ごく微量の化学物質で中毒症状は起こり得るのか?メディアが煽る疑似科学としての「香害」

「香害」とは、文字どおり香りによる被害のことである。柔軟剤など人工的な香りを伴う製品によって健康被害が生じるとされる現象を指す。
近年、『週刊金曜日』をはじめ新聞やテレビでも、化学物質過敏症と同じ文脈で「香害」が公害問題として取り上げられるようになった。しかし、その科学的根拠は極めて乏しい。
結論から言えば、疑似科学の色合いが濃い。もちろん予防原則の立場から、被害を訴える人々に一定の配慮を示すことは必要だが、科学的な視点からは説得力を欠いている。
◆化学物質への警鐘の歴史
化学物質による人体影響が大きく注目されるようになったのは、1962年に出版された『沈黙の春』以降である。この本は、当時農薬として広く使われていたDDTが鳥や魚など多くの生物に深刻な影響を及ぼしていることを警告した。タイトルの「沈黙」は、化学物質の危険性を人類が自覚しないまま、正常の生態系が失われていくことを象徴している。
1990年代にはダイオキシン問題を契機に、環境ホルモンや化学物質の人体影響が改めて注目を集めた。筆者が環境問題の取材を始めたのもこの時期である。1996年に出版された『奪われし未来』は、化学物質が生態系を汚染し、人類が知らぬ間に動物のメス化などが進んでいると指摘した。
これらの議論に共通する視点は「人類が気づかぬうちに化学物質に曝露され、長い年月を経て発がんや生殖異常といった深刻な影響が現れる」というものである。化学物質による急性症状がでないから、かえって危険だと警鐘を鳴らしているのである。
◆「香害」が従来の公害問題と異なる点
「香害」は、この従来の公害論とはまったく異なる。訴える人々は「ごく微量の化学物質を吸い込んでも急性の症状が出る」と主張しているのだ。大量の有害物質を急激に体内に取り込んだ場合に中毒症状が生じることは医学的に説明できる。しかし、健常者が微量の化学物質で急性中毒のような症状を起こすという事例は聞いたことがない。常識的にはあり得ない。
ある市民団体は「子どもの約10%が香害の被害者にあたる」とまで述べている。確かに大量の毒物に曝露されて重篤な症状に陥り、その後、微量の化学物質にも過敏に反応するようになるケースは存在する。しかし、健常者が微量の化学物質で急性症状を起こすことはあり得ない。
◆匂いの不快感と「中毒」は別問題
電車内で香水の匂いを不快に感じた経験は、多くの人が持っているだろう。しかしそれは中毒ではなく、健康被害に直結するものでもない。それにもかかわらず「子どもの10%が香害被害者」という数字が流布する背景には、アンケート調査の方法に問題があると考えられる。
回答者が「化学物質過敏症の実態を把握する」という調査の目的を理解していれば、体調不良の原因をすべて「香害」と紐づけて回答する可能性が高い。体調不良は誰にでも起こりうるし、その原因が必ずしも化学物質とは限らないのだが。こうした誘導的な調査から導かれる数字に、科学的な信頼性は見出しにくい。
◆再考が求められる「香害」論
ごく微量の化学物質が中毒的な症状を引き起こすという思い込み――。この点に科学的な裏付けはほとんどない。
微量の化学物質、例えば柔軟剤に含まれているいイソシアネイを長期にわたって体内に取り込んだ場合、健康被害が懸念されると言うのであれば理解できるが、「香害」の論理はそうではない。
「香害」を主張する市民運動には、改めて冷静な再考が求められる。
どのような主張を展開するにしろ、大前提として客観的な事実を把握する必要がある。
