1. 拡散する「香害」言説の危うさ――科学的根拠を問い直す

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2026年05月11日 (月曜日)

拡散する「香害」言説の危うさ――科学的根拠を問い直す

「香害」という言葉が広く使われるようになって久しい。「香害」とは、化学物質過敏症の人が臭いによって受ける健康被害のことである。香害は、最近では横浜市をはじめ、各地の地方自治体が行っている禁煙運動の根拠の一つにもなっている。

わたしが住む埼玉県朝霞市の公園のベンチにも、赤い大きな文字で「禁煙」と記した注意書きが貼られている。朝霞市の公園を管理している「みどり公園課」に、喫煙禁止条例が制定されたのか問い合わせたところ、条例はなく、あくまで努力目標であることが分かった。市の職員も、化学物質による人体への影響について、実は正確な知識を持ち合わせていないのだ。

結論を先に言えば、「香害」は疑似科学である可能性が高い。しかし、化学物質過敏症に関する根拠のない情報は拡散し続けている。シャボン玉石けん(株)のウエブサイト(2026年4月30日付)にも、化学物質過敏症に関する不正確な記述がある。同社の森田社長とタレントの小泉今日子の対談の中で、同社の石鹸が化学物質を使用していないことをPRするくだりに、小泉による次の記述がある。

「(略)香料によって苦しむ人がいることを多くの人に知ってほしいな」そう思っていた時に、シャボン玉石けんさんが「香害(※化粧品や洗剤などの香料に含まれる化学物質が、めまいや吐き気などを引き起こす化学物質過敏症の一つ)」の啓発広告を出されたので、すぐX(旧Twitter)でリポストしました。「香害」という言葉を知ってから、私もできるだけ匂いに気をつけるようにしていますし、まだ知らない人にも知ってほしい。知らないことに罪はないけど、知らないことでいつのまにか他の人を傷つけているかもしれませんから」■出典

この記述は、世の中には「香害」の被害を受けている化学物質過敏症の人が多数存在している、という趣旨である。

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わたしが本格的に化学物質過敏症を取材するようになったきっかけは、横浜副流煙裁判である。この事件では、密閉状態にした部屋の中で吸った煙草の煙(1日に3本程度)が原因で、同じビルの上階に住む住民が健康被害を受けたかどうかが争われた。裁判を起こした家族のために、「化学物質過敏症」や「受動喫煙症」といった病名を付した複数の診断書が作成され、提訴の根拠となった。診断書を作成したのは、宮田幹夫、作田学といった、日本を代表する化学物質過敏症の専門医だった。

ところが裁判の中で、これらの医師の診断方法が問題になった。宮田幹夫医師も作田学医師も、問診を最重視して「化学物質過敏症」などの診断を下していたことが判明したのだ。もちろん煙草の煙の流入を問題視していながら、実際にどのように煙が流入するのかについての調査すら行っていない。現場にも足を運んでいない。患者の言葉を鵜呑みにして診断を下し、診断書を交付していたのである。

この裁判が進行している時期、「問診」によって「化学物質過敏症」の診断を下すのは慎重さに欠けるのではないか、という声が他の専門医から上がり始めた。たとえば坂部貢医師は、「平成27年度 環境中の微量な化学物質による健康影響に関する調査研究業務」で、化学物質過敏症と診断された人の中には、精神疾患の患者が約8割含まれていると述べている。次のくだりである。

「9.治療

病態生理に不明な点が多いため、本症に特化した治療法は未だ確立されていない。その理由は、複数の病態が重なり合って存在することによる個人差要因が極めて大きいからである。現時点での対応としては、症状を誘発させると考えられる原因物質からの回避がもっとも有効な対処法である。また本症ではアレルギー疾患の合併率が高いため、アレルギー症状を十分コントロールすることもQOLを高めるために必要である。さらに、精神疾患の合併率が80%と高いため、心身医学・精神医学的アプローチも有効である。」■出典

実際、横浜副流煙裁判の中では、「香害(この場合は煙草)」を訴えた家族の訴えの信憑性が問題になった。たとえば煙草の煙の発生源とされた被告が、出張などで不在だったときにも、「被害者家族」が煙草の臭いを感じていたことなどが、原告の日記などによって裏付けられている。

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化学物質過敏症という病気が客観的に存在することは、紛れもない事実である。しかし、その患者数はきわめて限定的であるという見方が、近年の傾向である。自分の身の回りに、どこにでも患者がいるわけではない。もちろん臭いに対して敏感な人は少なくないが、それが必ずしもそれが化学物質過敏症である裏付けとはならない。

シャボン玉石けん(株)のウエブサイトで紹介されている事象は、科学的な裏付けに乏しい。むしろ疑似科学に近いと、わたしは考えている。