2013年05月03日 (金曜日)

◆吉竹幸則(フリージャーナリスト・元朝日新聞記者)

北朝鮮問題で中国、韓国との緊密な関係が何よりも必要な時です。でも、連携をぶち壊す靖国神社への閣僚・国会議員の参拝です。両国のみならず、米国からも強い反発が出ています。

憲法9条が改正されたなら…、万一、この国が核武装まで言い出すならなおさら、この程度の反発では済まないでしょう。東アジアの安定からも、憲法9条の堅持がこの国の政治・外交にとって、最もふさわしい現実政策であることを私は何度もこの欄で言って来ってきました。このことからも改めてご理解戴けたのではないでしょうか。

私も含め、過去の戦争で命を失った人とご遺族に対し、深い哀悼の念を持たない人はいないでしょう。しかし、靖国参拝の是非となると、人々の心は様々に分かれます。まして、国土が戦場になり、占領に近い状態の中で多くの人が亡くなった他国の人たちの気持ちは、察してあまりあるものがあります。

勇ましい言葉は、誰にも吐けるのです。しかし、言葉には、相手の気持ちに対する思いやりと説得力、自分の言葉への責任が伴います。言葉を操ることを生業とする政治家やジャーナリストなら、なおさらです。

靖国参拝をした議員と9条改正を口にする議員は大半が重なるでしょう。しかし、彼らが中国や韓国に行き、自らの靖国参拝の正しさについて説得力を持って説き、相手の納得を得たと言う話を、私は聞いたことがありません。その結果、北朝鮮にスキを与え、万一の事態を招いてしまったら、誰がどう責任を取るのでしょう。支持者受けし、票にもつながるとの安易な考えで、後先考えず靖国参拝している議員がいるとしたなら、あまりにも無責任です。

◇朝日襲撃事件と朝日の報道姿勢

そんな中で、今年も「5.3」迎えます。この日は言うまでもなく、1947年、この国が戦後の再出発を誓い、平和憲法が施行された記念日です。ただ、私の古巣の朝日新聞社にとっては、もう一つの特別な日でもあるのです。

1987年5月3日夜、兵庫県西宮市にある阪神支局が襲撃され(警察庁指定116号事件)、当時、29歳だった小尻知博記者の命を奪われたからです。

実は私はその日をいつも複雑な思いで迎えています。人々の命と生活を何より大事にしなければならない政治家が、それに真剣に取り組んでいない現実があるのと同様、何よりも「表現・報道の自由」を守らなければジャーナリズム、とりわけ朝日が、人様に格好のいいことを言っても、言行一致で心からこの権利を守ることに真剣に取り組んでいるのか、という疑問を感じざるを得ないからです。

1987年のその日、私は名古屋本社で遊軍記者をしていました。阪神支局が襲われた後、「反日朝日を処刑する」との犯行声明も出され、名古屋の独身寮にも何者かにより銃弾が撃ち込まれました。私は、それまで警察記者経験が長かったこともあり、この事件を追う中心メンバーの一人になり、この事件にも長く携わることになりました。

そんな取材を通して、小尻記者が多くの人々からも好かれ、信頼も得ていたことを知りました。どこにでも厭わず足を運び、人の話を聞く熱心な記者でもありました。要領よく、頭だけで記事を書こうとする若い記者が増えた今、小尻君のような記者が生きていてくれたらと、残念に思っています。

思い返せば、朝日の中で記者の実績より、上司に覚えのいい要領のいい人物が昇進する派閥人事がのさばり出したのも、この頃からでした。記者は、何を書くかより、上の意向ばかり気にするようになりました。

だからこそ私は、「朝日はこんな連中に狙われるほど、立派な組織なのか」と思う半面、小尻君のような記者を死に追いやった犯人が許せず、懸命にこの事件を取材、犯人を追い続けたつもりです。私なりに犯人像は描いたつもりですが、力不足で逮捕に結びつけることが出来ませんでした。小尻君に申し訳なく思っています。 朝日でも事件直後、「読者の支援にこたえたい」、「われわれはこれからも暴力や脅しに屈するようなことは決してない」と社説で力説。以来、毎年この日、阪神支局に拝礼所を設けるとともに、朝日労組も「言論の自由」を守るための集会を開いています。拝礼所には、毎年、多くの市民が訪れます。小尻記者の人柄のせいでもあり、権力への監視役としてジャーナリズムを未だ朝日にも期待している人たちがいることの表れでしょう。有難いことです。

◇小尻記者の元上司と報道規制問題

しかし、朝日はそんな読者の心を、陰で裏切っているのではないか。私が何ともやりきれない気持ちになるのは、こんな集会で「報道・表現の自由」を守ることの大切さを、格調高く説く朝日幹部の姿でした。とりわけ、事件当時の大阪・社会部長として、ほとんどの集会で朝日を代表してあいさつする小尻記者の上司に当たる人物の言葉を、私は毎年、鼻白む思いで聞くしかなかったからです。 この人物は事件後昇進して、1992年、名古屋本社の編集局長に就任していました。前にもこの欄で書いた通り、私はこの年、長良川河口堰報道を東京本社でも止められた後、豊田支局長に左遷されて名古屋本社に戻りました。しかし、私が東京に転勤前の1990年、この報道を最初に止めた社会部長はまだ残っていました。名古屋に戻っても、再びこの取材をして記事にすることはままならなかったのです。

もちろん、部長が河口堰報道を止めた経緯からも、誰かと繋がった確信犯であろうことは容易に想像出来ました。しかし、河口堰は工事途中。何とか記事を復活出来れば、税金の垂れ流しでしかない工事を止められるかも知れません。長良川の豊かな自然を守ることも、まだ可能でした。

だから私は、社会部長の上司でもあり、名古屋本社の編集局・編集権を取り仕切るこの人物に一縷の望みを託したのです。

前述の通り、阪神支局襲撃事件の痛みを誰よりも知っているはずです。毎年の拝礼式では朝日を代表し、何より「表現・報道の自由」の大切さを説き、読者・市民に朝日に対する応援とこの事件の解決を訴えている人物です。なら、私の記事の復活にも理解を示してくれるかも知れないと考えたからです。社会部長を監督するのが編集局長ですから、もちろんその権限もあります。

私はその人物に直接、訴える機会を探りました。しかし、相手は避け続けたので、その年の5月、名古屋本社の編集局長室を訪ね、直接、話をしようとしました。でも、「約束もなく、突然部屋に来るなんてどういう了見だ」と、けんもほろろに拒絶されるだけに終わりました。

新聞社では、記者が直接、編集局長に話をするのはよくあることです。むしろ「若い記者と話をしたい」と、ポケットマネーで買った酒を部屋に常備し、夜な夜な記者と酒を酌み交わす局長も、昔はよくいたのです。

それに何より編集局長は、読者の「知る権利」に応えるのが何よりの責務である編集局最高責任者です。国と反対派住民が激しく対立、大きなニュースになっていた河口堰報道で記者と社会部長の間でもめていると話を聞いたなら、問題の所在は何か、自分の目と耳で確かめて対処するのが、当然の仕事です。しかし、この人物は「社会部で話をしろ。俺は知らん」と、取り合おうともしなかったのです。

それまで聞いていた人物像との落差に、私は愕然としました。でも、部長が確信犯と考えざるを得ない以上、私は何とか編集局長であるこの人物を説得する以外にありませんでした。その後何度も、機会を見て話をしようとしましたが、そのたびに追い返されていました。

もちろん、もう何を言っても無駄だということは、分かっていました。しかし、記者なら、あとで「言った」「言わない」は愚の骨頂です。これまでこの人物に言い続けたことを、後々の証拠にするためにも文章で提出し、反応を待つことにしたのです。

◇言行不一致の報道姿勢を露呈

「長良川河口堰について」と題した私の編集局長宛の手紙は、過去の経緯からも書かなければならないことがあまりにも多く、45頁にわたる長文になりました。それでも「失礼の段があれば、お許しください」と、出来るだけ丁寧な言葉で始めたつもりです。

朝日が「『取材した事実』を報道しないことがあるなら、将来に大きな禍根を残す」として、何を報道すべきか。私が取材した経過、集めた証拠資料により、建設省(現国土交通省)が「治水上、堰は必要」とする根拠のウソ・言い訳のカラクリなども、こと細かく書き連ねました。超高齢化社会を迎える中で、無駄な公共事業で財政を悪化させることはこの国にとり命取りになることも力説。報道の復活を誠心誠意、促したつもりです。

もっとも、何を書いても、この人物は返事もしてこないだろうと思っていました。ところが、その年の年末ぎりぎり、大阪本社編集局長への栄転直前になって、この人物から私宛に手紙が届きました。しかし、中身は唖然とするものでした。

手紙は、「長文のメモを受け取りました。局長として後任に引き継ぐ筋合いのものではないと判断するので、以下、個人からの貴兄への私信として、受け取ってください」から始まっています。しかし、読者・市民の「知る権利」、「報道の自由」という公益性に関するにかかわる話です。私が編集局長という「公人」に送った文書の返信であり、「私信」であろうはずはありません。拙書「報道弾圧」(東京図書出版)にも採録してありますが、ここでも全文を公開させてもらいます。

「読ませてもらって、もう一度忠告したい。第一に貴兄の目的は何なのか。掘り起こしたデータを紙面化することにあるなら、特定の人間を批判することが目的と受け取られるような拙劣な手紙を軽率に送らない方がいい。

第二に、掘り起こしたデータを生かしたいなら、何度も言うようだが、出稿部の中で、正規のルートで上げていくべきだ。貴兄は、取材資料をもとに、社会部デスク1人ひとりに説明し、紙面化への努力をアピールしたか。1年半か2年前、貴兄の素材は一度デスクレベルで、検討されたと聞いている。それから長い時間がたった。データは今でも使えるのか。当時出たとされる疑問点をクリアするような、補強データを新たにつかんでいるのか。

もし建設省が全面否定するような場合は、どうするのか。どうできるのか――こういった点をひとつひとつデスク諸公(1人のデスクが否定的なら、他のデスクというように)に根気よく、話してみたか。小生には貴兄がそうしたとは、とても思えない。出稿母体での手順を踏んだ論議を飛び越えて、局長室が采配を振うことがよいこととは、小生は思わない。

第3に、状況認識について、思い詰めたり、焦ったりしてはいけない。新聞記者は冷静でなければいけない。小生は名古屋に来る前にも、『討論のひろば』特集などを読んでいたし、来てからも社説等も調べた。その後の紙面切り抜きをみても、名古屋・社会部が全体として、報道姿勢を180度転換したとは、とても思えない。にも拘わらず、工事が進行しているのは、建設省が強行しているからであって、朝日新聞が弱腰だからというのは論外であり、そんな風に絡めて考えることが間違っている。

貴兄のつかんでいるデータがすごいものなら、必ず陽の目は見るだろう。そうなりにくいなら、まだデータとして弱いからで、さらに努力して補強する気持ちが湧いてくるだろう。

繰り返す。他人の中傷と受け取られかねない長大の゛やけっぱち゛文書をつくる暇があるなら、貴兄の取材資料一点にしぼって、デスク1人ひとりに話し合うことが最善ではないのか。貴兄と名古屋社会部のために、そうすることを要望します。ご健闘を祈る」

◇誰が「やけっぱち」で「卑劣」なのか?

「ご健闘を祈る」など、大きなお世話です。私はデスクと「根気よく」話してみた結果・成り行きも、この人物に送った文書にも詳しく書いています。デスクは「部長が恐いから、記事に出来ない」と、語っています。私の報告が信じられないのなら、直接、デスクに確かめればいいだけの話です。

部長の行状で部下が悲鳴を上げ直訴したなら、局長は記者やデスクから直接、話を聞いて裁断を下す。組織の現状把握が最大の仕事である編集局長の役割です。それが「手順を踏んだ論議」と言うものではないでしょうか。

挙句に「建設省が強行しているからで、朝日新聞が弱腰と考えるのは論外」と言うことこそ、「論外」です。建設省がウソ・偽りを労して「強行」するなら、新聞の役割は、「権力監視」です。真実を世間に伝えて、世論の力で「強行」を止める。それがジャーナリズムであり、やらないのは、「弱腰」です。

目の前で、ウソで固めた無駄な公共工事が着々と進んでいたのです。そのウソの証拠が完全に揃っているのに、記事に出来ないことに「焦らない」記者など、記者ではないのです。

「データが弱い」かどうかも、取材資料は届けてあります。局長も記者なら、自分の目で確かめれば済みます。専門的で、分かりにくいなら、私に直接、聞けばいいだけの話です。「データがすごいなら、陽の目を見させる」のは、局長の役割ではないでしょうか。

何よりも、私の策略にまんまとはまり、証拠に残る直筆の「やけっぱち」「拙劣」な手紙を送ってくるこの人物の「軽率さ」に、私は驚くしかなかったのです。

でも、私が編集局長に送ったこの手紙が、編集局への反逆とみなされ、私はその後、記者の職から追放されました。長く苦情処理係の広報室長に配転され、「ヒラでいいから、記者に戻して欲しい」と願い出ても、「記者に戻りたければ、編集局に信頼回復せよ」とまで、言い放たれました。

◇朝日コンプライアンス委員会への提訴

そこから、私と朝日との「報道弾圧」を巡る第2ラウンドが始まったのです。様々な経過がありましたが、ラチが明かず、私は最後に、「どちらが読者に対して信頼回復すべきか」と、朝日のコンプライアンス委員会に提訴しました。

この委員会は、朝日が自ら定めた報道倫理を実際に順守しているか、社員からの訴えに基づいて審議、自浄作用を発揮するために設けられています。もちろん、報道倫理のイロハのイは、読者・国民の「知る権利」に応えることです。

これにもさまざまな経過がありました。「報道弾圧」に詳しく書いていますのでここでは割愛しますが、委員会は先の人物同様、私から一切事情聴取しようとせず、本格審議の場を開かずに逃げ続けていました。しかし、私の再三の要請に定年間際の2007年10月、回答が事務局から届きました。

「9月18日に開かれたコンプライアンス委員会で議論されましたので、報告します。

 各委員には、吉竹さんが事務局に送付された8月3日付けの『反論並びに要請書』全文を事務局の報告資料とともに事前に配付しました。委員会の議論は、長良川河口堰問題の記事化あるいは、記事不掲載にあたって、コンプライアンス違反に当たるような行為があったと判断出来るのかどうか、また、当事務局による案件処理に問題はなかったのかどうか、に多くの時間が割かれました。

記事化については、『記事にする際、ニュースかニュースでないかという価値判断があり、さらに、取材が十分かどうかという判断がある。その結果、記事にならないケースは多々あるが、そうしたケースは、コンプライアンス委員会になじまない』などの認識が示されました。こうした認識を基にして、通報案件に、編集権の範囲を越える、コンプライアンス違反行為があったと言えるのかどうか、について議論がありました。

  次に、この案件についての事務局の判断、処理の是非について議論がありました。これらの点については、事務局が、本案件についての会社見解(2005年5月に当時の社長室長が吉竹さんに会って伝えたもの)を、機械的に適用することなく、疑いを持ちうる要素があるのかどうかを調べた上で、『報道弾圧はなかった』とする会社見解を覆す事実や証言は得られなかった。

従って、コンプライアンス違反は存しないと判断される』とする結論を出しており、適正だった、などの指摘がありました。結論として、コンプライアンス委員会は、当事務局の判断、案件処理にコンプライアンス違反はなく、適正だったとすることで一致しました」

◇編集権を我田引水に歪曲

まさに「何じゃこれ」です。私から取材内容について、一切調査もせず、「取材が十分かどうか」、何を根拠に判断したのでしょうか。持って回った表現といい、さっぱり意味不明と言うほかありません。

実は私も広報室長時代、読者から抗議を受けた時に、こんな文章を何度も編集幹部に命じられて書かされていました。朝日紙面に載せた記事に対する抗議がまともで、朝日側に非があるなら、詫び状を書き、相手に届けなければなりません。私が原文を書き、編集幹部が手直しします。

しかし、幹部の頭には自己保身しかありません。下手に非を正面から認めると、裁判になると証拠にされ、自らの責任を問われます。だから、あれやこれやこね回し、尻尾を掴まれないよう手直ししていく。その結果、具体論がなく、日本語としてさえ成り立たない奇妙奇天烈、意味不明な文面が出来上がるのです。

もちろん、私は「何の調査もせず、『取材が十分かどうか』判断されたのですか。こんな文章を書くなら、まず、私から調査してください」などと再回答を求めました。それに対して朝日の最終回答は、次の通りです。

「吉竹幸則 様 『申立』について 2007年11月8日 朝日新聞社コンプライアンス委員会事務局  コンプライアンス委員会事務局が2007年10月22日に受け取った、『異議申立書』について回答します。『朝日新聞社公益通報制度に関する規定』には、再調査・審議の規定はありませんが、今回、特に対応を検討しました。

 あなたは、『改めて審査を求める』にあたって、『取材内容の検証をせずに、このような結論を導き出されたこと自体、記者とその取材に対する明白な冒涜、名誉毀損、人格権の侵害』であると指摘しています。しかし、編集権にかかわる取材内容を検証することは、コンプライアンス委員会の役割ではありません。この点については、9月18日に開かれたコンプライアンス委員会の結論を.お伝えした文書(10月3日付『コンプライアンス委員会のご報告』)の中で、明確に指摘し、また、口頭でも説明しました」

たった、これだけです。「『編集権』行使の在り方」は、言うまでもなくジャーナリズム倫理の根幹です。これを審議しないで委員会は、何を審議すると言うのでしょうか。

これでは食品会社が「食の安全にかかわる検証は、コンプライアンス委員会の役割ではありません」と言い切ったのに等しいのです。委員会は、いろいろごまかし回答をしてきましたが、ついに行き詰まり、「編集権にかかわる取材内容を検証することは、コンプライアンス委員会の役割ではありません」と居直ったと、言うほかありません。

◇朝日新聞労組にも相談したが・・・

「報道弾圧」出版以来、私の話を聞いてやろうと、講演会を催して戴けることが何度かありました。そんな時、「朝日の体質はよく分かったが、こんな時こそ朝日労組の出番のはずだ。『報道の自由を守れ』と普段活動しているはずの労組は何をしていたのか」との質問もよく受けました。

もちろん私も現役時代、朝日労組にこの問題の調査をお願いしたことがあります。しかし、申し出から1週間程経ち、私はこっそり労組事務所に呼び出されました。労組幹部は私に、「調査に会社側の協力が得られない。だから労組としてはこの問題に関与しない」と言うことでした。

会社側が自分に都合の悪いことを、自ら進んで調査に協力するようなところは類い稀です。だからこそ、労組が組織力を発揮してやらなければならないことは言うまでもありません。

しかし、朝日労組は他の民間労組の多くと同じ体質でありました。普段は威勢のいいことを言って、労組員を煽っても、結局は会社の手の平の上。本気で会社と対立し、ストでも構えようものなら、労組幹部は職場に戻った途端に、飛ばされてしまいます。

最後は会社の言いなりになり、穏便に終息すれば、労組幹部は将来が保障される組織です。実は、そんな人たちが会社幹部になり、派閥人事を繰り返した結果、建前と本音、言うこととやることが大幅に違う、朝日の官僚体質が出来上がってしまったと、私は思っています。

私はそれ以上、労組幹部を追及しようとも思いませんでした。彼らもサラリーマンです。私の問題で朝日が一切の調査を頑なに拒んだ裏には、余程明るみに出たら、都合が悪いことが隠されていたに違いありません。もし、労組がそれに手を突っ込もうとしたら、幹部は昇進どころか、私同様、記者の道さえ絶たれるかも知れません。彼らにそれを迫ることには、あまりにも酷だからです。

◇言葉に対する記者の責任

そんな中で今年も、「5・3」を迎えました。前にもこの欄で書いたように、自民党の憲法改正草案21条には、「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは認められない」が、付け加わっています。この草案通りに憲法改正がなされれば、ますます「表現・報道の自由」は危機を迎えます。

小尻記者を追悼する集会で、朝日幹部や労組は今年も「表現・報道の自由を守れ」と、格調高く語るに違いありません。もちろん私も、「表現・報道の自由」を守ることに強い気持ちがあります。小尻記者も心から追悼したいと思っています。

しかし、言葉を生業にするジャーナリストには、本来、一般人以上に言葉に対する責任が伴います。「表現・報道の自由」を守ることに対し、人様に応援をお願いする以上、自らの行動においても言行一致、一貫した強い決意・覚悟がなくてはなりません。

自己保身、ご都合主義で、ころころ主張・対応を変える朝日とその労組の幹部に、果たしてその資格、資質があるのか。権力側から「表現・報道の自由」が攻撃を本気で受けるようになれば、戦前のように尻尾を巻いて逃げ、応援してくれる人さえ、裏切ってしまうことにならないか。朝日関係者が集会で語る高邁な主張と、社内での対応の落差を見たり、聞くにつけ、私が何故、暗澹たる気持ちになるのか。その思いの一端をご理解戴けたのではないかと思います。

≪筆者紹介≫ 吉竹幸則(よしたけ・ゆきのり)

フリージャーナリスト。元朝日新聞記者。名古屋本社社会部で、警察、司法、調査報道などを担当。東京本社政治部で、首相番、自民党サブキャップ、遊軍、内政キャップを歴任。無駄な公共事業・長良川河口堰のウソを暴く報道を朝日から止められ、記者の職を剥奪され、名古屋本社広報室長を経て、ブラ勤に至る。記者の「報道実現権」を主張、朝日相手の不当差別訴訟は、戦前同様の報道規制に道を開く裁判所のデッチ上げ判決で敗訴に至る。その経過を描き、国民の「知る権利」の危機を訴える「報道弾圧」(東京図書出版)著者。

2013年04月29日 (月曜日)

高橋哲哉著『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書)は、日本における経済成長や安全保障が、一部の国民を犠牲にすることで成り立っている構図を描いている。具体例として高橋氏が取り上げているのは、福島第1原発と沖縄の米軍基地問題である。

前者について言えば、東京電力が首都圏から遠く離れた過疎地に原発を設置した結果、都市部の人々がその恩恵を受け、地元の人々が放射能による汚染に苦しめられることになった実態を告発している。後者については、沖縄に米軍基地を押し付けることで、安全保障体制を維持している実態を批判している。 沖縄が日本の半植民地という観点である。

米軍基地の維持が本当に安全保障につながるか否かは議論の余地があるが、沖縄を、あるいは沖縄の人々を犠牲にした構図があることは疑いない。

高橋氏は現代社会に普遍的な視点を供給している。たとえば携帯電話の通信網もある種の犠牲の上に成り立っているシステムである。ユビキタス社会を構築するという国策を前提として、電話会社がわがもの顔に基地局を設置していることは周知の事実である。

ところが、基地局からはマイクロ波という放射線の一種が放出され、人体に有害な影響を及ぼす。健康被害に関する医学的な因果関係はまだ解明されていないが、疫学調査では両者になんらかの接点があることがほぼ裏付けられている。

しかも、ドイツやイスラエルの疫学調査では、マイクロ波と発癌の関係も指摘されている。

街中に基地局が設置された場合、基地局周辺の住民がマイクロ波による被害を受ける。事実、基地局設置をめぐって全国各地で紛争が続発してきた。訴訟も起きている。

しかし、基地局の設置は国策であるから、国が定めた電波防護指針を守っている限りは、法的に基地局を撤去することができない。裁判を起こしても勝てない。基地局の設置で、通信の質は高まるが、基地局周辺の人々がマイクロ波の犠牲になっているのである。

高橋哲哉氏は、『靖国問題』(ちくま新書)の中で、靖国神社が戦争の犠牲者を英雄に変えてしまうシステムであることを指摘した。改めて言うまでもなく国家が犯した最大の犯罪は、太平洋戦争で300万人を犠牲にしたことである。国民を洗脳したあげく、屍の山を築きながら、大陸へ市場を広げようとしたのである。

と、すれば敗戦を機に、前時代の扉は永遠に閉じてしまわなければならなかったはずだ。が、新聞による世論誘導システムはそのまま放置された。戦犯や戦犯候補も次々と蘇った。この中には、正力松太郎のような新聞人もいる。

過去から受け継がれた負の遺産が、再び日本を危険な方向へ誘導しようとしている。自民党が多国籍企業のために海外派兵体制を整え、自衛隊を国防軍に変え、再び国民に生命の犠牲を強要しようとしている。そんなとき、『犠牲のシステム 福島・沖縄』は国家の本質を知る手引きとなる。

2013年04月25日 (木曜日)

政府による広報活動の予算はどの程度の規模なのだろうか。『日経広告研究報(2010年8,9月号)』にこれに関するレポートが掲載されている。記事の執筆者は日経広告研究所研究部長の篠田真宏氏である。

政府の広報活動は、「各省庁が独自に実施するものと、内閣府政府広報室が窓口となり各省庁の希望を募って政府全体の立場から国民に周知徹底すべきものを選びマスメディアなどに流すもの、の2つに分かれる」という。

同氏の調査では、09年度予算ベースで各省庁の広報予算は総額で350億円程度である。また、内閣府による広報予算は、90億円。つまり政府関係の広報予算は、年間で総額450億円にもなる。

公共広告の中には、地方自治体が出稿するものもかなり含まれているので、マスコミ企業が「役所」から受けている広告費は際限もなく多い。

ただし、内閣府による広報予算に関して言えば、2009年の秋、政権に就いた民主党が事業仕訳を実施して、予算規模を50億円前後に減額した。

媒体別の割り当て比率は、2009年度の場合、次のようになっている。

新聞     :40.4%

テレビ    :30.1%

?ラジオ    : 2.7%

雑誌     : 4.6%

インターネット: 8.2%

その他    :14%

新聞が最も優遇されていることが分かる。新聞の販売網を通じて、政府の方針が日本の通津浦々まで浸透するシステムがあるのだ。

◇新聞記事=広告の可能性

新聞に掲載される広告の中には、地方紙と「役所」が共催するシンポジウムの広告が含まれている。このシンポジウム関連の広告が、新聞記事とセットに なっているケースが頻繁に見られる。この問題は、数年前に発覚した裁判員制度をめぐるタウンミーティングのケースだけではないようだ。

具体的な例を紹介してみよう。

【実例1】  2002年8月18日付けの四国新聞に「『四国の道づくりを考える』公開シンポジウム」の広告(5段)が掲載された。主催者は四国地方幹線道路協議会であるが、問い合わせ先が国土交通省の四国地方整備局になっており、実質的な主催者が国土交通省であることが判明する。

一方、後援は7団体。そのうち四国新聞、愛媛新聞、高知新聞、徳島新聞の4団体は新聞社である。

シンポジウムが開催された翌日にあたる8月19日の四国新聞には写真入りの記事が掲載された。タイトルは、「地域特性生かす整備を 高知で『四国の道づくり』シンポ 官民有識者ら意見交わす」の記事が掲載された。(愛媛新聞、高知新聞、徳島新聞については、未確認だが、掲載されている可能性がある)

【実例2】   2005年6月9日付けの山陽新聞に「防災・減災フォーラム 2005 IN 岡山」の記事が掲載された。主催者は山陽新聞と全国地方新聞連合会である。

後援には複数の団体が名を連ねているが、その中のひとつに国土交通省がある。このケースでは新聞社がシンポジウムを主催して、後援者にシンポジウムへの参加を呼び掛ける新聞広告費を出費させている。

翌6月20日の山陽新聞の朝刊には、「岡山で防災・減災フォーラム」の写真入り5段記事が掲載された。  防災・減災フォーラムは全国各地で開催されてきた。

2013年04月24日 (水曜日)

国会答弁で安部首相(当時、官房長官)が「押し紙」(偽装部数)問題に言及した時の議事録が公正取引委員会のサイトに掲載されていることが分かった。2006年3月24日、第164回国会の参議院予算委員会における末松信介議員(自由民主党)の質問に対する答弁である。

次のリンク先(末尾に近い位置にある「□国務大臣(安倍晋三君)」の箇所)である。

(「押し紙」に言及した国会議事録=ここをクリック)

ただいま委員が御指摘になった前段の部分なんですが、例えば、いわゆる販売店は、実態としては、一か月間無料で配るので取りあえず見てもらいたいとか、三年、四年購読するということをしていただければ一か月、二か月無料にするということを実態としてやっているのも間違いのない事実でありまして、私の秘書のところにもある新聞社が一か月間、二か月間ただで取ってもらいたいと、こういうことを言ってきたわけでありまして、私の秘書が取るわけのない新聞社が言ってきたわけでありまして、当然断ったそうであるわけでありますが。

 また、いわゆる押し紙も禁止されているのに、いわゆる押し紙的な行為が横行しているのではないかと言う人もいるわけでありまして、実態としてはそういうところもしっかりとちゃんとこれ見ていく必要もあるんだろうと、こう思うわけでありまして、

この議事録を読めば、安部首相はいうまでもなく、自民党議員が新聞社の弱点がどこにあるかを把握していることが推測できる。政府は警察庁や公取委と連携して、新聞社が公称部数を偽って広告料金を騙して取っている問題を刑事事件にすることもできる。

しかし、実際は放置している。なぜ、放置するのだろうか?新聞社が「メディアへの権力の介入は許さない!」と騒ぐからではない。

メディアの決定的な弱点を握った上で、政府広告をどんどん出稿してやれば、新聞ジャーナリズムを骨抜きにできるからだ。骨抜きにした上で、巨大部数を利用した世論誘導に利用できるからだ。

日本の新聞ジャーナリズムが機能不全に陥っている最大の原因は、記者の職能が劣っているからではない。偽装部数という構造的な問題があるのだ。この点をタブー視して新聞を批判してもまったく問題の解決にはならない。

 

2013年04月22日 (月曜日)

東京大学の醍醐聡名誉教授が『ジャーナリスト』(日本ジャーナリスト会議発行)の4月号に、「反TPPで870余名の大学教員が結集」と題する報告を掲載している。重要な内容なので、紹介しよう。

3月15日に安部首相がTPP交渉参加を表明したのに対抗して大学教員17名が、「TPP参加交渉から即時脱退を求める大学教員の会」を発足させ、署名活動を開始した。最初は100名の賛同者を集めることを目標としていたが、またまたく間に870筆が集まった。このうちの約400筆には、メッセージが添えられていた。

4月10日、記者会見を開き、印刷した署名とメッセージを報道各社に配布した。次に引用するのが、メッセージの一部である。

TPPは米国流新自由主義の終着点の一つで、日本社会の全体を市場原理に明け渡すものです。内容がブラックボックスのまま後戻りできない交渉に絶対に参加してはいけません。

わずか世界の1%の人々が握る企業が、残りの99%の人々のみならず国家をも支配できるシステムです。抜けることもできない、しかも、審議内容は参加国の国会議員ですら知ることができない仕組みなのに、なぜ賛成?

TPP参加は瀕死の日本農業の息をとめるものであり、自国民の食料を確保するという国として当然の責務を放棄するものです。

記者会見に参加したのは、全国紙と通信社8社、それにテレビ局1社。業界紙を含むとと39社だった。

ところが記者会見の内容を報道したのは、日本農業新聞と「しんぶん赤旗」の2紙だけだったという。

わたしはこの記事を読んだとき、1980年代に共産、公明、社会の3党が5年間に15回にわたって販売部数の偽装など新聞販売問題を追及したにもかかわらず、マスコミが1行も報じなかった事実を思い出した。記者席は常に満席だったらしい。しかし、それは会社員として情報を収集していただけで、報道はしなかったのだ。

日本のメディアは昔から何も変わっていない。その原因を記者の職能に矮小化する傾向があるが、わたしは、本当の原因はもっと根本的な部分にあるのだと思う。新聞社が日本の権力構造の歯車のひとつになっていることが、その原因にほかならない。

新聞社は「正義の看板」を掲げているために、大半の国民は彼らによる世論誘導には気づかない。朝日は「左」で、読売は「右」だと思っている。その結果、簡単に騙されてしまう。

ちなみにこれまで新聞がスクラムを組んで世論誘導を断行した例としては、次のようなものがある。消費税導入、小選挙区制の導入、政権交代?、小泉劇場、政権交代?・・・。そしてアベノミックス。簡単に騙される側も無知だ。

2013年04月19日 (金曜日)

政府広告(内閣府)はどのような形式で出稿されているのだろうか。昨年末に内閣府から入手した内部資料を解析したところ、幾つかのことが分かってきた。

ここでは、政府広告を中央紙から地方紙まで全国の新聞に4日連続で掲載した例を紹介しよう。  まず、最初に示すのは、2010年12月における読売新聞(渡邉恒雄主筆)の例である。広告名と内閣府が支出した金額を示した。

14日  雇用関連施策・事業    7段  1565万円

15日  雇用関連施策・事業    7段  1565万円

16日   雇用関連施策・事業    7段  1565万円

17日  雇用関連施策・事業    7段  1565万円

4日間の収入が約6261万円(代理店の取り分を含む)である。  朝日新聞にもまったく同じ広告が同じ日の朝刊に掲載されている。

14日  雇用関連施策・事業    7段   1440万円

15日  雇用関連施策・事業    7段   1440万円

16日  雇用関連施策・事業    7段   1440万円

17日  雇用関連施策・事業    7段   1440万円

さらに毎日新聞、日経新聞、産経新聞の中央紙、北海道新聞、東京中日、西日本のブロック紙、その他の地方紙にも同じ政府広告が掲載されている。新聞社間で唯一異なる条件があるとすれば、掲載価格である。公共広告の場合は、ABC部数に準じた価格設定がなされるので、必然的に読売が最も高額になり、続いて朝日、毎日の順番になる。

2013年04月18日 (木曜日)

自民党は、「押し紙」問題を把握している可能性が高い。その根拠になるのが自民党新聞販売懇話会の存在である。この団体は新聞業界の陳情窓口になってきた経緯があり、日販協(日本新聞販売協会)と極めて親密な関係にある。

一部の議員は日販協の政治連盟から献金を受けている。たとえば高市早苗政調会長は2011年度と2010年度に総額で120万円の政治献金を受けた。

日販協は1990年代の初頭までは、熱心に「残紙」問題に取り組んできた。会員が全国の新聞販売店主である関係上、この問題を避けて通れない事情があった。

実際、1977年には全国規模で「残紙」調査を実施した。その後も、新聞社に対して新聞販売業務の正常化をはかるように繰り返し申し入れている。こうした動きを自民党議員は日販協を通じて把握しているはずだ。

ちなみに1993年の時点で、自民党新聞懇話会のメンバーは約50名だった。この中には、小泉純一郎、小渕恵三、羽田孜、森善郎の首相経験者も含まれている。このうち小渕元首相は、首相に就任した時点で自民党新聞懇話会の会長を務めていた。

一方、自民党以外の議員は、偽装部数問題を把握しているのだろうか。わたしは若手の議員はともかくとして、ベテラン議員はある程度まで実態を知っていると推測している。

と、言うのも1981年から85年の5年間で、計16回にわたって共産党、公明党、社会党が新聞販売問題に関する国会質問を行っているからだ。当然、その中で偽装部数問題も取り上げられた。

こんなふうに考えると日本の政党は、偽装部数問題を知っている可能性が高い。しかし、誰もこの問題にタッチしようとはしない。その理由は簡単で、 下手にこの問題で騒ぐと、紙面でバッシングされる危険性があるからだ。さらに偽装部数という汚点を逆手に取れば、新聞を自らの陣営に引き込むことができるかだ。

一方、新聞社の側は政界とより親密な関係を構築することで生き延びる以外に選択肢がない。そこまで日本の新聞社は衰弱している。

 

2013年04月05日 (金曜日)

小泉構造改革の一環である司法制度改革の中で浮上したのは、裁判の迅速化により冤罪を生みかねない裁判員制度の導入だけではない。高額訴訟も意図的に導入された。

名誉毀損裁判の賠償請求額や賠償額が高額化していることは周知の事実である。たとえば最近では、ユニクロが文春に請求した2億2000万円の訴訟、レコード会社31社が作曲家・穂口雄介氏に請求した2億3000万円の訴訟などが起きている。その他、武富士、オリコン、読売といった企業が個人に対して5000万円、1億円といった規模の高額訴訟を起こしてきた。

わたしの場合は、読売(渡邊恒雄主筆)から総額で約8000万円を請求された。

このような実態になった原因は、新自由主義=構造改革から生まれてきた司法制度改革だった。

2001年6月に発表された司法制度改革審議会意見書にも、賠償額の高額化の必要性を述べた記述がある。

損害賠償の額の認定については、全体的に見れば低額に過ぎるとの批判があることから、必要な制度上の検討を行うとともに、過去のいわゆる相場にとらわれることなく、引き続き事案に即した認定の在り方が望まれる(なお、この点に関連し、新民事訴訟法において、損害額を立証することが極めて困難であるときには、裁判所の裁量により相当な損害額を認定することができるとして、当事者の立証負担の軽減を図ったところである。)。

 ところで、米国など一部の国においては、特に悪性の強い行為をした加害者に対しては、将来における同様の行為を抑止する趣旨で、被害者の損害の補てんを超える賠償金の支払を命ずることができるとする懲罰的損害賠償制度を認めている。しかしながら、懲罰的損害賠償制度については、民事責任と刑事責任を峻別する我が国の法体系と適合しない等の指摘もあることから、将来の課題として引き続き検討すべきである。

このような流れの中で、公明党の漆原良夫議員が国会で次のような発言をするに至った。

私はは過日の衆議院予算委員会で、メディアによる人権侵害・名誉毀損に対し、アメリカ並みの高額な損害賠償額を認めるよう森山法務大臣へ求めました。  善良な市民が事実無根の報道で著しい人権侵害を受けているにもかかわらず、商業的な一部マスメディアは謝罪すらしていません。  これには、民事裁判の損害賠償額が低い上、刑事裁判でも名誉毀損で実刑を受けた例は極めて少なく、抑止力として機能していない現状が一因としてあります。  私は、懲罰的損害賠償制度を導入しなくとも現行法制度のままで、アメリカ並みの高額な損害賠償は可能であると指摘しました。これに対し、法務大臣は、「現行制度でも高額化可能」との認識を示しました。(全文=ここをクリック)

ちなみに司法制度改革推進本部の人事は次の通りである。本部長は小泉純一郎氏だった。以下、役員は次の通りである。

(司法制度改革推進本部・本部員=ここをクリック)

◇訴訟ビジネスの横行  

司法制度改革の結果、現在は訴訟ビジネスが横行している。これは米国流の考え方で、金さえ払えば、どんな訴訟でも引き受ける弁護士の出現を特徴とする。黒を白と主張することも平気。これは裏をかえせば、金がない貧乏人の弁護は引き受けないことを意味する。

弁護士が「客引き」の目的で、人権派のポーズをとることもある。また、企業に対して高額訴訟の提起をもちかけることもある。

日弁連がなぜ、司法制度改革に反対しなかったのかは不明だ。

2013年04月02日 (火曜日)

司法の劣化の象徴が裁判員制度の導入である。この制度は、冤罪を生みかねない恐ろしい制度である。

2007年に内閣府が発表した「裁判員制度に関する特別世論調査」によると、「あまり参加したくないが,義務であるなら参加せざるをえない」と回答した人が44・5%、「義務であっても参加したくない」が33・6%だった。つまり裁判員制度を歓迎しない人が約8割にも達してるのである。と、なれば導入を目指している政府や最高裁は、裁判員制度をPRしなければならない。こうした状況の中で新聞が世論誘導の装置と化したのである。

新聞報道とは裏腹に裁判員制度を危険な制度と認識している法曹人も多い。 理由は複数あるが、共通しているのは、たとえば公判前整理手続きのカラクリである。公判前整理手続というのは、審理に入る前段階で裁判官、検察官、弁護人が非公開で争点を整理するプロセスをいう。

通常の裁判では、審理を進める中で、ひとつひつの証拠を吟味して争点を絞り込んでいくが、裁判員裁判では、審理を開始する前に密室で争点を決てしまうのだ。当然、裁判員はどのような経緯で争点が決められたのかを知りようがない。しかも、公判審理に入ると、決定された争点に沿った検証作業になる。

このようなルールを設けたのは、裁判を迅速に進めることが目的である。しかし、人を裁くプロセスでは、慎重にも慎重を重ねて事実を検証しなければならない。主観や直観に頼って、迅速に犯罪の白黒を付けることで検証作業が形骸化してしまうと、冤罪の原因になる。

日本には死刑制度があるので、冤罪の発生を防ぐ措置は特に重要だが、裁判員裁判にそれを期待することはできない。

また、裁判員の名前が公表されず、記録にも残らないことも重要な反対理由のひとつである。裁判員が死刑判決を下し、後日、それが冤罪と判明しても、だれも裁判員の責任を問うことができない。

さらに裁判員になることが強制され、断ると10万円以下の罰金が科せられるようになっている。いわば裁判員に選ばれると、人を裁く行為を強制されるのである。しかも素人の主観で人を裁くのだ。

裁判員制度は、住民を強制的に裁判に参加させ、密室での争点整理に基づいて、猛スピードで容疑者を裁いていく制度であるというのが裁判員制度導入に反対する人々の共通した認識である。

◇新自由主義=構造改革

なぜ、このような制度の導入が図られたのだろうか?  結論を先に言えば、裁判員制度は新自由主義=規制緩和の導入に伴う社会の荒廃がもたらす犯罪の多発、それに伴い予想される住民運動の台頭に対処するための制度である。民主的な運営とは程遠い司法による社会秩序維持をもくろんだものである。

バブル経済が崩壊した後、日本は深刻な不況に突入した。これを打破するために財界が切望したのが、米国のレーガン、英国のサッチャー、それにチリのピノチエットなどが採用した新自由主義のモデルであった。福祉を切り捨てたり、公的機関を民営化することなどで、財政支出を抑えて大企業の税負担を抑制する一方で、様々な規制を緩和して市場にし烈な競争を持ち込む政策である。当然、大企業が生き残り、中小企業は淘汰される。

1996年の橋本内閣の時代に新自由主義の政策が導入されたが、皮肉なことにそれは自民党の支持基盤である中小企業の経営者の反発をかい、1998年の選挙で自民党は大敗する。

そのために橋本内閣の次に登場した小渕内閣、森内閣は新自由主義の導入に足踏みした。これが財界の焦りを誘った。そこへ彗星の如く登場して、ドラスチックに新自由主義を推し進めたのが、小泉内閣だった。

その結果、日本社会における格差が顕著になった。モラルが低下して、いじめや凶悪犯罪などが深刻な社会問題として浮上してきた。

こうした問題を解決する手段として、小泉の後継者・安部首相が打ち出したのが「美しい国プロジェクト」である。愛国心を育てることで社会秩序を維持しようという目論みである。が、それですべてが解決するわけではない。刑事事件に対しては、迅速かつ事務的に処分できる体制が求められる。そこから登場してきたのが裁判員制度である。

事実、構造改革の一環である司法制度改革の中で裁判員制度も浮上してきたのである。そして2001年、当時の小泉首相がみずから司法制度改革推進本部の長に主任し、内閣主導で司法改革を進めてきたのである。

2013年04月01日 (月曜日)

3月30日は東京地裁が著作権裁判(原告:読売・江崎法務室長VS被告:黒薮)で、わたしに対して勝訴判決を下した日である。判決が2009年であるから、勝訴4周年である。

この裁判は読売の江崎法務室長が、わたしに対してEメールで催告書を送付したことに端を発している。催告書は、わたしが新聞販売黒書に掲載した次の文章の削除を求めたものである。

前略? 読売新聞西部本社法務室長の江崎徹志です。? 2007年(平成19年)12月17日付け内容証明郵便の件で、訪店について回答いたします。? 当社販売局として、通常の訪店です。

この文章は読売と係争状態になっていたYC広川(読売新聞販売店)に対する訪問再開を、読売の販売局員がYC広川に伝えたのを受けて、店主の代理人弁護士が読売に真意を確認したところ、送付された回答書である。(わたしはこの回答書を新聞販売黒書に掲載した。)

江崎氏が回答書の削除を求める根拠として、催告書の中で主張したのは、回答書が著作物であるからというものだった。しかし、著作物とは、著作権法によると、次の定義に当てはまるものをいうので、江崎氏の主張は的外れだ。

思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。????  

つまり回答書が著作物であるという催告書の記述は、完全に間違っている。それにもかかわらず削除に応じなければ、刑事告訴も辞さない旨が記されていたのだ。当然、わたしは怪文書と判断した。正直、読売の法務室長の強引さに気味が悪くなった

◇催告書の名義を偽って提訴

そこでわたしは回答書に続いて、催告書を新聞販売黒書(現・メディア黒書)に掲載した。放送局などに怪文書が送付された場合、ニュースで視聴者に公表することがよくあるが、わたしも同じ方法で催告書を公開したのである。

これに対して江崎氏は、催告書の削除を求めて裁判所に仮処分を申し立てた。 不思議なことに裁判所は、江崎氏の訴えを認めた。そこでわたしは本訴を選択した。(敗訴した側が本訴を要求した場合、これに応じなければ、仮処分は取り消される)

こうして江崎氏を原告に、わたしを被告とした著作権裁判が始まったのだ。

江崎氏が催告書の削除を求めた根拠は、催告書が自分が書いた著作物である という主張である。これは著作者人格権に基づいたものである。

【著作者人格権(ウィキペディア】 著作者人格権は著作権が他者に移転された後も著作者が保有する権利とされており(ベルヌ条約6条の2第1項)、一身専属性を有する権利として把握される。つまり、権利の主体は著作権者ではなく、あくまでも著作者である。また、保護の対象が財産的利益ではなく人格的利益である点で、著作権と区別される。

つまり催告書は、自分が書いたものであるから、わたしにはそれを公表する権利がない、従ってサイトからそれを削除すべきだという論理である。

ところが裁判が進むにつれて、催告書の作者は別にいたのではないかという重大な疑惑が浮上した。そして判決で東京地裁が、催告書を作成したのは、江崎氏ではなくて、喜田村洋一・自由人権協会代表理事か彼の事務所スタッフの可能性が極めて高いと認定したのである。

知財高裁も、次のように原審を認定した。

上記認定事実によれば、本件催告書には、読売新聞西部本社の法務室長の肩書きを付して原告の名前が表示されているものの、その実質的な作成者(本件催告書が著作物と認められる場合は、著作者)は原告とは認められず、原告代理人(又は同代理人事務所の者)の可能性が極めて高いものと認められる。

(参考:認定箇所=ここをクリック)

つまり江崎氏は著作者人格権を有していないことが認定されたのだ。当然、裁判は、催告書の著作物性を検証するまでもなく、門前払いのかたちで、江崎の敗訴となった。(しかし、東京地裁は、催告書に著作物性があるか否についても検証した。その結果、著作物性はないとの判断を下した)

江崎氏は催告書の作者ではないわけだから、元々、著作者人格権を根拠とした裁判を起こす資格がなかったわけだ。資格がないにもかかわらず、催告書の作成者は自分であるとの前提で提訴に及んだのである。

ひらたく言えば、催告書の名義を自分に偽って、わたしを提訴したということになる

◇『弁護士業務基本規程』の第75条

しかし、事件はこれだけでは終わらなかった。自由人権協会の喜田村弁護士の責任が問われることになったのである。  ?? 『弁護士業務基本規程』の第75条に次のような条項がある。

弁護士は、偽証若しくは虚偽の陳述をそそのかし、又は虚偽と知りながらその証拠を提出してはならない。

喜田村弁護士は、催告書の作成者が江崎氏ではないことを知っていながら、江崎氏が作成者であるという虚偽を前提に、訴状や準備書面を提出したのであるから、『弁護士業務基本規程』の第75条に違反している。そこでわたしは、喜田村弁護士が所属する第2東京弁護士会に対して、喜田村弁護士の懲戒請求を申し立てた。次に示すのが、わたしの主張である。

 (弁護士懲戒請求・準備書面=ここをクリック)

通常、弁護士会は半年ぐらいで、処分を決めるが、この件は申立からすでに2年が過ぎているが、未だに結論が出ていない。かりに虚偽を前提に他人を法廷に立たす行為が罰せられないとすれば、司法の秩序は崩壊する。最も厳しい処分を下すべきだというのがわたしの主張である。

2013年03月29日 (金曜日)

2009年5月に始まった裁判員制度は、どのような位置づけで解釈すべきなのだろうか。

司法関連の社会問題としては、スラップや高額訴訟がある。また、読売の渡邊恒雄氏のように、「法廷なら我が方の最も得意とするところだ。俺は法廷闘争で負けたことがない」と公言して、反対言論に対して徹底して裁判で戦う新聞社主筆の出現にも注視する必要がある。

最高裁の元判事が大手弁護士事務所へ再就職(広義の天下り)する例も後を絶たない。裁判員制度のPRをめぐる電通との契約で、「不適正行為」を行った最高裁の経理部長が、最高裁判事に「出世」している例もある。

弁護士会サイドの問題点としては、有名弁護士に対する懲戒請求に対しては、2年も3年も処分決定を遅らせ続けているケースがある。第2東京弁護士会である。

これらの事柄は社会問題として認識しやすい。しかし、日本の司法界には、もっと重大な社会問題がある。日弁連も導入に奔走してきた裁判員制度である。 マスコミは一致団結して裁判員制度をPRしてきたが、この制度を詳しく検証してみると、危険極まりない前近代的な制度であることが分かる。

小田中聡樹著『裁判員制度を批判する』(花伝社)は、この制度の問題点を鋭く指摘している。

【問題点1】公判審理の方向はほとんど公判前に決まると言っても過言ではないほどだ。ところが、この公判前整理手続きは裁判官、検察官、弁護人の間で行われる秘密、非公開の手続きで、裁判員はもちろん一般国民の目にも触れない。整理結果だけが公判廷に出され、その枠組みに従って公判審理が行われる。枠組みからはみ出す弁護活動や被告の主張は規制されてしまう。

公判前整理手続の危険性を理解するためには、週刊誌記事ができるプロセスとその弊害を考察すると分かりやすい。週刊誌の記事は、最初にタイトルと筋書を決めて、それにそって取材を進めることが多い。つまり最初に結論を決めて、それに向かって「証拠」を肉付けする。(もちろん、週刊誌の全記事がそうだとはいわないが、そのような傾向があることは否定できない)

その結果、客観的な事実との間にギャップが生じる。おもしろおかしいストーリーになることもある。

記事の構成やタイトルは取材する中で固めていくのが原則であるはずだが、実際には最初にタイトルと構想を決める。こうして制作の時間を節約するのだ。

公判前整理手続は不十分な証拠をもとに、一般常識で争点を決める。しかも、このプロセスは密室で行われるのだ。

このような制度を導入した背景に、裁判の迅速化を図ろうという狙いがあるらしい。確かに最初に筋書を決めてしまえば、審理は早く進む。が、不十分な証拠をもとに組み立てた筋書が間違っていれば、冤罪が発生することになる。

また、裁判を5日程度で行うわけだから、弁護士の負担は大変なものになる。

結果として刑事裁判が形骸化して、安易な判決が下されるようになる可能性が高い。

【問題点2】裁判員の氏名は開示されず秘密とされ、検察官・弁護士が「正当な理由がなく」洩らすと1年以下の懲役や罰金に処せられるとされていますが、これも不思議なしくみです。(略)判決書の中に裁判員の名前を書かずに、3人ないしは1人の裁判官の名前を書く。ですから例えば死刑の判決を言い渡すときにも、その判断に裁判官のほかに裁判員としてだれが関与したかは一切公にされません。いわば匿名裁判、「覆面」裁判です。

法律の素人が、一般市民の感覚(厳密に言えば個々の主観)で死刑の判決を下しても、裁判員の名前が公表されない仕組みになっているのだ。社会や人間に対する関心が希薄な裁判員、あるいは偏屈者の裁判員に死刑判決を下されたら、容疑者はたまったものではない。しかも、誰が死刑判決を下したのかわからない。

【問題点3】裁判員はご承知のように有権者の中からくじで決められます。くじで選ばれますと関与は義務的なものとなり、70歳以上とか介護・養育の必要がある場合など、一定の理由がある場合を除いて辞退できず、呼び出されて裁判所に出頭しないと、10万円以下の過料を科せられます。ですから国民にとって裁判員になることは強制的な義務なのであります。

司法制度に関心を持つことは大切だが、それを強制すれば憲法にも違反する。 国民を強制的に参加させる理由は、統治主体意識(権力意識)を持たせることである。「私は統治する人、私は裁判する人、そういう権力的な意識を国民に持たせ、国民を権力層に巻き込んていくのが狙い」である。

【問題点4】弁護の統制・管理の制度が飛躍的に強化・拡大されています。開示証拠の目的外使用の処罰がその例です。今迄のように、開示された証拠を救援関係者や学者やマスコミ・ジャーナリストなどに渡して検討を依頼するというわけにはいかなくなっています。うっかりすると救援関係者や学者もその共犯として処罰されかねません。

新聞記者は裁判資料を利用してルポルタージュを書くことができなくなる。 ジャーナリズム活動の領域を極端に狭める。それにもかかわらず新聞社は一貫して裁判員制度のPRに協力してきた。裁判員制度の公共広告で得る収益に目が眩んだ結果だった。

具体的に朝日、読売、毎日、日経がどのような社説を掲載してきたのか、以下検証してみよう。その驚くべき内容にあきれるばかりだ。

◇中央紙の社説?

たとえば2004年5月21日に成立した裁判員制度を設置する法律についての社説を朝日、読売、毎日、日経について調べたところ、設置に反対する社説はひとつもなかった。

朝日は、「社会を変える可能性を秘めた制度である。うまく出発できるかどうかは、これからの準備にかかっている」と書き、毎日は、「実施まで5年、法の不備や不具合をおくせず改善しながら、果敢に改革を断行したい」と書き、日経は、「裁判員制度は、『お上の権威』をバックとする裁判から『国民の参加』を支えとする裁判への転換をもたらすものだ」と書いている。

読売は、裁判員に課せられる秘密義務などの問題を指摘したうえで、「最高裁は『5年以内』の施行を前にまず、解決すべき問題を精査しなければならない。政府は、その過程で必要があれば制度の根幹を見直す、思い切った改正も考えるべきだ」とか、「裁判員の裁判での負担を軽減するには極めて迅速な集中審理が行われなければならない。そのための刑事訴訟法の改正も不十分なままだ」などと述べて、よりドラスチックに裁判員制度を導入するように主張しているのだ。

◇中央紙の社説?

さらに実際に裁判員制度が施行された2009年5月にも、裁判員制度を支持する社説を掲載している。朝日は、「裁判への参加を、自由で民主的な社会を支える自然な行為と考える世代を作り出すためにも、裁判員制度を失敗させるわけにはいかない」と書き、毎日は、「肝心なのは、お上意識の呪縛から脱却することだ。役所に任せきりにせず、正邪や是非善悪などを自ら判断する習慣を身につけて、?丸投げ民主主義?とやゆされる社会のありようを一新しなければなるまい」と書いている。

日経は「制度の効用は、大きく分けて、二つの方向で期待できる」と前置きしたうえで、「一つは刑事司法を良くする効果」で、もうひとつは「『司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する』(裁判員法1条)効果であり、また国民が司法権の一端を担い社会秩序と人権を守る刑事司法の任務を分担すれば主権者としての自覚が高まる」と述べている。

読売の社説は、「国民の参加意識も低いままである。『参加したくない』という人は79%に達している。『自信がない』『人を裁くことに抵抗を感じる』といった理由が多い」と述べるなど、裁判員制度の問題点も指摘しているが、「改善点が浮かび上がれば、制度を柔軟に見直していくことが肝要だ」として、他社に比べるとトーンダウンしながらも制度の導入そのものはやはり是認している。

 

2013年03月27日 (水曜日)

携帯電磁波による健康被害を理由に、宮崎県延岡市の住民30名がKDDI基地局の操業停止を求めた宮崎大貫訴訟の控訴審が13日、福岡高裁宮崎支部で始まった。原審は基地局周辺の住民の間に、耳鳴り、肩こり、鼻血等の共通した健康被害が発生している事実については認めたが、その原因は「ノセボ効果」にあるとして、住民の訴えを棄却した。

控訴審では「ノセボ効果」の有無が最大の争点になりそうだ。

【ノセボ効果(ウィキペディア)】 ?

薬の臨床試験における偽薬の役割は、非常に重要である。薬を飲んで治療効果があったとしても、それが偽薬効果によるものなのか、本当の薬理作用によるものなのかを区別する必要がある。治療効果を調べる際には、被験者の同意の下、出来るだけ偽薬を用いた比較実験を行うことが、学問上の研究の信頼性を得るためには必要とされている。 ? 特に偽薬によって、望まない副作用(有害作用)が現われることを、ノセボ効果(ノーシーボ効果、反偽薬効果、nocebo effect)という[3]。副作用があると信じ込む事によって、その副作用がより強く出現するのではないかと言われている。 ? また一方、薬剤投与を継続していても被験者が「投与なし」と思いこむことによって薬剤の効果がなくなるケースがあり、これをノセボ効果と呼ぶこともある。

わたしは延岡市の基地局問題を取材してきたが、健康被害の原因をノセボ効果とする裁判所の見解には納得できない。と、言うのも住民の中には、耳鳴りを経験したのち、その原因を確かめる中で、基地局から電波が発信されていたことを知ったひとも複数いるからだ。

それにノセボ効果により、複数の人に鼻血のようなドラスチックな症状が出たという話は聞いたことがない。

携帯電磁波がもたらす人体影響については、医学的な因果関係は完全には解明されていない。が、それが人体影響がないことを意味するわけではない。現代医学の力量で謎を解明できないに過ぎない。

このようなケースでは、安全性が完全に確認されるまでは、最悪の事態を想定して対処するのが常識だ。と、いうのも放置すれば、不特定多数の人々に深刻な被害が及ぶリスクがあるからだ。まして延岡市のケースでは、実質的にさまざまな健康被害が発生している。

◇日本の安全基準

ちなみに次に示すのは、900メガヘルツの携帯電磁波を対象した規制値の国際比較である。日本が採用している数値がいかに異常でデタラメかを示している。

ザルッブルグ(オーストリア):0.0001マイクロワット/?(目標値)

?EU            :0.1?W/?(提言値)

?パリ            : 1.0?W/?

?ロシア         ?? : 2.4?W/?

  中国?????????????????????? :6.6?W/?

日本           :600?W/??

(2000メガヘルツの場合の日本の基準値は、1000?W/?

なぜ、日本の基準は欧米とかけ離れているのだろうか。答えは簡単で、携帯電磁波が人体に及ぼす非熱作用を考慮していないからだ。

携帯電磁波には大別して2つの作用がある。?熱作用と?非熱作用である。

 ?の典型例としては、電子レンジにより食品を加熱できる事実がある。

?の典型例としては、放射線(携帯電磁波も放射線)によるDNAの破壊がある。同じ電磁波の仲間であるX線やガンマ線にDNAを破壊する作用があることは周知の事実になっているが、携帯電磁波にも同じ作用がある可能性が高いという見解が広がってきた。欧米諸国は、この点を考慮して、基準値を厳しくしているのだ。

事実、ドイツ、イスラエル、ブラジルなどで行われた疫学調査では、携帯基地局の周辺で癌の発生率が高い事実が報告されている。

日本が採用している600?W/?、1000?W/?は、熱作用だけを考慮した数字である。1980年代の古い研究データをもとに基準を設定したから、このような数字になるのだ。しかも、NTTの組合から多額の政治献金が流れているので、政治家も改訂しようとはしない。

裁判所も大企業のための法手続きをする機関と化しているので、電磁波問題にはメスを入れない。

参考記事:『住民「現実みてほしい」』(朝日新聞)