2012年11月30日 (金曜日)

都知事候補の宇都宮健児氏が会長を務めていた日本弁護士連合会(日弁連)が、政治団体「日本弁護士政治連盟」を通じて、政界に献金を贈り続けてきたことがわかった。

参院選を前にした2010年度は、民主党を中心に32名の国会議員に240万円を支出。司法修習生への給費支払い制度の廃止問題をめぐり、茶番劇のような国会質疑が、献金を受けた議員同士で行われていた。

司法制度改革がスタートして10余年、SLAPPや高額訴訟が多発し、裁判のビジネス化が進んだ。これらは弁護士報酬の引き上げには直結するものの、国民の知る権利を害し、ビジネスとして儲けるために最高裁判事の天下りを大手弁護士事務所が受け入れるという異常事態も生んでいる。

司法と政治の癒着は、どこまで許されるのか。司法のタブーに迫る。(続きはマイニュースジャパン)

2012年11月29日 (木曜日)

◆吉竹幸則(フリージャーナリスト・元朝日新聞記者)

前回、前々回とこの欄で、「公正・公平性を失った司法」について書いた。「裁判官が本当にデッチ上げまでするのか」「筆者が裁判に負けた腹いせではないのか」こんな疑問の声も戴いた。

ジャーナリストが語るべきは、論より事実だ。私事で恐縮になるのを承知で、敢えて私の朝日新聞社への訴訟の判決を紹介してみたい。

いかに裁判官が、露骨なデッチ上げ判決までするようになったか。今の司法・裁判所がジャーナリズムから「表現・報道の自由」を奪い、戦前の報道弾圧社会の再来を、どんなにしゃかりきになって目指しているか。読売から訴えられた黒薮哲哉氏の最高裁逆転判決とともに、私への判決がその典型的な事例の一つと思えるからだ。

◆公共事業の利権を隠蔽

なぜ、裁判官の監視が必要なのか。読者の方々に、「公正・公平さを失った今の司法・裁判所の実態」を、より具体的に分かって戴きたいのだ。

私が何を取材し、朝日がその記事をどう止めたか。拙書『報道弾圧』(東京図書出版刊)では詳しく書いている。ここでそのすべてを書く字数の余裕はない。

「ダム・無駄な公共事業」は古くて新しい問題だから、いずれはこの欄でもう少し詳しく説明しようと思う。今回はごくごく簡単に紹介することに留める。 私が書こうとしていたのは、当時、無駄な公共工事の典型として、住民から激しい反対運動が繰り広げられていた長良川河口堰についての記事だった。建設省(現国交省)の着工理由は「治水のため」。

でも、これは全くのウソ。後述する名古屋高裁判決でも認めている通り、私が入手した同省の極秘資料を使い行政マニュアル通りに計算しても、長良川に堰がなくても、想定される最大大水で堤防下2メートルの安全ラインよりさらに下しか水は来ない。

記事は、緻密な取材でそれを裏付け、科学的に「無駄」を立証するものになるはずだった。

「自然保護」か「治水」かと言った、主観的な感情の入る記事ではない。人々の「知る権利」に応えなければならない報道機関なら、当然、この事実を報じる責務がある。でも、朝日は何らまともに理由も告げず、記事を止めた。

◆「裁量権の濫用」は違法行為

もちろん私は、編集局長に異論を唱えた。しかし、朝日は聞く耳を持たず、逆に報復として私から記者職を剥奪した。

朝日には、記者として当然の責務を果たそうとした私に対する不当差別待遇と、ブラ勤で職場のさらし者にするなどの名誉毀損がある。訴訟は、その行為による逸失利益、慰謝料などの損害賠償を朝日に求めるものだった。

不当待遇か否かを争う労働訴訟では、法学部の学生でも知っている「不利益変更法理」と言う有名な最高裁判例が基本的な尺度になっている。

雇用主は雇用者に対し、人事、査定などの裁量権がある。でも、何をやっても許されると言うものではない。法理では、職場実態、労働慣行など具体的事実に照らし、「業務上の必要性が存しない場合」「他の不当な動機・目的をもってなされたとき」「労働者に対し通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせるものであるとき」には、雇用主の「裁量権の濫用」に当たる。

別職種への配転など雇用者の労働条件を不利益なものに変更する場合、この3条件に抵触していないかを基準に、人事・査定の合理性についての「高度な説明責任」もある。雇用主がその義務を果たしていない場合も、不法行為や債務不履行が成立するとしている。

朝日は何故、私の記事を止め、記者職を剥奪、昇格・昇給でも差別したか。在職中、私は何度も文書で説明を求めて来た。しかし、朝日は何の合理的な説明もしていない。

つまり、人事・処遇の「不利益変更」理由について「説明責任」を果たしていないから、この法理に基づけば、「朝日には裁量権の濫用がある」と言うのが、私の主張だ。

◆裁判官による巧みな論点のすり替え

名古屋地裁の1審で私は、職場実態・慣行に照らし、「濫用」の有無を具体的に事実審理するよう、繰り返し求めた。だが、裁判官は一切拒否。本人尋問で私の言い分を聞くことさえせず、早々と審理を打ち切った。

そして、提訴から半年余りの2009年4月の判決では、具体的な「濫用」の有無に触れず、「報道価値のある記事に該当するか否かは経営管理者が編集方針に照らし、裁量的判断によって決定すべき事柄である」として、私を敗訴にした。

つまり、裁判官の判断は、記者が何を取材し何を書いたとしても、編集権は経営者にあるから、記事にして載せるか否かは経営者の勝手気まま、記者が文句をつける筋合いではない。記者の職に就けるのも、外すのも経営者の自由と言うことのようなのである。

私が朝日の「名誉毀損」として訴えた内容に、裁判官がどう判断したかも触れておこう。

判決では、「面談で原告(私)が,編集局に記者として復帰したい旨述べたのに対し、名古屋本社代表がデスクらとの信頼関係を取り戻すことの必要性を指摘したことが窺えるものの、それだけでは名誉毀損の不法行為を構成するものとはいえず、それ以上の状況や発言内容を認めるに足りる証拠はない」としている。

私が朝日の「名誉毀損」と裁判官に訴えたのは、?記者の職を剥奪し、ブラ勤で私を社内のさらし者にした行為?私が組織のあり方を社内ネットで質した際、ありもしないのに「評価や人事にめぐる不満については、それを取り扱う所定のルートがあります」と、あたかも私が社内ルールを逸脱した人物かのような虚偽の事実をネットで公開したこと――に対してである。

「名誉毀損」は、公開の場での中傷・虚偽発言などで人の名誉を傷つけられた場合に成立する。私に対して名古屋代表が密室で発した言葉で、もともと「名誉毀損の不法行為を構成するもの」とは言えないのは当たり前なのだ。

私が「名誉毀損」と提示した事実に一切触れず、もともと「名誉毀損」が成立しない問題を裁判官が勝手に持ち出し、「名誉毀損の不法行為を構成するものとはいえず」では、聞いてあきれる。私を敗訴させることだけを目的とした「すり替え判決」としか、言いようがないのだ。

経営者に裁量権の逸脱があったか否かは、具体的事実に基づいて判断するのが「不利益変更法理」の基本的な考え方だ。裁量権逸脱の有無について、事実審理を全くしていない地裁判決は、この最高裁判例に違反する。「名誉毀損」も論点のすり替えだから、判決に値しない。私は、不当判決の理由を詳しく書き、控訴した。

ところが、極め付きは名古屋高裁民事3部(高田健一裁判長)のデッチ上げ判決だった。高裁でも、私が再三求めた事実審理や本人尋問さえ一審同様、一切拒否。第1回口頭弁論で審理を打ち切ったにも拘らず、突然判決文で事実認定に踏み込んだ。

◆裁判長による恐るべき改ざん

河川工学の専門用語も出てくるから難解で少し長いが、判決文を引用してみたい。

「(ア)1990年6月ころまでに、長良川河口堰に関する取材を完了し、その取材によっておおむね以下のとおりの取材結果を新聞記事とすることを求めた。政府は、長良川河口堰建設にあたり、治水、利水を区別することなく3200万トンの浚渫が必要との閣議決定をしたが、建設省は、治水上1500万トンの土砂浚渫で足りることを知っていたこと、

建設省は、水余りが明らかになるにつれて、利水から治水へと河口堰建設目的の重点を移し、長良川安八、墨俣水害の後、建設省自身で策定した『河川砂防技術基準』(行政マニュアル)に沿って長良川の粗度係数の値を算出し、この値に基づいて当時の最新河床データを使い、前記基準どおりに水理計算をすれば、建設省が長良川で想定している最大大水時においても、その水量は安全水位以下に収まり、少なくとも河口堰のような大規模な治水施設は必要のないことを十分承知していながら、前記粗度係数の値は低すぎたとし、

この係数でシミュレーションした結果を公表せず、根拠のない洪水の危険を吹聴して河口堰建設着工への機運を盛り上げたこと、河口堰建設反対運動の高まりと水需要の減退に伴い、本来なら、治水目的での必要浚渫量を1500万トンとして河口堰建設の是非を検討すべきであるのに、建設省はこれをせず、

また、前記基準では当時の最新河床データと安八水害で判明した現況粗度係数を使用すべきであるのに、古い河床データと計画粗度係数の値で計算した水位図を使用して、現状の長良川のままでは洪水の危険があるというデータを作り上げたこと、控訴人(私)の前記取材に慌てた建設省は、控訴人への取材対策として粗度係数を改ざんするなどの工作をして、長良川河口堰建設が、治水上、不要であったことを隠蔽したというものである」

「(イ) 当時の被控訴人(朝日)名古屋本社社会部デスクらが、控訴人の原稿を検討した結果、原稿記載のうち、ある水理工学者に不等流計算を依頼した結果、計画高水量(毎秒7500トン)の出水でもほとんどの地点で計画高水位を下回り、わずかに上回るところでも最大23センチメートルのオーバーで、この程度なら堤防のかさ上げなどで対応でき、わざわざ河口堰を作る必要はないのではないかという点については、不等流計算をし、その分析をした専門家の名前を新聞紙上で明らかにできない以上、朝日新聞の責任で前記計算を明らかにすることになるが、

それは、今後水害が起きたときのことなどを考えると、危険が大きすぎること、建設省の計算と前記専門家との計算の結果の違いが大きすぎるが、建設省も役所である以上、このような無茶な嘘をつくとは考え難いこと、控訴人の取材による計算も完全な専門家とはいえない者による計算であるから、計算データが抜け落ちている等の問題がないとはいえないこと、

少なくとも、もう少し慎重に建設省がどのような方法で計算をし、記者発表をしたのかを見極める必要があるとの意見が出され、控訴人に対し、建設省側に情報がある程度漏れることを覚悟のうえ、もう少し学者の意見を聞くとともに、実名で計算結果を発表してくれる学者がいないか探すこと、少なくとも、前記専門家の計算結果が、水理学的に正しいとのコメントを出してくれる学者などを探すこと,

建設省がどのような計算をし、記者発表をしたのか、これまでのルートを通じてさらに深く探れないか慎重に詰めるようにとの指示がなされた。しかしながら、控訴人がさらに取材をしたものの、実名で計算結果を発表してくれる学者は見つからなかった」

「以上認定の事実によれば、1990年頃、控訴人の取材結果は、社会部デスクによる検討の結果、水理計算に関するデータに抜け落ちている部分があるのではないかなどの疑問点が指摘され、その後の控訴人の取材によってもデスクから指摘された様々な疑問点が払拭されなかったために掲載が見送られたものであって、このような被控訴人の措置は、編集権の行使として相当なものと認められ、本件証拠上裁量権の濫用を基礎づける事情は見当たらない」

◆「4月」を「6月」に改ざん

河川工学の難しい用語は、別の機会に解説するから、読み飛ばしてもらえばいい。建設省がいかにウソで固めて河口堰を着工したか。私の取材・提出証拠により、高裁が(ア)で、事実として認定していることは分かって戴けると思う。

問題は(イ)である。「社会部デスクらが、控訴人の原稿を検討した」のは、「1990年」であっても、判決文にある「6月」ではなく、「4月」である。

つまり、「社会部デスク」の出した「建設省がどのような計算をし、記者発表をしたのか」の「疑問点」を、私が再取材で完全に解明した結果が(ア)なのだ。(ア)が分かっているなら、デスクは(イ)のような疑問を出すはずがない。判決の矛盾は明らかだ。

実際の時系列は(ア)→(イ)ではなく、(イ)→(ア)である。真実に基づいて、私が試しに判決文を書いてみると、結論部分は次のようにならざるを得ない。

「以上認定の事実によれば、1990年4月、控訴人の取材結果は、社会部デスクによる検討の結果、水理計算に関するデータに抜け落ちている部分があるのではないかなどの疑問点が指摘され、その後、控訴人の6月までの取材によって、(ア)の通り、様々な疑問点が払拭・解明されており、掲載が見送られる理由はなかった。にも拘わらず、記事を止めた被控訴人の措置は、編集権の行使として正当なものとは認められず、本件証拠上裁量権の濫用は明らかである」

◆裁判所はなぜ朝日を勝訴させたのか?

では、そんなデッチ上げ判決を、わざわざ裁判官が何故する必要があったのか、と読者は思われるだろう。しかし、権力にとって、不正・腐敗を嗅ぎまわる記者は、うるさい存在である。出来ればいなくなって欲しいと、本音では考えてもいるはずだ。国家権力・権力者の恥部を嗅ぎ回るのは、「悪い記者」であり、そんな記者の原稿をボツにするのは、「良い新聞経営者」である。

私の主張に沿い、「悪い記者」個々が取材した事実を記事にする権利を裁判所が認めてしまえば、「良い経営者」による報道の抑止は効かなくなる。いざという時、戦前社会と同様、経営者を抑えて報道弾圧を可能にしておくには、「編集権は独占的に経営者にあり、記者には何の権利もない」との朝日の主張ほど好都合なものはない。

権力に忠実なヒラメ裁判官なら、朝日の言い分にすんなり乗って戦前同様の報道規制の道を開いてしまおうと思っても何の不思議もないのだ。

だが、私から提出された証拠に基づき、事実審理や本人尋問を行い、実際の事実を解明してしまうと、「不利益変更法理」に照らし、私が試しに書いた判決文しか書きようがない。それでは「悪い記者」を勝訴させ、報道規制の道は開けない。

私を強引に敗訴させ、「悪い記者」の権利を否定するには、事実審理を一切せず、 (イ)→(ア)の時系列を 勝手に(ア)→(イ)に入れ替え、「取材不足があったから、記事にならなかった」との判決文を書くしかない。そう考えて裁判官が一切の事実審理を拒否、このデッチ上げ判決に手を染めたと考えると、すべての辻褄は合う。それ以外の理由も見当たらない。

私が「すり替え」として高裁に見直しを求めた「名誉毀損」の判断も、私の主張には一切触れず、一審判決をただコピーしただけ。

しかし、意図的な事実のデッチ上げをすれば、当然判決文は矛盾だらけになる。つまり上告理由に該当する「判決理由の食い違い」はいくらでもある。私は「食い違い」を幾つも挙げ、最高裁に上告した。

しかし、最高裁も一切審理をしなかった。そして、「上告理由は、違憲及び理由の不備、食い違いを言うが、その実質は、事実誤認、又は単なる法令違反を主張するものであり、事由に該当しない」とだけ書いて、私の主張を退けた。それ以上詳しく書くと、下級審の判決のボロが出てしまうからだろう。

◆報道弾圧社会再来の危険な兆候

改めて、私の訴訟と黒薮VS読売訴訟とを比較してもらいたい。黒薮氏のネット記事の中の些細な事実誤認に対しても最高裁はわざわざ審理をし直した。そして黒薮氏の「名誉毀損」を認め、「表現・報道の自由」をさらに縛ろうとした。

私の対朝日訴訟では、下級審から最高裁まで一貫して「表現・報道の自由」を守ろうとした私の主張に一切耳を貸さず、事実審理や本人尋問さえ拒否。挙句に露骨な「デッチ上げ」や「すり替え」判決までして、人々の「知る権利」を応えようとする記者の権利を認めず、敗訴させた。

裁判所が強引に勝訴させたのは、読売、朝日ではある。でも、人々の「知る権利」「表現・報道の自由」を守る側の主張ではない。共通するのは、権力側には都合のいい「報道弾圧」に迎合する主張だったからである。

これで、今の司法・裁判所がいかに公正・公平さを失っているか、ジャーナリズムから「表現・報道の自由」を奪い、戦前の報道弾圧社会の再来をしゃかりきになって目指しているのか、なぜ今、裁判官の監視が必要なのかを読者の方々に具体的に分かって戴けたのではないかと思う。私は裁判に負けた「腹いせ」で言っているのではない。

≪筆者紹介≫ 吉竹幸則(よしたけ・ゆきのり)

フリージャーナリスト。元朝日新聞記者。名古屋本社社会部で、警察、司法、調査報道などを担当。東京本社政治部で、首相番、自民党サブキャップ、遊軍、内政キャップを歴任。無駄な公共事業・長良川河口堰のウソを暴く報道を朝日から止められ、記者の職を剥奪され、名古屋本社広報室長を経て、ブラ勤に至る。記者の「報道実現権」を主張、朝日相手の不当差別訴訟は、戦前同様の報道規制に道を開く裁判所のデッチ上げ判決で敗訴に至る。その経過を描き、国民の「知る権利」の危機を訴える『報道弾圧』(東京図書出版)著者。

2012年11月27日 (火曜日)

衆院選の告示を前にしたマスコミの選挙報道に接していると、有権者には次ぎの3つの選択肢しかないような印象を受ける。

1,自民党・公明党

2,民主党

3,第3極

このうち「第3極」は、依然として構成メンバーをめぐる駆け引きが続いているが、これまでのところ石原氏と橋下氏を中心とした維新の会と、亀井氏を中心とする「減税日本・反TPP・脱原発を実現する党」が輪郭を明確にしている。

11月19日、わたしはTWITTERで次のように書いた。

「マスコミの選挙報道は、日本には3つの選択肢しかないかのように世論を誘導している。しかも、この3者は、根本的には大きな違いがない。「改革」といっても、しょせんは「コップの中の嵐」。フランク革命でも、明治維新でもない。それだけ日本人の器が小さくなった証なのかも知れない。」

これに対して読者から次のような反応があった。

「小さくなったのは権益者の器。既得権益者には3つの選択肢しかないだけの事」

この読者が指摘したように、日本のマスコミが投票先の選択肢と位置づけているのは、経済面で日本社会を牛耳っている「財界にとっての3つの選択肢」でしかない。

◇騙される理由  

この20年は、メディアによる洗脳に国民が騙され続けた時代である。まず、1993年の政変に騙された。これは実は、自民党よりも急進的に新自由主義を導入しようとした人々による政変だった。その先頭に立ったのは、自民党を飛び出した小沢一郎氏だった。

これにあわてた自民党は、社会党と共闘して政権を奪い返した。そして新自由主義へ舵を切るが、集票田が農業者や中小企業の経営者だったために、思い切った新自由主義の政策が取れない。橋本、小渕、森ともたついた。

そこへ彗星のごとく登場したのが小泉氏だった。小泉氏はなさけ容赦なく、新自由主義を導入。日本に本格的な格差社会が生まれた。雇用形態も変化した。社会の隅々から矛盾が吹き出して、改革を求める世論が強くなった。

その受け皿となったのが民主党である。 ? こうした時代の節々でメディアは常に世論を誘導する「役割」を担ってきた。 しかも、政権が交代すれば、日本が劇的に変化するかのような幻想を振りまいてきた。

が、「改革」は常に失敗した。 ? たとえば民主党政権の最初の首相である鳩山氏は、沖縄の普天間基地を最低でも県外へ移設する公約を掲げながら、実現できずに野に下った。

なぜ、出来なかったのか?鳩山氏の心がけが不十分で、政治家としての使命感が不足していたからだろうか?あるいは鳩山氏よりも、もっと有能でガッツのある民主党員が首相になっていれば、公約を実現することが出来たのだろうか。答えは否だ。

鳩山氏が公約を守れなかったのは、鳩山氏が所属する民主党が財界やご用組合によって支えられているからに過ぎない。

公約を実現できるか否かを見極める最大のポイントは、各政党が日本のどのような階層の代表なのかを知ることだ。政治資金収支報告書を調査すれば、それはかなり具体的に分かる。

物事を見極める時に、より重視しなければならないのは、客観的な事実である。各政党の資金源を客観的に検証することが大事だ。

今回の参議院選挙では、原発やTPPが争点になりそうだ。わたしは財界から支援を受けている政党が、脱原発や反TPPを政策にかかげても信用しない。実現できるはずがないと考えている。

「自民・公明」、「民主」、「第3極」しか選択肢を提案できない日本のマスコミは、あまりにも政治の見方が一面的だ。世界全体の流れを読んでいない。

◇新自由主義からの脱却

今、世界で最先端を走っている地域は、ラテンアメリカである。この地域をひいき目に見ているわけではない。

たとえば『中南米が日本を追い抜く日』(朝日新書)という本がある。これは三菱商事の駐在員らが書いた体験記である。左翼が主流となったラテンアメリカが経済面でもいかに健全に成長を続けているかを、日本の大企業ですら認めざるを得なくなっている。

これは日本の進路を考えるうえでひとつのヒントになるのではない。

ラテンアメリカとはどのような地域なのだろうか。この地域は、それぞれの国の特殊性はあるが、1980年代ごろまで、軍部が非常な権限を持って米国の権益を防衛する構図があった。傀儡(かいらい)政権があたりまえだった。

ラテンアメリカがチリを筆頭に新自由主義の実験場にされたことは周知の事実である。その結果、経済格差がどんどん広がった。

こうした流れに抗して活発化した社会運動は、軍事政権を終結させた。そして議会制民主主義が浸透してくると一気に激変が起こった。今世紀に入るころから、次々と左翼政権が誕生して、新自由主義から脱却していったのである。

今や米国は、軍事介入できなくなっている。

日本の現状とラテンアメリカの現状を同一視することはできないが、新自由主義からの脱却という歴史の流れは同じだ。それ以外の選択肢はおそらくないだろう。現在の新自由主義に修正を加えても、これだけ格差が開いてしまえばどうすることもできない。

「日本丸」を沈没させないためには、新自由主義からの脱却が不可欠だ。

ところが今回の選挙でも、マスコミは新自由主義の路線を改めない政党ばかりに光を当てている。つまり財界のために世論を誘導しているのだ。マスコミ自体が財界をスポンサーにもった企業であるからだ。

期待できる政党は、共産、社民、国民の生活が第一、ぐらいではないだろうか?

とくに社民党は共産党と共闘すべきだ。それがみずからの勢力を回復する唯一の道ではないだろうか。国民の生活が第一については、注視していきた。

2012年11月26日 (月曜日)

読売がわたしに対して仕掛けた3件の裁判(請求額は約8000万円)が、「一連一体」の言論弾圧にあたるとして、損害賠償を求めた裁判で、控訴審の舞台となっている福岡高裁は、被告・江崎法務室長と原告・黒薮の双方に対し、大法廷(傍聴席数は100)を使って本人尋問を実施することを決めた。

尋問は12月12日の午後に行われる。

尋問のテーマは、原告が“恫喝”と主張している3件の裁判のうち、最初に提起された著作権裁判に特化される見込み。この裁判は虚偽の事実をでっちあげて提訴され、黒薮が完全勝訴した経緯がある。事実、争点となった催告書の名義人を江崎氏や喜田村弁護士(自由人権協会・代表理事)らが偽っていた高い可能性を最高裁が認定した。

それにもかかわらず原審の福岡地裁は、損害賠償を認めなかった。読売側から黒薮に対して起こされた損害賠償は認め(名誉毀損裁判で、福岡高裁の加藤新太郎裁判長が110万円の支払いを命じた。)、黒薮からの読売に対する損害賠償は認めなかった事実がある。

なお、著作権裁判が文書の名義人を偽って提訴され、それを前提に江崎氏側が主張を展開した事実を受けて、現在、わたしは喜田村洋一氏に対する弁護士懲戒請求を申し立てている。申し立てからすでに1年半が過ぎているが、いまこところ裁決は下っていない。第2東京弁護士会の綱紀委員会が、膨大な時間を割いて調査を続けている。

12月12日の尋問には、読売の代理人を務めている喜田村弁護士も出廷する可能性が高い。江崎氏の尋問内容によっては、喜田村氏に対する懲戒請求事件の「決定」にも影響を及ぼしそうだ。

催告書の名義人を偽ったことを認定する知的財産高裁の判決の認定部分は次ぎの通りである。(ここをクリック)

◆著作権裁判の経緯

懲戒請求申立の発端は古く2002年までさかのぼる。この年、YC広川の真村久三店主が読売から商契約の解除を通告されたことを受けて、読売新聞社を相手に地位保全裁判を起こした。 ? 裁判は高裁から最高裁まで真村氏の勝訴だった。 ? 裁判が進行していた時期、読売はYC広川を「飼い殺し」にしていた。しかし、敗訴が濃厚になると、それまでの政策を改めざるを得なくなった。そこで係争中に中止していた担当員による訪店を再開する旨を真村氏に知らせた。 ? 真村氏が弁護士に読売の真意を確認してもらったところ、次のメールが弁護士事務所へ送られてきた。

前略  読売新聞西部本社法務室長の江崎徹志です。 2007年(平成19年)12月17日付け内容証明郵便の件で、訪店について回答いたします。  当社販売局として、通常の訪店です。 以上、ご連絡申し上げます。よろしくお願いいたします。

わたしはこの回答書を新聞販売黒書に掲載した。すると江崎氏がEメールで回答書の削除を求める内容の催告書を送付してきた。

そこで今度は、その催告書を新聞販売黒書に掲載した。これに対して江崎氏は、催告書は自分で作成した著作物であるから、削除するように求めて、東京地裁へ仮処分命令を申し立てた。判決は、江崎氏に軍配が上がった。 ? そこでわたしは本訴で争うことにした。 2009年3月30日に言い渡された判決は、わたしの勝訴だった。

江崎氏らが提訴した根拠は、催告書が江崎氏自身が書いた著作物であるからわたしに催告書を公表する権限はないというものだった。著作者人格権を根拠としたものである。

著作者人格権:著作者の権利は、人格的な利益を保護する著作者人格権と財産的な利益を保護する 著作権(財産権)の二つに分かれます。 著作者人格権は、著作者だけが持っている権利 で、譲渡したり、相続したりすることはできません[一身専属権]。)

ところが裁判所は、催告書の作成者を江崎氏の代理人である喜田村洋一弁護士か彼の事務所スタッフの可能性が高いと認定した。 ? つまり江崎氏とは別の者が催告書を作成したにもかかわらず、江崎側は催告書の名義を江崎氏に偽って提訴に及び、著作者人格権を主張したのである。もともと江崎氏には、裁判を起こす権利がない。

このような行為は弁護士職務基本規定75条の次の条文に抵触するというのがわたしの主張である。

【75条】弁護士は、偽証若しくは虚偽の陳述をそそのかし、又は虚偽と知りながらその証拠を提出してはならない。

なお、わたしが提出した準備書面(1)(ここをクリック)を読むと、事件の本質が見えてくる。

2012年11月23日 (金曜日)

神戸市北区に住む溝口(仮名)さんの自宅は、携帯基地局のアンテナが林立するビルの隣にある。空を見上げると怪物の角を連想させるグロテスクな光景が視界に飛び込んでくる。20数年前に結婚に伴い引っ越してきたころには、想像もしない環境に投げ込まれたのである。

アンテナを設置したのはKDDIとソフトバンクの2社である。溝口さん一家は、日夜を通じて携帯電磁波に被曝することになったのだ。

最初のアンテナが設置されたのは、2003年の夏だった。KDDIが携帯基地局を稼働される旨を伝えるチラシをポストに投函した。しかし、特にそれに気を止めることはなかった。当時、溝口さんは携帯電磁波の人体影響について知らなかったのだ。

そのために頭上にそびえる奇妙な物体に気が付いたときも、取り立てて心配することもなっかた。が、まもなく身体に異変が現れてきた。溝口さんが言う。

「体調不良とはいえ昼間に少し長い昼寝をすれば、何とか生活もできていましたが、段々と不眠症がひどくなっていきました。鼻炎も悪化して、年中症状が出るようになりました。目は乾燥して目薬が手放せなくなりました」

さらに次のような症状があった。

※目の乾燥

※イライラ

※記憶の衰え

※頻尿

※体重減

※皮膚のかゆみ

これらの症状は、程度の差こそあれ家族全員に現れたという。

◇北里研究所病院の診断

ソフトバンクの基地局が隣のマンションに設置されたのは、2006年の1月である。その結果、溝口さん一家は、KDDIとソフトバンクの基地局から放出されるマイクロ波を浴びるようになったのである。

身体の不調が携帯電磁波により誘発されているのではないかと疑い始めたのは、インターネットで情報収集するようになってからである。その後、溝口さんは関西で携帯基地局の撤去運動を推進している人々と情報交換するようになった。

2008年の10月、溝口さんは東京都港区にある北里研究所病院の宮田幹夫医師を訪ねた。診察を受けた結果、「化学物質過敏症」と診断されたのである。

宮田医師が作成した「所見書」は、次のように述べている。

本患者の多彩な症状は決して精神的なものではなく、神経系の機能障害が起こしている身体的な病状です。(略)

化学物質過敏症は決して稀な病気でもなく、稀な特異体質でもありません。欧米の調査では、人口の1割弱、本邦の京都大学医学研究科教授内山巌先生が、以前国立衛生院時代に調査された結果では、治療を要する患者数は70万人ほど存在していると報告しておられます。また、科学物質過敏症患者は、体調不良であるために、しばしば電磁波にも敏感に反応するようになります。本患者もその例かと思われます。御高配を賜りたくお願い申し上げます。

「所見書」が明記しているように、化学物質過敏症の患者は、電磁波にも反応しやすい。携帯基地局が自宅の隣マンションに設置された後、溝口さんが体調の不良を訴えるようになったゆえんではないか。

宮田医師の診断に基づいて、溝口さんの夫・義男さん(仮名)はソフトバンクの孫社長に次のような手紙を書いた。(手紙の全文はここをクリック)

◇KDDIの基地局を撤去

不幸中の幸いか、2012年の7月に、KDDIは基地局からの電波発信を止めた。そして9月に基地局を撤去した。基地局を改築する計画があり、新型の基地局の重量では、マンションの耐震性に問題が生じるので、撤去を決定したのである。

こうしてKDDIの電波は止まった。しかし、現在もソフトバンクの電波が放出され続けている。

ソフトバンクは即刻に基地局を撤去すべきだろう。

2012年11月21日 (水曜日)

◆吉竹幸則(フリージャーナリスト・元朝日新聞記者)

前回この欄で、「言論・報道の自由」を脅かす黒薮VS読売訴訟最高裁逆転判決の危険性を書いた。ツイッターでも議論し、多くの方々から反響が寄せられた。人々が検察以上に今の裁判所の公正・公平性に不信の念を強め、ごく当たり前の人々の思いにさえ耳を傾けようとしない裁判官に、いかに不満を溜めこんでいるかの証しだろう。

それは、権力の手先になってしまった裁判官の監視を怠り、司法への市民のフラストレーションを吸収出来ないでいる司法記者・既成メディアの劣化の裏返しでもある。

◆裁判官の監視役は司法記者のはず

震災以来、多くの既成メディアが、本当のことを実は何も伝えていないことが改めて明らかになった。その中で、記者クラブに安住する記者が束になってもかなわないくらい、原発事故の裏でその時何が起きていたか、多くの事実をネットで報道するなど幅広く活躍しているのが、フリーランス記者の烏賀陽弘道氏だ。

実は烏賀陽氏は朝日の名古屋社会部時代、愛知県警キャップだった私と指揮下の警察記者の間柄で、一緒に仕事をした仲でもある。その彼も、黒薮哲哉氏と同様に、スラップ(恫喝)訴訟の標的になった一人だ。

こうした真面目なフリーの記者たちが、スラップ訴訟とそれに呼応し、「表現・報道の自由」を縛ろうとする裁判官により記者生命が脅かされれば、この国は本当のことが人々に何も伝わらない戦前同様の社会になってしまう。

今、裁判官の人事一つを見ても、いかに不公正で権力寄りになっているか。烏賀陽氏は、私とのツイッターでのやり取りでも、幾つもの具体例を挙げた。そのうえで、「裁判官は日本最後のノーチェックの絶対権力者」と語気を強めた。

私は「法律書丸覚えで、司法試験に通った輩に、世間常識や人々の苦しみが分かる訳がない。その輩を『ノーチェックの独裁者』にして、国の大事なことを判断させているのが、いかに恐ろしいことか。そろそろみんなが気付き、チェック方法を考えないと…」と応じた。

では、誰が今まで「ノーチェックの絶対権力者」を監視して来たのか。僭越な言い方かも知れないが、裁判が本当に公正・公平に審理されているか、不当な判決が出されていないかを取材し、報道する司法記者がその役割を果たして来たと、私は思っている。というより、裁判官はそれ以外に制度上もチェックのしようのない「絶対権力者」なのである。

◆「裁判官回り」や「弁護士回り」をする記者は少数

私は名古屋社会部時代、名古屋地裁・高裁を担当する2年の司法記者経験がある。昔の取材相手でもある弁護士に、私は最近、若い司法記者がその任務を果たしているのかを聞いてみた。

その人は「記者クラブにじっとしている記者が多くなり、裁判官や弁護士回りをしているのはほんの一握りではないか」と苦々しげに語った。「判決の解説原稿も少ない。載っても通り一遍。なるほどとうなづける記者の勉強の跡は見られない。

まして『不当判決』などと批判する解説には、ほとんどお目にかかったこともない。あれでは裁判報道ではなく、裁判所の広報だ。裁判官は記者を恐れなくなっている」との厳しい意見も付け加えた。

私が司法記者をしていたのは、1980年代。もう20年以上前の話だ。その頃の司法記者の日常を紹介しよう。

朝、裁判所の中にある司法記者クラブに着くと、その日の裁判日程の確認から始める。当日報じなければならない判決の「予定稿」は書いてある。言い渡し時間に変更がないかどうか確かめ、記事の出稿について、デスクとの打ち合わせを済ましておく。

判決文は難解で長い。判決が出てから読んで、おっとり刀で記事や解説を書き始めては、締め切りに間に合わない。「予定稿」とは、あらかじめ大体の判決内容を予想して記事の形にしておく原稿のことを指す。判決が出れば、その内容を確認して少々手直しすれば、そのまま記事として使えるからだ。

実は、司法記者にとってこの「予定稿」作りが勝負所なのだ。判決が正確に予想出来ていれば、簡単な手直しで済む。他社の記者より早く記事を出せるし、記事・解説原稿の中身も濃くなる。そのための準備作業こそ重要だ。

まず、訴訟当事者の弁護士に取材。訴状だけでなく、原告・被告双方の主張が書かれている準備書面や提出証拠のコピーをもらい、法廷での争点を聞く。記者クラブに戻り、これまでの判例を調べ、裁判官が争点に対してどのような判断をするのか、幾つかの判決予想をしてみる。

もちろん、司法記者と言えども法律のプロではない。もう一度、弁護士を訪ね、再取材する。もらった資料に基づいて自習した範囲での判決予想のパターンでいいのかどうか、確認を兼ねて話を聞くと、大体、判決パターンは分かる。住民の権利を重視する裁判官なら、こんな判決。国家権力の意向に沿う人なら、こんな判断をするだろうということも、想像出来るようになる。

◆裁判官の悩みを共有する

記者の仕事は、「権力監視」である。住民・国民の権利を踏みにじるような不当な判決が出れば、もちろん判決を批判する解説記事は不可欠だ。

でも、情緒的な批判記事は何の説得力ない。「これまでの判例に沿っても住民の権利を認める判決も書けたのに、敢えてこの裁判官は、その立場を取らず、国に有利な判断を下した」などと言う解説を書くには、こうしたきちんとした勉強の成果が必要になる。

それと私は、時間が許す限り、原告の人たちを直接訪ね、話を聞くように努めた。法廷は何も法律のプロたちによる単なる無機質な法律論議の場であってはならないからだ。

一般の人々が、多額の費用をかけて訴訟を起こそうと言うのは、並大抵の覚悟ではない。やむにやまれず、裁判での解決に一縷の望みを託す人々の思いはどんなものか。

裁判所と市井の人々をつなぐのが司法記者なら、裁判官が本当にそんな人々の声に真剣に耳を傾けて来たか。その思いを聞くことが、記者にとって最も大事なことなのだ。もちろん、そうした人々の願いが裁判官に通じたかどうかは、判決当日の社会面の記事になる。

だが、そこまでは私たちの時代の司法記者なら当たり前にやっていたことだ。問題はそこから先である。つまり、夜、自宅に戻った裁判官を訪ね、判決の感触をどうつかむか、「夜回り」をしているかどうかなのだ。

私は朝日の定年前、「最近の若い記者は裁判官の夜回りをしているのか」と後輩に聞いたことがある。「吉竹さんの頃はまだ裁判官が夜回りを受けてくれたから出来たでしょう。でも今は、ほとんど裁判官は受け付けないから、行くような司法記者はまずいないのでは…」との答えだった。

ただ、昔もそう簡単に裁判官は記者を自宅に招き入れてはくれなかった。何度も通ううち、玄関先で何とか話せるようになる。記者が前述の通り、裁判の流れ、争点・判例などを把握して解説記事も用意していると聞くと、裁判官なら自分の判決が当日、記事でどう書かれ、どのように評価されるか気になる。

家に招き入れても、判決記事を書く記者の話も聞いて、自分の思い・正当性も伝えておきたい。そんな思いがあったからこそ、裁判官は私を家に入れ、話をしてくれたのだと思っている。

判決内容を漏らしてくれなくても、二人で話をしていれば、ざっくばらんな裁判談義に発展することもある。たまには酒も出る。何も杓子ばって、「権力監視」などと言わなくてもいいのだ。記者の持っている世間感覚も裁判官に自然に伝わるし、人々の思いを法と枠内で判断しなければならない裁判官の心の痛みを感じることが出来る。

そんな夜回りの成果で、記者は裁判官の悩みも分かったうえでの解説記事を書く。裁判官も世間の目がどんなものか、自ずと分り、人々の心とあまりにもかけ離れた判決は書かなくなる。それが記者のしていた「判決・裁判官監視」だったのだ。

◆判決を公開して市民による監視を

「裁判官の独立」は建前。裁判官が一番怖いのは、人事権を持つ最高裁であることは間違いないだろう。でも、世間体を気にするから、判決評価を書く司法記者も実は怖い存在であった。

つまり昔、裁判官は権力の意向を受けた最高裁の目と、記者の監視による世間の論理との微妙なバランス感覚で判決を書いていたと言えるだろう。でも、司法記者が夜回りをしなくなっている。

記者クラブにいて、判決が出てから、それを書き写すだけの記事を出しているようでは、裁判官は記者を恐れる存在と見ない。人事権を持つ最高裁だけを気にするヒラメ裁判官の判決が、権力寄りになるのは当たり前のことではないかと、私には思えるのだ。

司法記者が裁判官監視の役割を放棄している今、烏賀陽氏は、「裁判官のようなガリ勉あがりは、名前と仕事結果が公開されるのを一番嫌がる」として、不当判決を下した裁判官に「鬼畜判決大賞」を出したり、「裁判官データベース」「裁判官ウオッチ」「裁判官ミシュラン」「裁判官閻魔帳」などのサイトで、具体的に判決を公開して、市民の監視を強めていく方法を提案している。

私も同感、大賛成だが、そうしなければならない司法と司法記者の現状を悲しく思うのだ。

≪筆者紹介≫ 吉竹幸則(よしたけ・ゆきのり)

フリージャーナリスト。元朝日新聞記者。名古屋本社社会部で、警察、司法、調査報道などを担当。東京本社政治部で、首相番、自民党サブキャップ、遊軍、内政キャップを歴任。無駄な公共事業・長良川河口堰のウソを暴く報道を朝日から止められ、記者の職を剥奪され、名古屋本社広報室長を経て、ブラ勤に至る。記者の「報道実現権」を主張、朝日相手の不当差別訴訟は、戦前同様の報道規制に道を開く裁判所のデッチ上げ判決で敗訴に至る。その経過を描き、国民の「知る権利」の危機を訴える『報道弾圧』(東京図書出版)著者。

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2012年11月20日 (火曜日)

携帯電磁波の問題は、日本よりもむしろ海外でクロースアップされている。たとえば同じアジアの中では、台湾のメディアが熱心にこの問題を報じている。 日本のメディアよりも遙かに先進的だ。

具体的にそれがどのようなものなのか台湾のテレビニュースを紹介しよう。

■【画像はここをクリック】???

《中天新聞》携帯基地局の紛争が再燃している。台中市太平区東平路にある民家の屋上に10数機の携帯アンテナが設置されました。この民家の主は、契約の有効期限が終われば、それ以上は更新しないことに合意しましたが、実際にはアンテナの数はどんどん増えていき、付近の住民に癌が多発している。

市会議員が100人ほどの住民と共に、横断幕を広げて抗議しました。また、卵を投げつけました。地権者の息子は、「基地は合法的に設置されたもの」と話しています。(翻訳・奈美)

■【画像はここをクリック】

携帯基地局は人体に対して直接被害を及ぼすかどうかは、現在の医学では決定づけられませんが、汐止北山地区で癌が多発しています。近くにある大湖科学園の屋上の携帯基地局から発せられる強い電磁波が原因である可能性がああります。7日の朝、市会議員の周雅玲さん、北山里長、NCC、政府関係者などが現場を視察しました。(翻訳・奈美)

2012年11月19日 (月曜日)

このところSLAPPが大きな社会問題になっている。SLAPPとは、高額の賠償金を請求して言論活動や住民運動を抑圧する手口である。

もっとも日本の司法界には、SLAPPという概念はほとんどないので、状況証拠から総合的に判断して、ある行動を抑圧するために仕掛けられた裁判の可能性があれば、SLAPPと判断するのがわれわれ一般人の立場である。

たとえば2008年2月から1年半の間に、読売(渡邉恒雄主筆)がわたしに対して起こした3件の裁判では、請求額が約8000万円にもなっており、しかも、短期間で連続的に提訴がなされている事実から察して、SLAPPの可能性が高い。

◇武富士から読売へ

日本で最初のSLAPPは、今世紀の初頭、武富士が次々とフリーライターらを訴えた事件である。その後、「オリコンVS烏賀陽弘道」、「安倍晋三VS山田厚史」、「西岡研介VS JR総連・JR東労組」、「斉藤貴男VS経団連会長」などの裁判が提起された。

SLAPPの疑惑がある最近の訴訟としては、読売を原告とする一連の裁判である。ざっと記憶しているだけで次ようなものがある。

1,一連の対清武裁判

2,一連の七つ森書館裁判

3,一連の黒薮裁判

裁判には至っていないが、読売は朝日新聞社や文藝春秋社に対しても、提訴を公言している。

SLAPPのひとつの特徴として、訴因に嘘がある場合が多い。裁判を提起してターゲットに人物を精神的、経済的に疲弊させることが目的であるから、揚げ足を取って裁判を起こす結果かも知れない。

◇黒薮VS江崎  

たとえば、「黒薮VS江崎法務室長(読売)」の裁判。

【参考:読売による「一連一体」の言論弾圧を問う控訴審、7日に福岡高裁でスタート】

この裁判の中で江崎氏は、問題となった催告書の作成者が自分であると主張した。それを前提に「新聞販売黒書」から催告書を削除するように求めたのである。

実際、催告書の名義人は、江崎氏になっていた。ところが裁判の中で催告書の作成者は、別にいたことが判明したのだ。つまり江崎氏は、催告書の名義を「江崎」に偽ってわたしに送付していたのだ。

それにもかかわらず、催告書は自分が執筆した著作物であると主張して、削除を求め、提訴に及んだのである。

(参考:催告書の作成者が、江崎氏ではないことを認定した記述。判決から引用)

◇レコード会社31社対穂口氏 

現在、東京地裁では、レコード会社31社が作曲家・穂口雄右氏を訴えた音楽著作権裁判が進行している。賠償額は約2憶3000万円。この高額訴訟も提訴の前提事実があやふやな印象がある。

穂口氏の会社は、移動通信機器を対象としたファイル変換サービス「TubeFire」を提供してきた。これによりYoutube上の楽曲がスマートフォンなどでも視聴できるようになっていた。

訴状によれば、レコード会社側は違法にダウンロードされたファイルがTubeFireに1万431個蔵置されているという。当然、それを前提に約2憶3000万円を請求したのである。

ところが去る9月にレコード会社側が提出した証拠ファイルは128個にすぎなかった。訴状に明記した1万431個にははるかに及ばなかった。

この裁判でレコード会社側の代理人の大半を占めるMTI総合法律事務所の弁護士らは、提訴に際して1万431個の違法ファイルを確認したのか、大きな疑問が残る。かりに1万431個が存在しないことを知りながら提訴に及んでいたとすれば、弁護士懲戒請求の対象になる。

と、言うのも弁護士職務基本規定の75条は、虚偽の証拠を提出することを次のように禁じているからだ。

75条 弁護士は、偽証若しくは虚偽の陳述をそそのかし、又は虚偽と知りながらその証拠を提出してはならない。

日弁連が編集した解説は、75条を次のように解説している。「4」「5」の部分をPDFで紹介しよう。

(参考PDF:4.偽証・虚偽の陳述、5.虚偽の証拠提出)

2012年11月15日 (木曜日)

新刊『新聞の危機と偽装部数』(花伝社)が、11月の下旬に発売になる。これまでわたしは新聞販売の諸問題を扱った単行本を5冊出版してきた。6冊目にあたる新刊の最大の特徴は、「偽装部数」という言葉を採用したことである。

偽装部数とは何か?  新聞社は新聞販売店で過剰になっている新聞を次に示す3つのカテゴリーに分類している。

1、「押し紙」:新聞社が販売店に押し付けて、卸代金を徴収した新聞。

2、「積み紙」:販売店が折込チラシの水増し目的で、自主的に受け入れた新聞。

3、「残紙」:「押し紙」と「積み紙」の総称。

このようなカテゴリーが存在するものの、われわれ一般人は、「残紙」を指して「押し紙」と呼んでいる。社会通念からして、販売しない商品を好き好んで仕入れることはありあえないからだ。

言葉も時代の変遷や人間意識の変化と共に常に変化する。当然、辞書や書類の上で定義されている意味よりも、実生活の中で採用されている意味を優先するのが常識だ。しかし、裁判官は、現場を取材しないので、新聞社が示している言葉の定義が正しいものと勘違いしている。

その結果、販売店でいくら新聞が過剰になっていても、それが新聞社によって押し付けられたものである事を法的に立証しない限り、販売店は「押し紙」裁判で勝てない状況が延々と続いてきた。裏を返せば、新聞社はこのような裁判所の判断基準を熟知しているから、「押し紙」の意味を「新聞社が販売店に押し付けて、卸代金を徴収した新聞」に限定するのだ。

事実、「押し紙」裁判になると、新聞社は必ず「押し紙」の定義を明確に打ち出してくる。その上で、「新聞を押し付けた事実はないから『押し紙』は一部も存在しない」と主張する。

一方、販売店が折込チラシの受注を増やすために、みずから配達しない新聞を受け入れるケースが存在することも事実である。

つまり現在の「押し紙」裁判は、販売店で過剰になった新聞の責任が新聞社にあるのか、それとも販売店にあるのかを争う裁判である。

しかし、われわれ一般人にとって、過剰な部数の責任が新聞社にあるのか、それとも販売店にあるのかは、それほど重要ではない。最も重要しなければならない事実は、どちらのサイドに責任があるにしろ、新聞の商取引きの中で、公称部数が偽装され、紙面広告の媒体価値をかさあげする手口が日常化している点である。

それゆえに新刊書では、その原因となっている過剰な部数を指して、「偽装部数」という言葉を採用したのである。「残紙」を「偽装部数」に格上げしたのだ。

本書の内容は次の通りである。

 (ここをクリック:『新聞の危機と偽装部数』の内容

改めて言うまでもなく、わたし自身の対読売裁判や第2次真村裁判の判決についての章も設けた。木村元昭(福岡高裁)裁判長、加藤新太郎(東京高裁)裁判長が下した判決を批判している。

また、吉竹幸則さん(フリージャーナリストで元朝日新聞記者)の特別寄稿「黒薮VS読売訴訟の本当の勝者とは???メディアの失ったものの大きさを思う・・・」も収録している。

新聞経営による言論妨害や出版妨害がなければ、本書は11月中には、全国の書店へ配本される。

2012年11月15日 (木曜日)

 メディア黒書は広告主に依存しないウエブサイトです。取材活動を広げるための力をお貸し下さい。財政が確保できれば、取材の範囲を広げ、より質の高い情報を提供することをお約束します。

カンパは、次の口座で常に受け付けております。

【みずほ銀行】
支店名:市ヶ谷支店
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口座:普通口座
名義:黒薮哲哉

 

【ゆうちょ銀行】
(1)郵便局から「ゆうちょ銀行」へ
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名義:黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)

(2)都市銀行から「ゆうちょ銀行」へ振り込む場合
支店名:008
口座:普通口座
口座番号:0982955
名義:黒薮哲哉

※なお、カンパしていただいた方は、「xxmwg240@ybb.ne.jp」までご一報いただければ幸いです。

2012年11月13日 (火曜日)

◆吉竹幸則(フリージャーナリスト・元朝日新聞記者)

「言論・報道の自由」を脅かす黒薮VS読売訴訟の異例とも言える最高裁逆転判決。その不当性についても書いた黒薮哲哉氏の著書『新聞の危機と偽装部数』(花伝社刊)が出版される。

この判例が今後、下級審でも罷り通ればスラップ(恫喝)訴訟など訴訟多発社会を誘発する恐れもある。私もこの著作に「黒薮VS読売訴訟の本当の勝者とは?」と題し、特別寄稿している。出版を機会に改めて判決の問題点を考えてみたい。

◇揚げ足取りで、2230万円を請求

2008年3月、福岡県の読売販売店改廃に絡み、折込広告代理店が配る予定になっていたチラシを持ち帰った。黒薮氏は自身のこのサイト(当時は「新聞販売黒書」)で改廃事件を伝え、持ち出し行為について記事の一部で、「窃盗に該当し、刑事告訴の対象になる」と書いた。これが、訴訟の発端となった。

チラシの持ち出しは店主が同意していたのだ。私も黒薮氏の取材不足を否定しないが、読売側は黒薮氏の記事のほんの一部の表現を捉え、「事実誤認で窃盗には該当しない」と、黒薮氏を名誉毀損で2230万円もの損害賠償(控訴審で減額)を求め、提訴した。

名誉毀損訴訟では、「一般読者の普通の注意と読み方を基準に、前後の文脈、記事全体の趣旨,記載内容、体裁、社会的反響などを総合的に考慮する必要がある」との1954年最高裁判例が、判断基準となっている。

健全で公正・公平な社会を実現するためには、規制に縛られない情報提供、言葉による権力監視機能が不可欠だ。これまで報道機関は、「表現・報道の自由」の重要性を強く訴え、国家権力・裁判所の介入は出来るだけ抑制的であるべきだと主張してきた。

論拠は、この判例の中の「前後の文脈、記事全体の趣旨,記載内容、体裁、社会的反響などを総合的に考慮する必要がある」の部分だ。つまり、言葉の端々を捉えるのではなく全体で判断し、たとえわずかな事実誤認があろうとも、実害の乏しい記事・報道では名誉毀損は出来るだけ認めるべきでないとの考え方である。

◇メディアが持つ権力監視の役割

一方、メディアによる権力批判をかわすため、「表現・報道の自由」を少しでも制限したくて言葉の端々の事実誤認を捉え名誉毀損訴訟を起こす勢力は、記事の小さな事実誤認や表現でも「名誉毀損」を幅広く認定すべきだとしてきた。

その攻防、対立の構図は、国内というよりも、むしろ海外で多くの歴史がある。 「表現の自由」を重視する人の側が依拠する代表的な論理は、1964年の合衆国最高裁が出した「現実的悪意」の法理(詳しくは松井茂記・大阪大名誉教授著『マス・メディアの表現の自由』日本評論社参照)だろう。

誤解を恐れず分かり易く説明すると、権力者の暴走を防ぐためには様々な角度、多数・多様なメディアによる報道がなされ、多くの人が監視出来る社会的環境が整っていなければならない。

それには、真っ当で当然「保護」されなければならない報道を「保護」するだけでは十分でない。本来は「保護」されるべきか微妙ないわゆる「灰色」、限界ぎりぎりの報道まで、「保護」されなければならないと言うものだ。

そうでないと、記事や様々な文章の中の細かな事実誤認や筆が滑った程度の言い過ぎ、適切さを欠いた表現などがあれば、言葉尻を権力側に捉えられ名誉毀損で訴えられることを人々は恐れる。

結局、権力批判の委縮を招き、本来の意味での報道や人々の言葉による「表現の自由・権力監視」が空洞化してしまうからだ。

◇「木を見て森を見ない」最高裁の論理

国内の訴訟でも、報道機関が記事の言葉尻を捉えられ、相手側に名誉毀損訴訟を起こされた時には、この論理で対抗することが多い。

ある意味、1954年最高裁判例の「記事全体の趣旨で総合的考慮」の部分は、この考え方に立つ。言葉尻を捉えて訴訟を起こし、自分に都合の悪い記事を書く記者・報道機関に圧力をかけようとするスラップ訴訟に対し、乱発を防止する歯止めの役割を果たして来たのも確かだろう。

黒薮訴訟の最初の1、2審は、これまでの最高裁判例に照らし記事全体を「総合的に判断」した結果、名誉毀損の成立を認めず読売側の敗訴となった。

「黒薮氏は記事掲載翌日に、読売側に『反論を掲載する』と連絡。その後経緯を説明、記述も改めた。記事の1部に事実誤認があっても、読者は読売側が『窃盗』をしたと誤解する可能性が少ない」とし、「事後的補てんが必要なほどの名誉毀損とは言えない」と認定したからだ。

ところが最高裁は記事全体を見渡すのではなく、「事実誤認がある黒薮氏の記事は、名誉毀損」と簡単な理由だけで、1、2審判決を破棄。差し戻し審で、黒薮氏は敗訴。「読売が窃盗をやらせる会社と誤信させる。業務上の支障はうかがわれなくても、無形被害がある」と、個人としては異例の高額の110万円の賠償を命じた。

◇読売をわざわざ逆転勝訴させた意図

権力監視・批判をするジャーナリスト・ジャーナリズムは、権力にとってうるさい存在である。従来の判例解釈を事実上撤廃、記事のわずかな事実誤認でも名誉毀損を認定出来るなら、裁判所の裁量権は大きく広がり、裁判官の腹次第で報道表現を規制し、縛りをかけることが可能だ。これまでこの判例解釈変更に抵抗してきたのは、報道機関側だ。

しかし、読売側が黒薮氏への提訴で、これまでの報道機関側の主張とは正反対の主張をするなら、最高裁・国家権力としては判例解釈を変更、下級審に知らしめる長年の悲願を達成する絶好の機会と捉えたとしても、何の不思議もない。

わざわざ1,2審判決を破棄してでも、最高裁が読売主張を丸呑みする逆転判決を出した裏には、そんな権力側の不純な意図を感じない訳にはいかないのだ。

日本出版労連も、「あくまで言論で対処するのが、出版人のプライド。恫喝めいた訴訟がまかり通れば、自由闊達な言論活動が定着しない」と、最高裁判決や読売の提訴に抗議声明を出している。言葉には言葉で対抗。これが報道機関の本来の姿だ。読売もIPS臨床応用報道で大誤報をした。一つ一つの小さな事実誤認で訴訟沙汰では、報道機関が成り立たない。

読売は、自らの記事の事実誤認には、「訂正・お詫び記事」掲載で対処している以上、黒薮氏の事実誤認に対してもまず抗議して、黒薮氏のサイトに「訂正・お詫び記事」の掲載を求めるのが報道機関としての筋だと、私は思う。

◇「押し紙」批判報道を止めたかった?

読売側が、黒薮氏の「押し紙」批判報道を止めたいばかりに目がくらみ、これまでのジャーナリズムの主張・魂をそっくり裁判所・権力側に売り渡したと言うのは、言い過ぎだろうか。自らの提訴が藪蛇となり、「表現・報道の自由」の陣地をますます狭くした読売の罪は、ジャーナリズムにとって決して軽くないのではないか。

最高裁逆転判決により、記事中のわずかな事実誤認を捉え、権力批判をする記者・報道機関への口封じのためのスラップ訴訟の多発が心配されるだけではない。ネット上でつぶやく一般の人たちにも少なからず、この判決の影響を受ける。

「人を見たら、泥棒と思え」「あんた、詐欺師か」などの言葉はよく投稿される。でも、この最高裁判例なら、「犯罪者扱いされた」と、訴えられたら、今後、高額の賠償金を支払わなければならない事態さえ、ないとは言えないからだ。

つまり、裁判官の恣意、腹次第で判決が左右出来るなら、ネットに限らず、権力側に都合の悪い発言を続ける人たちや報道機関に対し、名誉毀損訴訟の場を借り、国家権力・裁判所はいくらでも言葉に縛りをかけ、記事を実質検閲するのも可能なのだ。

戦前、治安維持法でなされた権力の言論統制・検閲・言葉狩りが、これからは名誉毀損訴訟を利用してなされない保証はどこにもない。黒薮VS読売訴訟の勝者は実は読売でなく、戦前の報道弾圧社会の再来を願う最高裁・国家権力ではなかったかと、私は思わざるを得ない。

私が、このサイトに執筆するようになったのも、黒薮氏への最高裁逆転判決を知ったことがきっかけだった。読売の訴訟提起や不当判決で、最も影響を受けるのは、組織のバックのない黒薮氏のようなフリーランスのジャーナリストだ。

ネットの記事一つで高額の賠償金を払わなければならないと、たちまち仕事だけでなく、生活にも行き詰る。黒薮氏のジャーナリスト生命をこんな不当判決で奪ってはならず、何とか応援したいと思ったからである。

◇異議を申し立てたら記者職を剥奪

私の対朝日報道弾圧・不当差別訴訟。記者だった私が取材した、当然記事になるべき原稿を朝日が止め、異議を申し立てたら記者職を剥奪したことが発端だ。

何度も朝日に対し、記者職を剥奪した理由を問い質したが、まともな答えがなく、やむなく、記者には人々の「知る権利」に応える責務と雇用者として正当な業務に対して、経営者から不当な差別は受けない「報道実現権」があると主張しての提訴だった。

しかし、1審から上告審まで、裁判所は一切の事実審理・証拠調べや原告である私の本人尋問さえも認めず、事実と正反対のデッチ上げ判決で、私を敗訴させている。

私の主張する「報道実現権」を認めてしまえば、社内圧力による不当な記事の差し止めに、記者はこの権利で対抗する。そうなれば、戦前の経営者を抑えての報道弾圧社会の再来が不可能になるからだろう。

裁判所はもはや、人々の権利を守り、公正・公平に判断する組織ではない。国家・権力者の代弁者・手先に成り下がり、人々の「知る権利」を奪い、権力を監視するジャーナリズム・ジャーナリストの表現・報道の自由を奪おうと躍起となっている。そのためにはデッチ上げでも何でもやる中世の暗黒裁判並みの組織に劣化していると言わざるを得ない。

詳しくは、黒薮氏の『新聞の危機と偽装部数』や拙書『報道弾圧』(東京図書出版)を読んで戴きたい。最高裁逆転判決で権力による報道弾圧・言葉狩り、人々の「知る権利」の侵害が常態化してから、黒薮訴訟や私への判決が転換点と気付いた頃には、もう遅いのだ。

≪筆者紹介≫ 吉竹幸則(よしたけ・ゆきのり

フリージャーナリスト。元朝日新聞記者。名古屋本社社会部で、警察、司法、調査報道などを担当。東京本社政治部で、首相番、自民党サブキャップ、遊軍、内政キャップを歴任。無駄な公共事業・長良川河口堰のウソを暴く報道を朝日から止められ、記者の職を剥奪され、名古屋本社広報室長を経て、ブラ勤に至る。記者の「報道実現権」を主張、朝日相手の不当差別訴訟は、戦前同様の報道規制に道を開く裁判所のデッチ上げ判決で敗訴に至る。その経過を描き、国民の「知る権利」の危機を訴える「報道弾圧」(東京図書出版)著者。

2012年11月13日 (火曜日)

移動通信機器を対象としたファイル変換サービス「TubeFire」が違法に当たるかを巡って、レコード会社とミュージックゲート社(代表は作曲家の穂口雄右氏)との間で争われている音楽著作権裁判。

レコード会社側は違法にダウンロードされたファイルがTubeFireに1万431個蔵置されていると当初より主張してきたが、9月に提出された証拠ファイルは128個にすぎなかったことがわかった。

10月1日から「違法ダウンロード」に懲罰を課す法律が施行されるなど国家権力による厳罰化が進むなか、レコード会社側としても、2億円を超える高額を嫌がらせ的に著名人に請求することで、公衆を威嚇しているように見える。根拠のない事実を前提とした“見せしめ裁判”の疑いを検証する。(続きはマイニュースジャパン)