1. 黒薮哲哉氏の『新聞の危機と偽装部数』出版に際し、 改めて黒薮VS読売訴訟の勝者を考える、 最高裁・国家権力が手に入れたのは、報道弾圧社会の再来

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2012年11月13日 (火曜日)

黒薮哲哉氏の『新聞の危機と偽装部数』出版に際し、 改めて黒薮VS読売訴訟の勝者を考える、 最高裁・国家権力が手に入れたのは、報道弾圧社会の再来

◆吉竹幸則(フリージャーナリスト・元朝日新聞記者)

「言論・報道の自由」を脅かす黒薮VS読売訴訟の異例とも言える最高裁逆転判決。その不当性についても書いた黒薮哲哉氏の著書『新聞の危機と偽装部数』(花伝社刊)が出版される。

この判例が今後、下級審でも罷り通ればスラップ(恫喝)訴訟など訴訟多発社会を誘発する恐れもある。私もこの著作に「黒薮VS読売訴訟の本当の勝者とは?」と題し、特別寄稿している。出版を機会に改めて判決の問題点を考えてみたい。

◇揚げ足取りで、2230万円を請求

2008年3月、福岡県の読売販売店改廃に絡み、折込広告代理店が配る予定になっていたチラシを持ち帰った。黒薮氏は自身のこのサイト(当時は「新聞販売黒書」)で改廃事件を伝え、持ち出し行為について記事の一部で、「窃盗に該当し、刑事告訴の対象になる」と書いた。これが、訴訟の発端となった。

チラシの持ち出しは店主が同意していたのだ。私も黒薮氏の取材不足を否定しないが、読売側は黒薮氏の記事のほんの一部の表現を捉え、「事実誤認で窃盗には該当しない」と、黒薮氏を名誉毀損で2230万円もの損害賠償(控訴審で減額)を求め、提訴した。

名誉毀損訴訟では、「一般読者の普通の注意と読み方を基準に、前後の文脈、記事全体の趣旨,記載内容、体裁、社会的反響などを総合的に考慮する必要がある」との1954年最高裁判例が、判断基準となっている。

健全で公正・公平な社会を実現するためには、規制に縛られない情報提供、言葉による権力監視機能が不可欠だ。これまで報道機関は、「表現・報道の自由」の重要性を強く訴え、国家権力・裁判所の介入は出来るだけ抑制的であるべきだと主張してきた。

論拠は、この判例の中の「前後の文脈、記事全体の趣旨,記載内容、体裁、社会的反響などを総合的に考慮する必要がある」の部分だ。つまり、言葉の端々を捉えるのではなく全体で判断し、たとえわずかな事実誤認があろうとも、実害の乏しい記事・報道では名誉毀損は出来るだけ認めるべきでないとの考え方である。

◇メディアが持つ権力監視の役割

一方、メディアによる権力批判をかわすため、「表現・報道の自由」を少しでも制限したくて言葉の端々の事実誤認を捉え名誉毀損訴訟を起こす勢力は、記事の小さな事実誤認や表現でも「名誉毀損」を幅広く認定すべきだとしてきた。

その攻防、対立の構図は、国内というよりも、むしろ海外で多くの歴史がある。 「表現の自由」を重視する人の側が依拠する代表的な論理は、1964年の合衆国最高裁が出した「現実的悪意」の法理(詳しくは松井茂記・大阪大名誉教授著『マス・メディアの表現の自由』日本評論社参照)だろう。

誤解を恐れず分かり易く説明すると、権力者の暴走を防ぐためには様々な角度、多数・多様なメディアによる報道がなされ、多くの人が監視出来る社会的環境が整っていなければならない。

それには、真っ当で当然「保護」されなければならない報道を「保護」するだけでは十分でない。本来は「保護」されるべきか微妙ないわゆる「灰色」、限界ぎりぎりの報道まで、「保護」されなければならないと言うものだ。

そうでないと、記事や様々な文章の中の細かな事実誤認や筆が滑った程度の言い過ぎ、適切さを欠いた表現などがあれば、言葉尻を権力側に捉えられ名誉毀損で訴えられることを人々は恐れる。

結局、権力批判の委縮を招き、本来の意味での報道や人々の言葉による「表現の自由・権力監視」が空洞化してしまうからだ。

◇「木を見て森を見ない」最高裁の論理

国内の訴訟でも、報道機関が記事の言葉尻を捉えられ、相手側に名誉毀損訴訟を起こされた時には、この論理で対抗することが多い。

ある意味、1954年最高裁判例の「記事全体の趣旨で総合的考慮」の部分は、この考え方に立つ。言葉尻を捉えて訴訟を起こし、自分に都合の悪い記事を書く記者・報道機関に圧力をかけようとするスラップ訴訟に対し、乱発を防止する歯止めの役割を果たして来たのも確かだろう。

黒薮訴訟の最初の1、2審は、これまでの最高裁判例に照らし記事全体を「総合的に判断」した結果、名誉毀損の成立を認めず読売側の敗訴となった。

「黒薮氏は記事掲載翌日に、読売側に『反論を掲載する』と連絡。その後経緯を説明、記述も改めた。記事の1部に事実誤認があっても、読者は読売側が『窃盗』をしたと誤解する可能性が少ない」とし、「事後的補てんが必要なほどの名誉毀損とは言えない」と認定したからだ。

ところが最高裁は記事全体を見渡すのではなく、「事実誤認がある黒薮氏の記事は、名誉毀損」と簡単な理由だけで、1、2審判決を破棄。差し戻し審で、黒薮氏は敗訴。「読売が窃盗をやらせる会社と誤信させる。業務上の支障はうかがわれなくても、無形被害がある」と、個人としては異例の高額の110万円の賠償を命じた。

◇読売をわざわざ逆転勝訴させた意図

権力監視・批判をするジャーナリスト・ジャーナリズムは、権力にとってうるさい存在である。従来の判例解釈を事実上撤廃、記事のわずかな事実誤認でも名誉毀損を認定出来るなら、裁判所の裁量権は大きく広がり、裁判官の腹次第で報道表現を規制し、縛りをかけることが可能だ。これまでこの判例解釈変更に抵抗してきたのは、報道機関側だ。

しかし、読売側が黒薮氏への提訴で、これまでの報道機関側の主張とは正反対の主張をするなら、最高裁・国家権力としては判例解釈を変更、下級審に知らしめる長年の悲願を達成する絶好の機会と捉えたとしても、何の不思議もない。

わざわざ1,2審判決を破棄してでも、最高裁が読売主張を丸呑みする逆転判決を出した裏には、そんな権力側の不純な意図を感じない訳にはいかないのだ。

日本出版労連も、「あくまで言論で対処するのが、出版人のプライド。恫喝めいた訴訟がまかり通れば、自由闊達な言論活動が定着しない」と、最高裁判決や読売の提訴に抗議声明を出している。言葉には言葉で対抗。これが報道機関の本来の姿だ。読売もIPS臨床応用報道で大誤報をした。一つ一つの小さな事実誤認で訴訟沙汰では、報道機関が成り立たない。

読売は、自らの記事の事実誤認には、「訂正・お詫び記事」掲載で対処している以上、黒薮氏の事実誤認に対してもまず抗議して、黒薮氏のサイトに「訂正・お詫び記事」の掲載を求めるのが報道機関としての筋だと、私は思う。

◇「押し紙」批判報道を止めたかった?

読売側が、黒薮氏の「押し紙」批判報道を止めたいばかりに目がくらみ、これまでのジャーナリズムの主張・魂をそっくり裁判所・権力側に売り渡したと言うのは、言い過ぎだろうか。自らの提訴が藪蛇となり、「表現・報道の自由」の陣地をますます狭くした読売の罪は、ジャーナリズムにとって決して軽くないのではないか。

最高裁逆転判決により、記事中のわずかな事実誤認を捉え、権力批判をする記者・報道機関への口封じのためのスラップ訴訟の多発が心配されるだけではない。ネット上でつぶやく一般の人たちにも少なからず、この判決の影響を受ける。

「人を見たら、泥棒と思え」「あんた、詐欺師か」などの言葉はよく投稿される。でも、この最高裁判例なら、「犯罪者扱いされた」と、訴えられたら、今後、高額の賠償金を支払わなければならない事態さえ、ないとは言えないからだ。

つまり、裁判官の恣意、腹次第で判決が左右出来るなら、ネットに限らず、権力側に都合の悪い発言を続ける人たちや報道機関に対し、名誉毀損訴訟の場を借り、国家権力・裁判所はいくらでも言葉に縛りをかけ、記事を実質検閲するのも可能なのだ。

戦前、治安維持法でなされた権力の言論統制・検閲・言葉狩りが、これからは名誉毀損訴訟を利用してなされない保証はどこにもない。黒薮VS読売訴訟の勝者は実は読売でなく、戦前の報道弾圧社会の再来を願う最高裁・国家権力ではなかったかと、私は思わざるを得ない。

私が、このサイトに執筆するようになったのも、黒薮氏への最高裁逆転判決を知ったことがきっかけだった。読売の訴訟提起や不当判決で、最も影響を受けるのは、組織のバックのない黒薮氏のようなフリーランスのジャーナリストだ。

ネットの記事一つで高額の賠償金を払わなければならないと、たちまち仕事だけでなく、生活にも行き詰る。黒薮氏のジャーナリスト生命をこんな不当判決で奪ってはならず、何とか応援したいと思ったからである。

◇異議を申し立てたら記者職を剥奪

私の対朝日報道弾圧・不当差別訴訟。記者だった私が取材した、当然記事になるべき原稿を朝日が止め、異議を申し立てたら記者職を剥奪したことが発端だ。

何度も朝日に対し、記者職を剥奪した理由を問い質したが、まともな答えがなく、やむなく、記者には人々の「知る権利」に応える責務と雇用者として正当な業務に対して、経営者から不当な差別は受けない「報道実現権」があると主張しての提訴だった。

しかし、1審から上告審まで、裁判所は一切の事実審理・証拠調べや原告である私の本人尋問さえも認めず、事実と正反対のデッチ上げ判決で、私を敗訴させている。

私の主張する「報道実現権」を認めてしまえば、社内圧力による不当な記事の差し止めに、記者はこの権利で対抗する。そうなれば、戦前の経営者を抑えての報道弾圧社会の再来が不可能になるからだろう。

裁判所はもはや、人々の権利を守り、公正・公平に判断する組織ではない。国家・権力者の代弁者・手先に成り下がり、人々の「知る権利」を奪い、権力を監視するジャーナリズム・ジャーナリストの表現・報道の自由を奪おうと躍起となっている。そのためにはデッチ上げでも何でもやる中世の暗黒裁判並みの組織に劣化していると言わざるを得ない。

詳しくは、黒薮氏の『新聞の危機と偽装部数』や拙書『報道弾圧』(東京図書出版)を読んで戴きたい。最高裁逆転判決で権力による報道弾圧・言葉狩り、人々の「知る権利」の侵害が常態化してから、黒薮訴訟や私への判決が転換点と気付いた頃には、もう遅いのだ。

≪筆者紹介≫ 吉竹幸則(よしたけ・ゆきのり

フリージャーナリスト。元朝日新聞記者。名古屋本社社会部で、警察、司法、調査報道などを担当。東京本社政治部で、首相番、自民党サブキャップ、遊軍、内政キャップを歴任。無駄な公共事業・長良川河口堰のウソを暴く報道を朝日から止められ、記者の職を剥奪され、名古屋本社広報室長を経て、ブラ勤に至る。記者の「報道実現権」を主張、朝日相手の不当差別訴訟は、戦前同様の報道規制に道を開く裁判所のデッチ上げ判決で敗訴に至る。その経過を描き、国民の「知る権利」の危機を訴える「報道弾圧」(東京図書出版)著者。