1. 公共事業は諸悪の根源?  ジャーナリズムでなくなった朝日 その7(後編)

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2014年01月28日 (火曜日)

公共事業は諸悪の根源?  ジャーナリズムでなくなった朝日 その7(後編)

◆吉竹幸則(フリージャーナリスト・元朝日新聞記者)

後任の編集局長は東京本社から来た、箱島社長と同じ経済部畑の人物でした。東京6大学の万年最下位チームの元投手。当時、明治大学にいた星野仙一氏と投げ合ったのが、何よりの自慢。当時、星野氏が中日の監督をしていたこともあり、聞かれもしないのに「昨日、星野君と飲んで来たよ」と、社内で吹聴して回るような人でした。

「社長にベッタリ。取締役を狙っている」とのウワサもありました。案の定、「広報は1年」の約束は簡単に反故にされ、私は広報留め置きになりました。関連会社社長に出向した前局長は、約束通り2年で朝日の取締役に戻りましたが、私との約束が果たされることはありませんでした。

「広報」は、「朝日読者との窓口」と言えば聞こえはいいのです。しかし、実質は、苦情処理部門です。記者を志望して新聞社の門をたたいた人間なら、誰も希望しない嫌悪ポストでした。特に万年赤字の名古屋本社は人手不足。、私に「広報室長」の肩書きがあっても、社員は私一人だけの期間が長くありました。

あとは、定年になったOBです。私の立場を気遣って、随分支えてもらいました。それでも、いざという場面での厄介な抗議・危機管理は、社員である私が一人で体を張って処理していく以外にありません。

新聞社の広報には、社会の中でストレスをいっぱい溜め込み、不満のはけ口に電話してくる読者も珍しくありません。「星が攻撃してくる」や人生相談の類いもあれば、記事に強硬に抗議する人もいます。朝日の場合、右翼からもたびたび脅迫に近い電話もかかってきます。正直、筋違いの批判や無理難題も多いのです。

◇「朝日に限って、圧力に屈することはない」

ただ組織同様、記者の質も落ち、疑問符のつく記事も散見されました。そんな記事には、間違いなく苦情が来ます。私はポケットマネーで菓子折りの一つも買い込んで出掛け、抗議してきた人に平身低頭で謝り、訴訟沙汰にならないよう、理解を求めなければなりません。時には、暴力団まがいの人にツバを吐きかけられたり、暗い場所に連れ込まれ、首を絞められたことさえあったのです。

もし、朝日が報道機関として健全で「守るに値する組織」と、心の底から思えたら、私も耐えられたかも知れません。しかし、私はそんな気持ちに到底なれませんでした。

社内見学に来る人たちへの応対、説明も私の仕事でした。「記事は外部や内部の圧力で、止められることがあるのか」という質問もよく受けました。立場上、私は、「朝日に限って、圧力に屈することはない」などと、真っ赤なウソをつき続けなくてはなりませんでした。

「最近の朝日ははがゆい」「昔のようにもっと厳しく、地域の問題に切り込んで欲しい。今は地元紙の方がよほど頑張っている」との声も、広報には、多く寄せられていました。

私の原稿が潰されたことで、これまで名古屋本社として長く積み上げてきた河口堰を始めとした調査報道の伝統も影をひそめていました。私に対する組織の仕打ちを目の前にしたら、誰もが恐れをなします。名古屋編集局では、ダム・公共事業問題に取り組むのさえタブー視される雰囲気が出ても当然だったのです。

◇やりたい放題になった公共事業

そんな矢先、建設省は国交省と名前が代わっても懲りもせず、岐阜県最北部に計画していた徳山ダムに着工のゴーサインを出しました。「日本一の巨大ロックフィルダム」という触れ込みです。しかし、もともと流量の少ない「谷川」でしかない揖斐川最上流部を堰き止めるだけに過ぎません。

そんな場所に巨大なダムを造ってみても、費用が莫大なだけ。堰き止め可能な水量はタカが知れていますから、治水・利水で大きな効果が見込めるはずもありません。長良川河口堰同様、やはり無駄の象徴なのです。しかし、朝日内部はこんな状態。やすやすと建設を許す結果にもなっていました。

河口堰も、環境問題はもとより案の定、水需要は伸びず、溜めた水を使う目途さえ立っていませんでした。建設の費用負担だけが中部地区の住民に重くのしかかり、名古屋市の水道料金なども大幅値上げを余儀なくされていたのです。

国レベルで見ても、バブル崩壊後、「景気対策」を名目に無駄な公共事業は、これまで以上に乱発。当時すでに700兆円に達していた国、地方自治体の借金がますます膨れ上がり、金利による財政の逼迫が国民生活に暗い影を落としていたのです。まさに「公共事業は、諸悪の根源」なのです。

結果論で言っている訳ではないのです。河口堰の記事が止められ、1本の記事も日の目を見ていなかった1992年末、当時の名古屋編集局長に対して、私が河口堰記事の掲載と組織の是正を求め、異議を申し立てるために提出した「長良川河口堰報道問題について」の文面を思い起こして下さい。その中で具体的に警告・予言したことが、現実になっただけの話です。

記者の仕事とは、つき詰めれば今ある現実を詳しく取材・精査して、未来の危機を予知することにあると、私は考えています。私は記者として、河口堰報道でやろうとしたことに、間違いはなかった。ますます、そう確信を深めてもいました。

私は広報の身でも、読者からの苦情を伝えるため編集局の会議には出られます。ことあるごとに河口堰や徳山ダムなど、無駄な公共工事に対する報道強化も提言しました。しかし、編集局から省みられることは一度もありませんでした。

◇「記者として復帰したかったら、編集局に信頼回復せよ」

そんな苛立ちも頂点に達していた2003年6月のことです。その時点で、私はとうに広報在任4年を超えていました。

当時、朝日では、部長クラス以上の管理職には、自分の1年間の実績をアピールし、交渉で年俸が決まる能力評価制度が導入されていました。「名ばかり管理職」の私も、一応、この制度の対象者です。人事の希望も、この場で聞かれます。

広報は、編集局ではなく名古屋本社代表の直属組織です。代表は「広報は1年だけ」の約束を反故にし、私の編集局復帰を拒否し続けていた編集局長が昇進して、務めていました。

それまでも、記者への復帰希望は伝えてはいました。しかし、「もうしばらく」などと、のれんに腕押し状態だったのです。社内外のストレスで精神的に限界だった私は「ヒラでいいから」と記者への復帰を、強く願い出ました。

しかし、代表から返って来た言葉は、何と「記者として復帰したかったら、編集局に信頼回復せよ」だったのです。

私は、河口堰報道がほとんど陽の目を見なかったことで、読者・世間に後ろめたい気持ちは、もちろんありました。しかし、朝日から「信頼回復」を求められる筋合い・理由は、これっぽっちもありません。

――河口堰報道のことか?

「そうだ。君はデータ不足の原稿で、編集局長にまでいろいろ言い、騒いだではないか」

――そこまで言われるなら、きちんと経過を調べてください。どこにデータ不足があったのか。どちらが読者に信頼回復すべきなのでしょうか?

「君はアエラにも記事を出そうとし、『データ不足』で断られたと言うじゃないか」

――データ不足ではなかったはずです。誰からどう聞かれたかは知らない。双方の話を公平に聞いて調査の上で、きちんと判断していただきたい。

「いやー……。いまさら、それは……」

――当時のアエラのデスクは、代表のすぐ近くにおられます。聞けば、データ不足かどうか、簡単に分かります。白黒はっきりさせていただけませんか?

「まぁー。とにかく……」

◇『アエラ』も河口堰問題をタブー視

補足すれば、アエラ(朝日が発行する情報雑誌)の件とは、1993年末のことでした。最初の原稿がやっと紙面を飾った後、続報のほとんどがボツにされた直後、私の理解者の社会部長に、「続報の原稿を生かす道として、アエラに記事を書かして欲しい」と相談したことが発端です。

アエラの当時のデスクは、私が政治部時代、親しくしていた先輩。頼めば潰された続報の内容を、何とかアエラの記事として復活してくれるのではないかと、思いついたからでもありました。

「アエラのデスクが通すなら」と、部長も快諾してくれました。即座に、アエラのデスクに概略を説明。一旦は快諾してくれたのです。

頼まれた原稿を正月休みに書き上げ、アエラ編集部に送りました。しかし、それからがなしのつぶて。デスクに問い合わせると、「データ不足で使えない」という返事が、最初は確かに返って来ました。

そこで私は、「どのデータが足らないのか。データは揃っているはず。いつでも説明する。原稿上の不足、わかり難さがあるなら書き直す」と、デスクに尋ねました。

しかし、デスクは、「いや……。データが足らないとか、原稿がまずいということではなくて……。何と言うか……。悪いな。悪いな。とにかく使えない……」と、言うばかり。その後、「原稿料代わり」と、大量のテレホンカードも送ってくれていたのです。

もちろん、名古屋本社ばかりでなく出版局にもおかしな力学が働き始めているのは、すぐに分かりました。当時の出版トップは、とんでもない社会部長と親しい例の経営幹部の直系というのが、社内のもっぱらのウワサでした。その影響かとも思いました。でも、真相は分かりません。ただ、人の好いデスクをこれ以上責めても、板挟みにして迷惑をかけるだけです。だから、そのままにしておいただけです。

当時のアエラのデスクは、代表とも親しく、呼ばれて名古屋の編集幹部になっていました。すぐ近くにいるのだから、「データ不足があったか否か、当時のアエラデスクに聞けばいい」と言ったのです。

◇これが名古屋本社最高責任者の言葉

記者にとって「データ不足の原稿で騒いだ」は最大の侮辱の言葉です。ますます黙っている訳には行きません。もやもやしていた私の心に、この時、はっきり火がつきました。机の中に忍ばせて続けていた辞表を破り捨て、朝日と徹底的に論争する覚悟を決めたのも、この時です。   私は、「データ不足があったか否か、当時の経過を検証して回答を欲しい」と、何度も何度も念を押しました。しかし、代表は、何の返事もして来ません。1ヶ月が経過した頃です。業を煮やし、私から代表室に行きました。

――データ不足はあったのですか。どちらが「信頼回復」すべきか、たっぷり時間はあったのですから、調査は済んでいるのではないですか?

「当時はいろいろあったようで……」

-―では、「データ不足」は撤回されますか。「信頼回復」すべきは、会社の方ではないか?

「いゃー……。あのう……」

――白黒、はっきりさせてください。

「いゃー……。何と言うか……。君を評価しなかったから、広報の仕事をさせていたのではない。広報は読者との窓口であり、組織の危機管理を担う大事な仕事だ。評価したからこそ、君には広報に長く居てもらった」

――それなら、なぜ、私は昇格もせず、未だに3級のままなのでしょうか?

「いゃー……。それは……。つまり……、私が評価しなかったからではない……。君には応援団がいない。仕方ないだろう。東京の広報本部長や広報担当の役員が君の面倒を見なかったからだ」

――誰が面倒見たとか、見なかったとか……。会社は、仕事の実績で、昇格や年俸を決めるということで、人事評価システムを導入されたのではなかったですか。結局のところ、朝日という会社は、応援団の有無、つまり派閥力学で、人事や昇格、給料の中身を決めていることを認められるのですね?

「……。……」

――黙っておられては分かりません。

「もう、その話は時効だ。時効」

――都合が悪くなると、時効ですか。私に「編集局に信頼回復せよ」と言われたのは、代表の方です。それなら、記者に戻してもらえませんか?

「君が記者に戻りたいのは、リベンジ(復讐)が目的か。それならますます記者に戻せない」

――そんな次元の問題ではないでしょう。

「……。……」

後は、何を聞いても沈黙。一切答えはありませんでした。報道の根幹にかかわる話です。それが、「時効」、「リベンジ」……。残念ながら、これが、報道機関、ジャーナリズムを標榜する朝日の名古屋本社最高責任者の言葉だったのです。

◇朝日の昇格制度について

この会話の中で、私の3級留め置きがこの時にすでに5年になったことにも触れています。朝日の昇格制度について、以前のこの欄でも書きましたが、後で報告する私の裁判にも関係することなので、若干の補足説明を、ここでさせて下さい。

記者出身の広報の責任者は、3級で就任しても私以外、2年か3年、遅くとも4年で、準2級以上に昇格していました。3級は新任部長相当職、名ばかり管理職のようなものです。4級までなら記者の場合、時間外手当に相当する高額の「記者手当」が支給されます。

しかし、3級に昇格すると、手当はなくなります。編集局の部長は記者手当に見合うよう、それなりに管理職手当も高めに設定されています。しかし、広報は管理職手当も低く、3級のままでは大幅減収になります。

読者からさんざん苦情を聞かされ、何かあれば体を張って組織の盾にならざるを得ないのが、嫌悪ボストの広報です。局長補佐、古参部長に適用される準2級以上になると、やっとまともな管理職扱いになり、加速度的に昇給します。

編集から広報に異動になり、「飛ばされた」という感覚になっている管理職に対し、収入面の不満だけでも幾分でも緩げ、下がった給料を補填する意味もあって、早めに昇格させるのが慣例だったのです。

しかし、私に限って、広報在任4年を超えても準2級への昇格すら見送られていました。3級の時点で、同期より大幅に遅れていましたが、「最低保障」の5年を経過しても、昇格の見込みもありませんでした。記者時代に比べて給料の中身も大幅に細っていたのです。

広報は守りが仕事。記者時代のように派手な実績など、もともと挙げようはありません。しかし、仕事で失点すれば朝日からつけこまれる事はとっくに承知済みです。私は、読者の苦情・抗議は何とか丸く収め、標準以上に仕事をこなしてきたつもりです。

昇格を決める人事権を持つのも代表です。「広報として評価していた」と言うなら、とっくの昔に私は、準2級以上には昇格していておかしくはありません。こんな、白々しい言い訳が通用するはずもないのです。

先にも記したように、編集局長に異議を申し立てた内容は、ズバリ河口堰報道を止めたことによる「将来の危険」を言い当てていたはずです。私は記者として真っ当なことをしたとの自信・確信はあります。

なら私は、何故、朝日から「信頼回復」を求められるのか。何故、異議を申し立てたのを発端に、記者の職まで剥奪され、昇格・昇給まで差別されるのか。これが朝日と私が論争する第2ラウンドの始まりになったのです。

申し訳ありません。ここまで書いて来たところで、今回も、紙数が尽きました。次回は、この第2ラウンドの成り行きを報告して行きたいと思います。ぜひ、今年も本欄のご愛読をよろしくお願いします。

≪筆者紹介≫ 吉竹幸則(よしたけ・ゆきのり)

フリージャーナリスト。元朝日新聞記者。名古屋本社社会部で、警察、司法、調査報道などを担当。東京本社政治部で、首相番、自民党サブキャップ、遊軍、内政キャップを歴任。無駄な公共事業・長良川河口堰のウソを暴く報道を朝日から止められ、記者の職を剥奪され、名古屋本社広報室長を経て、ブラ勤に至る。記者の「報道実現権」を主張、朝日相手の不当差別訴訟は、戦前同様の報道規制に道を開く裁判所のデッチ上げ判決で敗訴に至る。その経過を描き、国民の「知る権利」の危機を訴える「報道弾圧」(東京図書出版)著者。