません。
【参考動画】
■新聞週間の標語「新聞で見分けるフェイク 知るファクト」の裏面で新聞部数の偽装「押し紙」、大量廃棄される天満屋の折込広告
■新聞の凋落、水増しされ大量廃棄される県民共済の折込広告、「折り込め詐欺」の実態
■新聞没落、1販売店から月間30トンの「押し紙」、「折り込め詐欺」の発覚でクライアントが折込広告に見切りか?

天満屋ハッピーマートは、(株)天満屋ストアが経営するスーパーマーケットチェーンである。店舗は岡山県、広島県、鳥取県などにある。
メディア黒書のシリーズ「折り込め詐欺」の実態。7回目は、天満屋ハッピーマートの折込広告である。撮影は2011年。同社の折込広告が、水増しされ、配布されないまま、段ボール箱に詰められて廃棄されている場面を紹介しよう
ちなみにビデオの前半に静止画で登場する段ボール箱は、折込広告を入れる「容器」の役割を果たしている。「容器」に入れる理由は、中味が水増しされた折込広告であることを隠すためだ。むき出しの状態では、「紙の墓場」へ運搬できないからだ。
販売店の店主が起こした「押し紙」裁判では、この段ボールを新聞社側が販売店へ提供していた事実が、判決の中で認定されている。
ちなみに今年の新聞週間(日本新聞協会主催)の標語は、「新聞で見分けるフェイク 知るファクト」である。新聞の実配部数に関して「フェイク」の情報を堂々と発表すると同時に、「折り込め詐欺」を放置してきた同協会が、こうした標語をかかげること自体が滑稽だ。
「押し紙」問題に正面から向き合うべきだろう。
【参考動画】

メディアは、ジャーナリズムの取材対象のひとつである。実際、大手の書店へ行くと、「メディア」、「出版」、「放送」などの書棚が設けてある。いずれも人気のある分野とはいえないが。
しかし、その関心が低いメディアという分野は、実はわれわれの日常と極めて近い位置にある。テレビや新聞、それにインターネットなどを通じて、人々は常に新しい情報を求めている。地下鉄の車内で、スマホに夢中になっている人々の光景は、いまや当たり前だ。
が、それにもかかわらずメディアによって、自分の価値観や世界観が影響を受けていることを自覚している人は皆無に近いだろう。その結果、気づかないうちに世論誘導されていたという事態も起こっているのだ。
『電通 巨大利権』(CYZO)の著者・本間龍氏は博報堂で18年間、テレビCMや新聞広告、それにイベントなどPR戦略をコーディネートする営業の仕事を担当した経歴を持つ。これまで、政府の原発推進政策を支持する世論が、実は莫大な量の原発広告により形成されてきた事実や、近い将来に予測される憲法改正国民投票の勝敗が、広告戦略を進めるための資金力の優劣によって決せられる危険性など、同時代の重要な問題を指摘してきた。
本書は、日本のメディアがどのような経営構造の上に成り立ち、それがジャーリズムにどのような負の影響を及ぼしているかをえぐり出している。日本でも世界でもメディアの主要なビジネスモデルは、改めて言うまでもなく、広告収入を財源としたジャーナリズムである。特にテレビ局は、ほぼ全面的にテレビCMに経営を依存している。
その広告収入を確保するためにメディア企業とスポンサー企業の間に入っているのが広告代理店である。その中でも、独占的な地位にあるのが巨大企業・電通である。本書は、その「電通問題」に正面から切り込んでいる。
◇電通が独占企業になった背景
2014年度の電通の売上げは、国内が1兆8000億円で、海外は2兆8000億円である。総計でなんと4兆6000億円にもなるのだ。日本の広告業界の中では、テレビCMから新聞広告まですべての分野でトップの座を占め、業界2位の博報堂とも大きく水をあけている。電通が巨大化したのは、海外の広告代理店ではあり得ない特権を与えられてきたからである。たとえば「一業種多社制」の容認である。
日本と世界の広告業界の最大の違いは、担当できるスポンサーの数にある。世界的には、ある業界で複数のスポンサーを担当できない一業種一社制が大勢である。つまり、自動車業界で仮にトヨタを担当したら、日産やホンダは担当できない。もちろん外資もダメということだ。(略)
電通も博報堂も、あらゆる業種のスポンサーを山のように抱えており、これが両社の巨大化の要因となっている。欧米の代理店は一業種一社に縛られているから、一社単位での企業規模拡大には限界がある。まさに日本でしか通用しないスタイルなのだ。
また、巨大化の原因として本間氏は、総合広告代理店としての性質も指摘する。総合広告代理店というのは、ひとつの代理店の中に、営業部門から制作部部門、それにSP(セールスプロモーション)部門が同居している広告代理店を意味する。これは日本に特有な形態で、海外では部門ごとに会社が異なる。
欧米でこれらを分けているのも秘密保持と寡占を抑制するためだが、日本では一気通貫の利便性の方が優先されている。もちろん日本にもそれぞれの専門会社はあるが、多くは電通・博報堂の傘下で仕事を割り振られる形式になっている。
さらに本間氏は、広告枠を確保する役割とそれを販売する役割を同じ広告代理店が担当していることも、問題として指摘する。世界的には希だという。
これの何が問題かというと、スポンサーのために広告枠を購入するはずが、実はその代理店が持っている広告枠を都合良く埋めただけ、という可能性が生じるためだ。もちろん、それが本当にスポンサーが要求した広告枠なら問題ないが、往々にして代理店が持っている枠の「在庫整理」に利用される恐れもある。そのため海外では禁止している国が多い。
このように電通が巨大化していった背景には、国が広告業界に対して、法的な規制をしてこなかった事情があるのだ。
◇テレビCMの約四割が電通「枠」
読者は広告の「枠」とは何かをご存じだろうか?
テレビCMには、それを放映するための「枠」がある。通常は、15秒か30秒である。新聞広告にも、それを掲載するための「枠」がある。当然、「枠」の価格は、テレビCMであれば、視聴率の高い時間帯の方が高くなり、新聞広告であれば、読者の目に止まりやすい紙面が相対的に高くなる。
電通の強みは、確保している自社「枠」が多いことである。テレビCMに至っては、約4割が電通「枠」である。
これが電通によるメディア支配の具体的な形なのである。広告主は、自分が希望する枠を確保するために電通と良好な関係を構築しなければならない。関係を悪くすれば、最悪の場合、出稿できなくなる。
一方、メディア企業も電通と良好な関係を構築しておかなければ、広告主を紹介してもらえない。
このような三者関係の上に日本のメディア企業は成立しているのである。と、なれば既存のメディア企業が電通を正面から批判することは難しい。また、経営の基盤が広告であるから、広告主の批判も出来ない。批判されそうになれば、電通を通じて、メディア企業と「交渉」することもできる。こうした慣行の中で、過剰な電通タブーが生まれたと本間氏は指摘する。
なお、広告主は高額な広告費を投入すれば、番組内容そのものにも影響を及ぼすことができる。たとえばニュース番組で、どのようなニュースを流し、どのようなニュースを流さないかにより、形成される世論は異なってくる。副次的に見れば、大口広告主は日本の世論をも誘導していることになりそうだ。この点についても本間氏は本書で指摘している。
◇五輪ボランティアの問題
ジャーナリズムの光が届かないところは、ブラックボックスである。ところがこのところ、電通の体質が暴露されはじめた。本間氏は本書の中で、東京オリンピックのエンブレム問題を皮切りに、オリンピック誘致裏金疑惑、インターネット業務での「不適切取引」の問題、高橋まつりさん過労死事件などを取りあげている。
これらの事件は一昔前であれば、電通とメディア企業の力関係からして、大きな話題になることはなかった。が、状況は変わり始めている。その大きな要因のひとつとして、本間氏はSNSの存在を指摘する。SNSの台頭により、既存メディアも電通問題をまったく無視するわけにはいかない状況が生まれているというのだ。
しかし、それはまだ始まったばかりの社会現象で、たとえばまったくジャーナリズムが指摘していない大問題も残っている。それが五輪組織委と電通が仕切っているオリンピックのボランティア活動で、参加者をただ働きさせようと計画している問題である。
電通はオリンピック関連の広告やCMを一手に引き受けることで莫大な利益を得ることになるが、なぜかボランティア活動は無償なのである。ブラック企業大賞の受賞から、何の教訓も得ていないのである。
◇メディア企業の経営基盤
メディアの性質を検証するとき、そのメディアがどのような経営基盤の上に成り立っているかを知ることは不可欠だ。これを無視すると、日本のメディアの本質が見えない。洗脳や世論誘導の形も認識できない。そのことを本書は具体的に教えてくれるのである。
タイトル:『電通 巨大利権』
著者:本間龍
版元:(株)サイゾー
2017年10月30日 (月曜日)

テレビを通じて日常生活の中に歪(ゆが)んだ価値観が広がっている。先週だけでも、筆者は3件の洗脳まがいの例に遭遇した。
まず、プロ野球のドラフト会議を通じた視聴者の洗脳である。あるテレビ局は、ドラフト候補の選手を事前に取材して、彼らの口から両親への「感謝の気持ち」を繰り返し語らせていた。感謝すること自体は望ましいことだが、問題は、心がけをよくすれば、「道は開ける」という誤った観念を視聴者に植え付けることである。
幾ら努力してもプロ野球の選手になれるのは、ほんの一部に過ぎない。ドラフトにかかっても活躍できるのは、さらにその一部の選手である。
「感謝の気持ち」は大事だが、感謝するだけでは、どうにもならない事もあるのだ。感謝する気持ちの育成は、1960年度の中教審「期待される人間像」の理念とまったく同じだ。
◇素質がすべての五輪
先週は、東京オリンピックまで1000日を切ったこともあって、オリンピック関連のテレビ番組がいくつか放映された。番組の中で、オリンピック出場を夢見る若い世代が次々と紹介された。
そこでも、やはり視聴者に対してある誤った観念の押しつけが行われていた。「努力すれば報われる」という観念である。しかし、これはオリンピックのレベルについては、真実ではない。
陸上競技の世界選手権メダリスト(400メートルハードル)・為末大守氏だったと思うが、新聞関係者が主催した講演で、オリンピックに出られるのは才能がある人だけという意味の発言をしたことがあった。この発言は、冷酷なようで実は的を得ている。主催者は、おそらく為末氏に「努力すれば報われる」と言わせたかたのではないかと思うが、オリンピックのレベルになると努力だけではどうにもならない。
才能と素質がある人が、死にものぐるいの努力をしてはじめて舞台に立てるのだ。メダルとなるとさらに遠い。ところがテレビのオリンピック関連番組を見ていると、努力すれば報われるというような誤った観念を押しつけている。
◇物事には「感謝」していいものと悪いものがある
さらにDJポリスを利用した警察のイメージ作戦も悪質だ。オリンピックを機に英語を話すDJポリスが登場するとテレビが報じていたのだが、DJポリスの活動で、警察のイメージアップを図り、その一方で警察の権限を強めていく政策が進んでいるのが実態だ。
警察や検察のレベルは、ここ数年極めて劣化している。それは森友学園や加計学園事件の対応をみれば一目瞭然だ。
警察のイメージアップ作戦としては、過去には読売新聞が主催する「わたしの町のおまわりさん」作文コンクールなどもあった。児童が警察の肯定的な側面を作文で描くコンクールである。
このようにメディアを通じた洗脳は、大半の人々が気づかないだけで日常的に行われている。これが厄介なのは、努力したり、感謝する行為そのものは、全く否定すべき性質のものではないからだ。
しかし、努力と感謝だけで、自分の置かれている状況を変えることが出来るか否かという問題になるとそう単純ではない。たとえばブラック企業の中で、従業員がいくら努力と感謝を重ねても状況は改善しないだろう。問題点を客観的に洗い出して、具体策を採らないかぎり物事は解決しない。それが正しい思考方法なのである。
物事には「感謝」していいものと悪いものがある。「努力」するにも、その方向性を見極める必要がある。このあたりを区別しないテレビ番組は、公共性を欠いている。

2017年9月のABC部数が明らかになった。それによると新聞の部数減の傾向にはまったく歯止めがかかっていない。ここ1年で、朝日新聞は約30万部、読売新聞は約23万部、それに毎日新聞は約11万部の部数を減らした。
朝日 6,136,337(-296,822)
毎日 2,942,247(-107,150)
読売 8,713,985(-228,146)
日経 2,702,584(-22,677)
産経 1,519,645(-49,203)
地方紙とブロック紙を含めて、一般紙で部数を増やした新聞社は1社も存在しない。軒並み部数を減らしている。次に示すのは、全国76紙のABC部数である。
◇「新聞で見分けるフェイク 知るファクト」
なお、ABC部数には、「押し紙」が含まれている。
「押し紙」とは、新聞社が新聞販売店に対して、搬入する新聞のうち、配達されないまま回収される新聞のことである。たとえば2000部しか配達していない販売店に3000部を搬入すると、過剰になった1000部が「押し紙」である。偽装部数ともいう。
ただし、予備紙(配達中の破損などに備えて余分に確保しておく新聞で、通常は、搬入部数の2%)は、「押し紙」に含まれない。
公正取引委員会の見解は、実際に配達する新聞の部数に予備紙をプラスした部数が、正常な新聞販売店経営に必要な部数であって、それを超えた部数は、機械的にすべて「押し紙」と定義している。新聞社は、「押し紙」についても、卸代金を徴収する。
今年の秋の新聞週間の標語は、「新聞で見分けるフェイク 知るファクト」であるが、「押し紙」行為こそがフェイク情報の典型といえよう。ダフ屋まがいの新聞人によるしつこい新聞拡販はなくなったが、実配部数を偽る行為はまったく解決していない。それゆえにABC部数を解析する際には、注意を要する。ABC部数が必ずしも実配部数を意味するわけではない。
【動画】「押し紙」を回収する現場。ABC部数がフェイク情報であることの裏付け。
【写真】毎日新聞の「押し紙」。毎日新聞・蛍池販売所の元所長・高屋肇氏提供。
2017年10月26日 (木曜日)

5年に一度の中国共産党大会が、25日に閉幕した。
この大会で決定された事項の中で、最も注目されるのは、党の規約に「新時代の特色ある社会主義」を明記したことである。ところが日本のメディアは、その中味については、ほとんど報じていない。
「中国共産党の第19回党大会が18日、北京の人民大会堂で開会した。習近平総書記(国家主席)が党の運営方針をまとめた中央委員会報告(政治報告)を発表し、建国100年の2049年までに「富強・民主・文明・調和の美しい社会主義現代化強国」を築く新たな目標を打ち出した。改革開放によって発展した中国に、新たな路線が敷かれたことになる。」(毎日)
これでは具体的な「特色ある社会主義」の中味がまったく分からない。日本の主要メディアが強調したのは、むしろ習近平体制が独裁化するという推測である。
「これは新たな個人独裁ではないのか。おととい閉幕した中国共産党大会と、きのう発足した党指導部の人事から、そんな疑念が湧いてくる。」(朝日)
「中国共産党は、新たな最高指導部を25日に発表し、習近平国家主席の2期目が始動した。注目された最高指導部は、ポスト習世代が入らず、長期政権への布石ともいえる人事となった。」(NNN)
「習主席は、大きな権力を集中させる形で2期目の指導部を発足させ、5年の任期のあとも最高指導者としてとどまる可能性が強まっています。」(NHK)
本来、伝えなければならないのは、前者、つまり「特色ある社会主義」の中味の方なのだが、日本のメディアは習近平主席のバッシングに熱心だ。北朝鮮に対するバッシングと共通したものを感じる。
◇社会主義VS新自由主義
中国についての評価は多様で、一括りにはできないが、日本のマスコミにはある特徴的な傾向がある。それは中国が社会主義に失敗して、資本主義の路線を取ったとする認識である。この認識は、旧ソ連や旧東ヨーロッパの国々を解析する際も同じだ。社会主義は失敗であって、資本主義の路線に切り替えざるを得なくなったとする視点である。このような報道により、資本主義の優位性をPRしてきたのである。
私は、中国が社会主義体制下で外資の導入をはじめた鄧小平の時代から、資本主義の路線を選択したとは考えていなかった。高い経済力をつけなければ、福祉国家、あるいは社会主義への移行が出来ないから、歴史の発展段階の中で、「資本主義」を導入しただけに過ぎないと考えていた。
それゆえに今回の共産党大会で、「特色ある社会主義」が宣言された意味は極めて大きい。一定の経済力を背景に、これから本格的な社会主義の基盤を築いていくことが可能になったということなのだ。経済力と社会主義が連動した時、どのような社会が現れるかという壮大なテーマが含まれているのである。
新聞やテレビの読者・視聴者が報道してほしいのは、その中味の予想なのだ。
筆者が取材した限りでは、習近平体制になってから、急激に社会格差が縮まっている。定年は男性が60才、女性が50才で、退職後は年金で生活できる。受給額も物価に完全にスライドしている。生活必需品が安い。餓死者はでない。社会主義の形が現れてきたのである。スラムで餓死する人が出ている米国との差は、今後、どんどん顕著になるだろう。
中国が近々に実現するだろう福祉社会のモデルは、21世紀の後半に世界規模で広がる可能性がある。それしか資本主義(新自由主義)の矛盾を克服する道が残されていないからだ。
キューバが外資を導入したがっている背景にも、同じ事情がある。経済力を付けなければ、本当の意味での社会主義への移行は難しい。
20世紀の社会主義革命は、選挙で実現した南米のチリも含めて、例外なく資本主義が十分に発達しない段階で行われた。左派しかファシズムと戦う戦士がいなかったからだ。そうならざるを得なかったのだ。従って旧社会主義圏の崩壊が社会主義思想の誤りという見方は、基本的に誤っている。歴史がどのような段階を経ながら前へ進むのかを、もう少し広い視野で考えてから報道する必要があるのだ。
習近平体制が5年後も続くかどうかという点は、本質的な問題ではない。

新聞販売店の元店主A氏が毎日新聞社に対して起こしている「押し紙」裁判の本人尋問が、来年の1月25日に東京地裁で開かれることが分かった。だれでも傍聴できる。A氏が毎日新聞社に請求している賠償額は約6000万円。和解には応じない方針のようだ。
筆者の手元にある内部資料をもとに、たとえば2015年8月ごろの取引実態を検証すると、A氏が購読契約を結んでいた読者は473人しかいなかったのに、毎日新聞社は約1573部の新聞(卸部数)を一方的に搬入していた。その結果、約1100部が過剰になっていた。毎日新聞社はこの部数についても、新聞の卸代金を徴収していたのである。「押し売り」行為である。
これにより発生した損害のうち、A氏は約6000万円の賠償を求めている。
この裁判の特徴は、A氏が周到な準備を重ねた上で提訴に踏み切ったことである。
A氏が店主になったのは、2012年。開業した当初から、「押し紙」があった。そこで「押し紙」行為を中止するように繰り返し申し入れた。しかし、毎日新聞はA氏の要求には従わず、過剰な新聞の搬入を延々と続けたのである。その結果、店舗が「押し紙」の海になった。
怒ったA氏は、毎日新聞の担当員との会話を全て録音して保存するようになった。会話記録の量は膨大で、それだけでも、新聞人による新聞の「押し売り」やパワハラを立証することができる。
◇なぜ、密室裁判なのか?
A氏は毎日新聞との取引を中止した後、2016年に裁判に踏み切った。ところが、裁判所は「弁論準備」の名目で、公開法廷を開かなかった。弁論準備の名目で密室で行ったのである。が、これはルール違反である。
意外に知られていないが、裁判は公開することが原則になっている。憲法82条は次のように述べている。
裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。
裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行ふことができる。但し、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない。
なぜ、密室で行われてきたのかは不明だが、政治的な配慮が行われた可能性が高い。日本全国のほとんどの新聞販売店には、「押し紙」があり、これを排除すると、新聞社の経営が成り立たなくなる。その結果、権力を持ち、新聞社と癒着している勢力は、新聞を世論誘導の道具として使うことができなくなる。こうした配慮から、裁判所は「押し紙」裁判では、少数の例外的ケースを除いて、常に新聞社を勝訴させてきた。
しかし、A氏の裁判は、録音記録の量が極めて多く、しかも、新聞人のパワハラ的な言動が記録されている。場合によっては、インターネットでの公開に踏み切る可能性もある。司法がおかしくなって来た時代だけで、A氏も裁判内容の全面公開を希望している。
なお、尋問が行われる法廷番号は、現時点では未定である。分かりしだいにメディア黒書で告知する。
■■「押し紙」とは?
「押し紙」とは、新聞社が新聞販売店に対して、搬入する新聞のうち、配達されないまま回収される新聞のことである。たとえば2000部しか配達していない販売店に3000部を搬入すると、過剰になった1000部が「押し紙」である。偽装部数ともいう。
ただし、予備紙(配達中の破損などに備えて余分に確保しておく新聞で、通常は、搬入部数の2%)は、「押し紙」に含まれない。
公正取引委員会の見解は、実際に配達する新聞の部数に予備紙をプラスした部数が、正常な新聞販売店経営に必要な部数であって、それを超えた部数は、機械的にすべて「押し紙」と定義している。新聞社は、「押し紙」についても、卸代金を徴収する。
【動画】「押し紙」の回収。本記事とは関係ありません。

複数の海外メディアによると、チリのノーベル賞詩人で『大いなる歌』などの詩集で知られるパブロ・ネルーダの死因を調査していた国際委員会は、20日、ネルーダがピノチェット支配下の軍部に毒殺されていた強い可能性を裏付ける調査結果を発表した。
国際調査委員会は、6カ国16人の科学者で構成されている。
ネルーダは、1973年9月11日の軍事クーデターの後、精神的なショックから持病の前立腺ガンを悪化(悪液質)させ、9月23日に病死したというのがこれまでの定説だった。容態が悪くなり病院へ搬送された後、軍医がネルーダに注射した後、急激に症状が悪化したというネルーダの運転手の証言を根拠とする毒殺説もあったが、調査は行われていなかった。
2011年にネルーダが所属していたチリ共産党が、毒殺の疑いで法的手続を取ったのを機に調査がはじまった。2013年にネルーダの遺体は、発掘されて調査が行われたが、この時は骨から毒物の形跡は発見されなかった。2015年に再度、墓が発掘され再調査が行われた。
そしてカナダとデンマークでDNA鑑定を行ったところ、ネルーダの歯から、ガンによる悪液質ではありえない別のバクテリアの形跡が発見された。調査チームは、さらに死因を調査する。
◇国外からの「反ピノチェット」運動の可能性を断つ
ネルーダは1970年の大統領選挙では、共産党の大統領候補になった。しかし、社会党のサルバドール・アジェンデをUP(人民連合)の統一候補として支援し、みずからの立候補は取り下げた。
アジェンデ政権が成立した後は、フランス大使としてフランスに赴任していたが、72年にガンで帰国した。そして、翌73年に軍事クーデターで、アジェンデ政権が崩壊。その直後からネルーダの住居は、家宅捜索で軍靴に踏みにじられていた。
クーデターの後もネルーダの健康は普通で、メキシコへの亡命が決まっていたという情報もある。かりに亡命が実現していれば、ネルーダの影響力から察して、チリ国外からの「反ピノチェット」運動の中心になっていた可能性が極めて高い。それをピノチェットが恐れて、毒殺に至ったとする説は、説得力を持っている。さらに毒殺説の生物学的根拠も、今回の調査で明らかになってきたのである。
ちなみにアジェンデ大統領の死についても、クーデターの直後は、自殺したとされ、それが定説となっていた。筆者も長い間この説を信じていた。しかし、ジャーナリストなどによるその後の取材で、アジェンデは銃撃戦で死亡したことが分かっている。
【写真】パブロ・ネルーダ。出典:Prensa Latina

選挙のたびに選挙管理委員会が発行するのが、「選挙公報」である。この「選挙公報」が、一部の地域で「押し紙」と一緒に廃棄されている可能性を指摘する情報が、メディア黒書に寄せられた。
「選挙公報」の配布には、基本的に2つの方法がある。ひとつはポスティング業者が、全戸配布する方法である。もうひとつは、新聞に「選挙公報」を折り込んで戸別配達する方法である。①か②のどちらかだ。
①ポスティング
②新聞折込
②の方法を取ったとき、ある重大な問題が起きる可能性が高い。周知のように新聞販売店へ搬入される新聞にはたいてい「押し紙」が含まれている。「押し紙」とは、新聞社が販売収入を増やすために、販売店にノルマとして課している新聞である。たとえば2000人しか読者がいないのに、3000部を搬入すれば、1000部が販売店の責任で買い取りを要求される「押し紙」である。
一方、新聞に折り込まれる折込広告(この場合は選挙公報)は、販売店に搬入される新聞の総部数に一致させる基本原則がある。とくに公共機関が発行する折込広告類は、厳密にこの原則(ABC部数の採用)を守っている。
その結果、「押し紙」と一緒に折込広告が廃棄されるのだ。
◇「新聞折込等によりみなさんのお手元に配布します」
今回、情報提供があったのは、千葉県の住民からである。確かに千葉県の選挙管理委員会のウエブサイトに、次のような記述がある。
「選挙公報は、候補者から提出された原稿を県選挙管理委員会でそのまま製版して印刷し、市区町村の選挙管理委員会から新聞折込等によりみなさんのお手元に配布します」【出典】
千葉県で「選挙公報」がどのように配布されたのか、現時点では、筆者が自分で確認していないが、「選挙公報」や地方自治体の広報紙が、「押し紙」と一緒に廃棄された例は、過去にはあたりまえに発生している。
ちなみに筆者は、千葉県の複数の新聞販売店からも、「押し紙」についての相談を受けている。たとえば千葉県にあるA販売店(毎日新聞)へは、2015年8月7日の段階で、1212部が搬入されていたが、このうちに約900部が「押し紙」になっていた。この店では、市川市の広報も折り込んでいたという。
■「選挙公報」の廃棄に関する情報(動画を含む) は、048-464-1413まで。
【参考動画】
■新聞の凋落、水増しされ大量廃棄される県民共済の折込広告、「折り込め詐欺」の実態
■新聞没落、1販売店から月間30トンの「押し紙」、「折り込め詐欺」の発覚でクライアントが折込広告に見切りか?
2017年10月19日 (木曜日)

10月10日に衆議院総選挙が公示された。今回の選挙の重要な争点のひとつに憲法9条の改正がある。与党だけではなく、野党の日本維新の会や希望の党も改憲の立場を打ち出しており、かりに改憲勢力が議席の3分の2を占めた場合、国会で改憲が発議される可能性が高い。その後、改憲の是非を問う憲法改正国民投票が実施される。
しかし、国民投票には、ほとんど知られていない制度上の致命的欠陥がある。この問題について、新刊『メディアに操作される憲法改正国民投票』(岩波書店)を著した作家で、博報堂に18年在籍した経歴がある本間龍氏に尋ねた。
――ずばり、国民投票の何が問題なのでしょうか?
本間龍氏(以下、本間):国民投票は国民投票法に基づいて実施されるわけですが、この法律には広報活動に関する規制がほとんど存在しないことです。公職選挙法では、たとえば夜8時を過ぎると選挙運動をしてはいけないとか、新聞に掲載できる広告の回数を5回に制限するとか、政見放送の時間を候補者に公平に配分するとか、公平な広報活動を保障するための細かいルールが定められています。ところが国民投票では、そういうルールはほとんどありません。そのため、資金さえあればテレビCMをどんどん流し、新聞広告を好きなだけ出稿することができます。また広報活動のための寄付金をどこから受けてもいいし、寄付額の上限もありません。経理明細の報告義務すらないのです。【続きはビジネスジャーナルで】

「押し紙」とは、新聞社が新聞販売店に対して、搬入する新聞のうち、配達されないまま廃棄される新聞のことである。たとえば2000部しか配達していない販売店に3000部を搬入すると、過剰になった1000部が「押し紙」である。
ただし、予備紙(配達中の破損などに備えて余分に確保しておく新聞で、通常は、搬入部数の2%)は、「押し紙」に含まれない。
公正取引委員会の見解は、実際に配達する新聞の部数に予備紙をプラスした部数が、正常な新聞販売店経営に必要な部数であって、それを超えた部数は、機械的にすべて「押し紙」と定義している。新聞社は、「押し紙」についても、卸代金を徴収する。一種の押し売りだ。
「押し紙」の割合は、新聞社によってまちまちだが、たとえば毎日新聞の場合は、2002年10月の段階で、搬入部数の36%にも達している。現在は、おそらく50%を超えていると推測される。次の記事を参考にしてほしい。「押し紙」率36%の決定的証拠を示している。
【参考記事】「押し紙」を排除したときの毎日新聞の販売収入は年間でマイナス295億円、内部資料「朝刊 発証数の推移」を使った試算
上に示すのが、「押し紙」の回収場面を撮影した動画である。
◇産経の店主が「押し紙」小屋を設置
「押し紙」問題は、古い記録によると昭和初期からあった。「押し紙」の量が急激に増えたのは、ここ50年ぐらいである。しかし、日本新聞協会も新聞社も、「押し紙」は1部たりとも存在しないと開き直ってきた。こうした新聞人らの嘘を立証する最良の方法は、「押し紙」の回収場面を動画で示すことである。
埼玉県に住む元店主がいう。
「埼玉県に約3万部の新聞を扱っている大きな販売店がありまして、わたしが現役だったころは、3万部のうち約1万部が『押し紙』でした」
筆者が2004年ごろに取材したことのある産経新聞・四条畷販売所は、搬入される約5000部のうち、2000部から3000部が「押し紙」だった。「押し紙」の量が膨大なので、店主は「押し紙」小屋を建て、そこに「押し紙」を保存していた。
◇「押し紙」の何が問題なのか
「押し紙」には次のような問題がある。
1,新聞販売店の経営を圧迫する。
2,「押し紙」による損害を相殺するために、販売店は、折込広告の水増しをせざるをえない。「押し紙」にも折込広告がセットになってくるので、「押し紙」分の折込広告は、未配達となる。この未配達部数とセットになった折込広告も未配達になる。(ただし、広告主が折込広告の発注量を自主的に減らせば、この限りではない。)
【参考記事】大量廃棄されるイトーヨーカ堂(セブン&アイ・ホールディングス)の折込広告 高齢者対象の「振り込め詐欺」よりも被害が大きい「折り込め詐欺」
3,読まれていない新聞を印刷して廃棄するのだから、資源の無駄となる。環境問題でもある。
◇世論調査の数字も嘘の可能性が?
「押し紙」の損害賠償を求める裁判は、これまで繰り返し起こされている。しかし、そのほとんどで販売店が敗訴している。例外として、山陽新聞に賠償を命じた裁判などがある。また、「押し紙」裁判ではないが、販売店が提起した地位保全裁判で、「押し紙」政策を認定した判例もある。読売新聞の例である。参考までに判決を紹介しておこう。
「押し紙」問題は周知の事実になっているが、裁判になると、なぜか新聞社が勝訴する。「押し紙」は存在しないという結論になる。新聞を押しつけた証拠が存在しないという理由で、裁判所はこの問題にメスを入れてこなかったのだ。
筆者にいわせれば、裁判所の見解は完全な詭弁である。「押し紙」回収業が一大産業として成立している事実は、「押し紙」が存在することを意味する。それにもかかわらず裁判所は、この問題にメスを入れない。
なぜか?答は簡単で、新聞社が司法当局と同様に日本の権力構造の一部に組み込まれているからである。マスコミが権力から独立した組織と考えてはいけない。新聞社(さらにテレビ局)は、世論誘導の役割を果たしているので、「押し紙」問題にメスを入れてつぶすわけにはいかないのだ。
筆者はメディアリテラシーの中で、「押し紙」問題も教えるべきだと思う。日本の新聞社に「押し紙」という経営上の汚点があれば、新聞社は政府・警察・公取委からそれにメスを入れられるのを警戒して、公権力に「忖度」せざるを得なくなる。その結果、ジャーナリズムが世論誘導の道具に変質するのだ。
世論誘導の典型としては、新聞社が発表する総選挙の投票動向に関する世論調査の数字である。新聞人は、新聞の部数を誤魔化してきたわけだから、世論調査の数字を操作するぐらい何とも思っていないだろう。
読者が想像している以上に、マスコミは悪質なのである。その象徴が「押し紙」問題の放置にほかならない。

報道を評価する基準は多様だが、究極のところは、報道内容に価値があるかどうかである。厳密に言えば、報道の背景にどのような思想があり、どのような視点があるかである。そのためか、評価には歴史的な時間を要する。客観報道というのはまったくの幻想である。殊更にそれにこだわる必要はない。
山口敬之著『総理』(幻灯舎)は、報道の視点という観点から見ると、一体、何を主張したいのかよく分からない本である。山口氏の経歴は、1966年東京生まれ。慶應大学を卒業してTBSへ入社。後にワシントン支局長。16年には退社してフリージャーナリストになった。準強姦事件(詩織さん事件)を起こしていた疑いが浮上して、一躍、時のひとになったが、不起訴に。
安倍官邸との距離が極めて近いことでも有名だ。同著によると、「初めて安倍氏と会ったのは小泉純一郎内閣の安倍官房副長官、いわゆる『番記者』という立場の時であった」。初対面のときから「ウマが合った」のだという。その後、「時には政策を議論し、時には政局を語り合い、時には山に登ったりゴルフに興じたりした」という。
麻生副総理とも懇意で、第1次安倍内閣の時代に外遊に同行して、密室で2人だけで政談に耽ったことがあるという。
1時間ほどしたら麻生自ら人払いをして私と2人きりになった。静かになったスイートで麻生がこう切り出した。
この場で山口氏は、内閣人事に関する直筆メモを麻生副大臣から託され、安倍首相に届ける約束をする。このあたりの事情については、次のように書いている。
外部からの観察者という立場を超えて、図らずもメッセンジャーになったり、政局の触媒となったりする。記者の範疇を超えているとして、こうした役回りを担うことを批判する向きもあるだろう。しかし、永田町の最前線に踏み込んだ人間にとっては、政局において一切の役回りを果たさずに完全に超然としているのは、事実上不可能である。
◇報道の評価は歴史が決める
本書の第1章は、「首相辞任スクープ」というタイトルで、2007年の安倍首相辞任を山口氏がいかにしてスクープしたかが書かれている。結論を先に言えば、安倍官邸との距離が、もうひとりのNHK女性記者と共に極めて近かったからである。それ以外の何ものでもない。
私がこの章に疑問を感じたのは、安倍首相の辞任がそもそもスクープに該当するのかという点である。TBSが他社よりも数時間早くこのニュースを報じた事にどれだけの価値があるのかという疑問である。
大メディアの記者たちは、他社よりも早くニュースを発表することにこだわっているらしい。そのための涙ぐましい努力をしている。しかし、報道における1時間、2時間の遅れが、政局に重大な影響を及ぼすはずがない。
この不毛な競争を勝ち取るために、政治家との距離を異常に接近させているのが、日本の政治記者の実態らしい。
実際、「首相辞任スクープ」は、安倍氏が辞任に至った経緯を、政策の失敗という記者の視点から分析した内容ではない。いかに自分が安倍官邸から重宝がられているかの自慢話が書き連ねられているのだ。
確か本多勝一だったと思うが、ルポはいかに取材で苦労したかを書くものではない、という意味の事をどこかに書いていたが、「首相辞任スクープ」はその路線の逆を行くルポである。
筆者は要人と酒を飲むこと自体は悪いとは思わない。しかし、何年か後、仮に安倍首相の政治姿勢を否定的に捉える見解が歴史的に定着したとき、山口氏の評価も低いものになるのである。産経新聞と読売新聞と同じ運命をたどるだろう。
