「チンチンをしない犬」-沢田治、90歳の抵抗

カメレオンという動物がいる。環境の変化に応じて皮膚の色を変え、外敵から身を守る習性を備えている。日本の政界人やメディア関係者の大半は、このカメレオンに当てはまる。その対極にいるのが、「屈せざる」少数の人々である。
沢田治(サワダ・オサム)の名前は、新聞社の「天敵」として新聞関係者の脳裏に刻まれている。2月18日、わたしはおよそ20年ぶりに滋賀県草津市の沢田氏の自宅を訪れた。今年で90歳である。室内のあちこちに手すりが設置してあったが、寝たきりではなく、椅子に座って面談に応じられた。新聞販売現場で働く芝山守さんが新聞販売店の労働組合を立ち上げたのを機に、今後の組合活動について意見を交換するのが目的だった。
はじめてわたしが沢田さんに会ったのは、1997年である。東京・神保町にある岩波ブックセンターで、沢田さんの著書『新聞幻想論』を見つけたのが発端だった。
不思議なことにこの本は、有名書店で平積みになっていたにもかかわらず、沢田さんが自主制作した本だった。後に知ったことだが、当初は有名な某出版社から刊行する予定だったものの、記述の一部削除を求められ、話し合いが決裂したため、商業出版を断念し自費出版に切り替えたとのことだった。
出版社が削除を求めたのは、「押し紙」に関する部分や、毎日新聞不正経理事件(毎日新聞大阪本社の販売局が裏金づくりを行った事件)に関する記述である。
岩波ブックセンターが『新聞幻想論』の販売を引き受けた経緯は知らないが、出版人の良心が生きていた証しだろう。実際、わたしはこの本を一読して衝撃を受けた。日本のメディアが内包している重大な問題に、容赦なくメスを入れていたからだ。
当時、わたしは業界紙(新聞販売店向けの情報紙)を解雇され、フリーランスとして独立したばかりだった。解雇の理由は、新聞の業界団体が関わった裏金づくりを取材したことだった。業界紙各紙の社長が、この事件には関わらないことを申し合わせ、事件を隠蔽しようとしたため、わたしは本格的に調査に踏み切ったのである。そうした個人的事情もあって、『新聞幻想論』に強く共感した。
沢田氏は、新聞販売現場が抱える諸問題を暴露した人物である。新聞社が販売店に対して過剰な部数の買い取りを強制する制度――「押し紙」問題や、労基法が十分に適用されていないとされる新聞販売労働者の労務問題などを、国会質問の場へ持ち込んだ人として知られている。さらに、作家・上林暁の数少ない研究者でもある。
『新聞幻想論』を読んだのを機に、わたしは沢田氏の取材を重ねるようになった。ところが、2005年12月に『新聞があぶない』(花伝社)を出版した後、沢田さんは新聞販売の問題にほとんど関わらなくなった。理由は、「新聞の問題に関わると血圧が上がる」ということだった。以後、上林暁の研究に集中されているようだ。
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2月18日に行った沢田・芝山・黒薮の意見交換では、芝山さんが立ち上げた労働組合の方向性が話題になった。新聞発行本社との関わり方である。新聞社が組合つぶしに乗り出してくることが想定されても、正面から対峙すべきだというのが沢田さんの意見だった。中途半端な態度を取るとかえって危険が身に及ぶ、という考えである。
実際、過去に沢田さんに協力した人が、阪急電車で投身自殺した例があるという。自殺とされているが、何者かが背後から突き落とした可能性も否定できない。かつて新聞販売の世界には暴力団が入り込み、新聞販売店を強制廃業させる際に「恫喝」の役割を担ったこともあった。新聞拡張団にも暴力団の影響を受けたものがあったという。
「わたしも、ある不審死を知っていますよ」
わたしはKさんの不審死について語った。10年ほど前に兵庫県西宮市で起きた謎の死である。当時、西宮市にある新聞販売会社で組合をつくる動きがあった。中心になっていたKさんは、芝山さんに組合立ち上げについて相談したこともあったという。ところが、ほどなくしてKさんは自宅で急死した。布団の中で亡くなっていた。脳血管障害が死因とされているが、真相は分からない。
沢田さん自身も、新聞配達中に背後から車が急接近してきたのをバイクのミラーで確認し、歩道に乗り上げて難を逃れたことがあるそうだ。
「芝山さん、新聞社はヤクザよりもやっかいですよ。身の回りには気を付けなあかんよ」
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沢田さんが新聞販売店の労働運動の中心にいたころ、わたしは沢田さんを指して「あいつが一番悪い。早く死ね」という罵倒を耳にしたことがある。その人は先日亡くなった。死亡欄にその名があった。それを想起していると、沢田氏の口から次の言葉が漏れた。
「もう少しリハビリを進めて、必要があれば現場にも出ていきたい」
同じ言葉を噛みしめるように何度か繰り返した。
1980年代、わたしは「屈せざる人々」を探してラテンアメリカへ行った。が、不屈の人は、自分の身近にもそういう人はいる。ナチスに抵抗したレジスタンスの詩人・アラゴンがパブロ・ネルーダを評して言った言葉を借りれば、「チンチンをしない犬」は日本にもいる。
※沢田さんの個人誌『壁』は、毎日新聞社OB有志の支援により、今も刊行が続いている。口述筆記やメモをもとに編集が行われている。意外なところに、新聞人の良心は生きている。
