1. 「司法の独立・裁判官の独立」について-モラル崩壊の元凶 押し紙-

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2025年08月23日 (土曜日)

「司法の独立・裁判官の独立」について-モラル崩壊の元凶 押し紙-

執筆者:弁護士 江上武幸(福岡・佐賀押し紙弁護団、文責)2025年8月21日

井戸謙一・樋口英明両元裁判官が今年6月に旬報社から共著『司法が原発を止める』を刊行されました。これを契機に、司法の独立・裁判官の独立をめぐる議論が再び活発化しています。

*瀬木比呂志元裁判官が『絶望の裁判所』(講談社)を刊行したのは2014年2月、生田輝雄元裁判官が『最高裁に「安保法」違憲を出させる方法』(三五館)を刊行したのは2016年5月です。なお、岡口基一元裁判官は現在もFacebookで最新状況を発信し続けています。

押し紙裁判においても、審理途中で不可解な裁判官交代があったり、販売店側の敗訴判決に類似性・同一性が認められることなどから、最高裁事務総局による報告事件指定がなされているのではないかとの疑念があります。

憲法76条3項は「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定め、81条は「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するか否かを決定する権限を有する終審裁判所である」と規定しています。

このように、日本国憲法は裁判官の独立と違憲立法審査権を明確に定めていますが、実際に裁判の場で法令の無効を宣言するには、裁判官に相当の勇気が求められるのが現実です。

裁判官の独立を妨げる圧力や、さまざまなしがらみについて、少し考えてみたいと思います。

◆『新しい憲法のはなし』

私は憲法学者・故丸山健先生の教えを受けた者ですが、日本国憲法は当時も今も世界の最先端を行く憲法だと考えています。日本人300万人、アジア諸国民2000万人もの尊い命を奪った先の大戦の反省に立ち、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義の三原則を掲げ、前文で「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意する」と宣言した日本国憲法は、「押し付け憲法」などと軽々しく呼べるものではありません。

旧文部省は新制中学生向けに『新しい憲法のはなし』と題する社会科教科書を制作し、将来を担う子どもたちに日本国憲法の精神を身につけさせようとしました。

しかし、冷戦の始まりと朝鮮戦争の勃発を受け、アメリカは日本の民主化政策を転換し、再軍備を進めることになりました。ところが、憲法第9条は武力放棄を定めているため、A級戦犯を釈放し、憲法改正を党是とする政党を設立させ、「押し付け憲法」というレッテルを貼ることで新憲法の精神が日本国民に根付かないように仕向けました。

その結果、日本国民は共通の価値観・倫理観・道徳観を十分に形成できないまま今日に至っています。

世界を見渡しても、外国軍が平時に駐留し続けている国は日本以外に例がありません。戦後80年が経過してもなお、アメリカの影響下から脱しきれない日本の政治の貧困が「失われた30年」を生み出したといっても過言ではありません。

しかし、ネット社会の普及により、日本が真の意味で独立国とはいえないことが徐々に明らかになり、若者はそのような不甲斐ない国をつくってきた旧来型政治家に見切りをつけ、大胆な変革を掲げる新興政党の指導者に期待を寄せているように見えます。

日本の司法もまた、その根幹はアメリカの影響下に置かれてきました。その一例を、以下の出来事から見てみたいと思います。

◆砂川事件

1957年(昭和32年)、米軍立川基地への立ち入りをめぐり学生らが逮捕・起訴される事件が発生しました。いわゆる砂川事件と呼ばれる米軍基地反対運動です。東京地裁は1959年(昭和34年)3月、政府による米軍駐留の容認は戦力不保持を定めた憲法に違反するとして無罪判決を言い渡しました。この判決は裁判長の名をとって「伊達判決」と呼ばれています。伊達判決を受け、法務省幹部(検察)と最高裁は大慌てしました。なぜなら、日米安保条約はアメリカによる日本支配の法的根拠であり、その条約を憲法違反と判断した地裁判決を看過することはできなかったからです。

検察は高裁を飛ばし最高裁へ跳躍上告しました。当時の最高裁長官・田中耕太郎氏は、駐日アメリカ大使ダグラス・マッカーサー2世や公使らと非公式に会談し、伊達判決は誤りであると述べ、破棄差戻しを約束しました。

最高裁は同年12月16日、大法廷において一審判決を破棄し、東京地裁に差戻しを命じました。差戻し審を担当したのは、後に最高裁事務総長・最高裁判事となる岸盛一氏です。岸氏は、青年法律家協会所属の裁判官を排除する、いわゆる「ブルーパージ」の実務を担った裁判官としても知られています。

なお、田中耕太郎氏は、砂川事件差戻し判決の翌年1960年(昭和35年)、アメリカの支持を得て国際司法裁判所判事選挙に立候補し、同裁判所の判事に任命されています。

*田中耕太郎氏の経歴等は、必要に応じて各自ご確認ください。

最高裁が伊達判決を破棄・差戻しするために考案した法理論は、後に「統治行為論」と呼ばれるものです。

                        記

「安保条約の如き、主権国としての我が国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否かの法的判断は、純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査に原則としてなじまない性質のものであり、それが一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外にあると解するを相当とする。」

「安保条約(またはこれに基づく政府の行為)が違憲であるか否かが、本件のように(行政協定に伴う刑事特別法第2条が違憲であるか)前提問題となっている場合においても、これに対する司法裁判所の審査権は前項と同様である。」

「安保条約(およびこれに基づくアメリカ合衆国軍隊の駐留)は、憲法第九条、第九八条第二項および前文の趣旨に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは認められない。行政協定は特に国会の承認を経ていないが違憲無効とは認められない。」

この最高裁大法廷判決以降、日米安保条約に基づく米軍の駐留や軍人・軍属、基地に関する訴訟において、裁判官が安保条約の違憲判断を示すことは事実上できなくなりました。

私は、ある裁判官から「沖縄県の裁判官人事は福岡高裁を経由せず、最高裁事務総局が直接行っている」と聞いたことがあります。その理由は、沖縄で発生する米軍関係事件において安保条約違憲判決を出す裁判官が現れることを防ぐため、とのことでした。

◆大阪空港騒音訴訟

二番目の事例は大阪空港騒音訴訟です。

1969年、大阪空港周辺の住民は、航空機の騒音・振動による被害を理由に、午後9時以降の夜間飛行差止めと損害賠償を求めて国を提訴しました。

1974年、大阪地裁は午後10時以降の飛行禁止と過去分の損害賠償を認め、大阪高裁も1975年に午後9時以降の飛行禁止と将来分の損害賠償を認める全面勝訴判決を言い渡しました。

この上告審は、刑法学の権威である団藤重光元東大教授が所属する第一小法廷に係属し、1978年5月に結審、その秋に判決が予定されていました。ところが同年7月、国から大法廷への回付申請があり、 上裁判長が岡原昌男最高裁長官に相談していたところ、村上朝一前最高裁長官から電話が入り、大法廷への回付が決まったのです。

上告から6年余り経過した1981年12月、最高裁大法廷は大阪高裁判決を破棄し、夜間飛行差止め請求を却下、過去の損害賠償のみを認める判決を下しました。

この重大な経緯は、龍谷大学に保管されていた団藤重光教授の日記に記されており、2023年4月15日放送のNHK番組『誰のための司法か~団藤重光 最高裁・事件ノート』で初めて公にされました。

◆裁判官の独立を脅かす構造

原発訴訟や諫早湾干拓事業開門訴訟など、国政の根幹に触れる裁判については、担当裁判官に対し、様々な形で干渉・情報収集・人事配置による圧力が及んでいるとしても不思議ではありません。

近年では三人合議体においても、経験年数や年齢差、上下関係などの影響で自由闊達な議論が難しくなっていると言われます。黒い法服の裁判官3人が、裁判長を先頭に一列で廊下を移動する姿は、裁判官間の序列を象徴する異様な光景です。

私自身、大阪高裁での読売新聞販売店押し紙訴訟控訴審判決の際、代理人席に着席する前に裁判長が「控訴棄却」を告げ、陪席裁判官とともに退廷してしまった経験があります。その高圧的な態度に私は唖然としました。

また、西日本新聞長崎販売店押し紙訴訟判決(福岡高裁)では、前の2件の判決では型どおりの「本件控訴を棄却する」とだけ告げたのに対し、私どもの事件では「主文1」と言ってから棄却を告げるという、いたずらのようなやり方でした。私は一瞬勝訴かと思いましたが、すぐに肩透かしをくらった形で、不快感を覚えました。

◆裁判官人事と独立の限界

高裁裁判長クラスは65歳定年に近い年齢が多く、私より10歳ほど若い世代です。私の同期には最高裁長官や高裁長官になった者もいますが、結局はそうした裁判官を生み出してしまったのが私たちの世代でもあります。

現在はウェブ裁判が普及し、画面上では裁判官も代理人も当事者も同じ目線の高さで映し出されます。そろそろ、法廷においても裁判官席を弁護人席や傍聴席と同じ高さに設置する時代に移行すべきではないでしょうか。

憲法は裁判官の独立を保障していますが、下級裁判所裁判官は最高裁が指名した名簿に基づき内閣が任命し、任期は10年と定められています。したがって、裁判官志望者は任命や再任を意識し、無意識のうちにも最高裁の顔色を窺う傾向が生じます。

1971年には23期司法修習生のうち裁判官希望者7名が任官を拒否される事件が発生しました。理由説明を求めた坂口徳雄修習生は罷免され、さらに宮本康昭裁判官の再任拒否や、青法協加入裁判官への脱退工作によって、憲法擁護派裁判官は急速に減少しました。これは最高裁事務総局と司法研修所当局による「ブルーパージ」とされ、司法の独立を内部から踏みにじる暴挙でした。この時、司法の自律は実質的に崩壊したといえるでしょう。

私たち29期修習生はその6年後に司法研修を受けました。東大紛争を知る最後の世代でもありましたが、1971年のブルーパージの影響で、裁判官・検察官志望と弁護士志望が憲法三原則について腹を割って議論する空気は失われていました。

それでも、実務修習の1年間は同じ釜の飯を食う関係が築かれ、進路が分かれても同期の法曹として対等なつきあいが続きました。

ところが、その後、法曹養成制度は大きく変質しました。ロースクール設置、司法試験制度の変更、修習期間の短縮、給費制廃止、さらに弁護士事務所の法人化や宣伝自由化など、日本の風土にはなじまないアメリカ型の司法制度が導入されたのです。

これはアメリカの年次報告書に基づく司法制度改革要求を、日本が無条件に受け入れた結果でした。そして今では、それが誤りであったことを多くの人が認識するようになっていると思います。

次回の投稿では、アメリカの年次報告書に基づく司法制度改革が日本の司法界をどのように変質させたのか、その感想を述べたいと思います。