1. 【書評】『前立腺がん患者、最善の治療を求めて』—記録された大学病院の深い闇

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2025年08月09日 (土曜日)

【書評】『前立腺がん患者、最善の治療を求めて』—記録された大学病院の深い闇

大阪市の都心から離れた住宅街に、2024年4月、前立腺がんの小線源治療を専門とするクリニックが開業した。院長は、異色の経歴を持つ岡本圭生医師である。

本書は、その岡本医師と患者たちが、前近代的な師弟関係に支配された大学病院と対峙した事件を詳細に記録したものである。著者の出河雅彦氏はこう述べる。

「医師の世界に限らず、自分が所属する組織や集団の中で、権威者や上位の者の意思に逆らってまで職業倫理や良心に忠実に行動しようとすれば、おのれの保身、利己的計算、事なかれ主義を克服しなければならず、それは口で言うほどたやすいことではない」

口で言うほどたやすくないことを実行したのが岡本医師だった。当時、朝日新聞記者だった出河氏は、この事件を取材するため東京から滋賀県大津市にある滋賀医科大学へ何度も足を運んだ。

2017年12月、滋賀医科大学は岡本医師を中心とする「前立腺癌小線源治療学講座」を2年後に閉鎖すると発表した。それは、この医療技術の中止を意味した。岡本医師が米国の医療から学び、独自に発展させた小線源治療は、日本国内はもとより海外でも高い評価を受けていた。そのため、北海道や沖縄など遠方からも、手術を求めて患者が滋賀医科大学を訪れた。

当然、講座閉鎖の発表は「生命を最優先する」という人道的・倫理的観点から強い批判を呼び起こした。とくに治療の順番を待っていたがん患者たちは大きな動揺に包まれた。

事件の発端は、2015年1月に前立腺癌小線源治療学講座が設置されたことにさかのぼる。講座の設置は医療メーカーの協力で実現したが、岡本医師の辣腕と名声を快く思わない泌尿器科の先輩教授らが妨害に乗り出した。岡本医師の外来を訪れた患者を、密かに別の窓口に誘導し、独自の小線源治療を始めたのである。結果として、一つの大学病院内に二つの小線源治療窓口が併存するという異常な事態が生じた。

しかし、泌尿器科の教授らには小線源治療の経験も実績もない。手術の高リスクは明らかだった。それでも教授は、部下の助教授を執刀者に指名し、半ば実践訓練を兼ねた手術計画が実施されることになった。手術の直前になって、岡本医師は塩田浩平学長に計画中止を進言した。この瞬間、岡本医師の大学病院追放は既定路線となった。

講座閉鎖の決定は、手術を待つ約100人の患者を不安に陥れた。患者たちは患者会を結成し、滋賀医科大学の正門やJR大津駅前などで街頭活動を展開。さらに2件の裁判も提起した。

本書は、これら一連の経過を丹念に記録している。行間から、前近代的な大学病院の構造が浮かび上がる。著者は岡本医師の言葉を引用する。

「私は医学界にいまだ存在する、踏んではいけない虎の尾を踏んでしまったのだと思います。それは戦前から医学部教授が手にしているとされる既得権──診療、研究の進め方は言うまでもなく、講座の構成員の生活や将来のすべてを決定する権力です」

岡本医師が滋賀医科大学を去ってから5年。クリニックを開業して小線源治療を再開してから1年が過ぎた。事件は、記録しておかなければ時の流れとともに砂城のように消えてしまう。その意味で、本書は極めて貴重な記録である。

 

タイトル:前立腺がん患者、最善の治療を求めて
著者:出河雅彦
出版社梨の木舎
発売日:2025年8月10日