1. 白鵬の審判団批判とスポーツの政治利用、大衆をターゲットにしたメディアによる世論誘導

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2015年02月12日 (木曜日)

白鵬の審判団批判とスポーツの政治利用、大衆をターゲットにしたメディアによる世論誘導

メディアを利用した洗脳は、編集長に洗脳しようという意図がなくても、大規模に進行することがある。

たとえば、新聞や雑誌、あるいはウエブサイトのスポーツ報道で「頑張れ、ニッポン!」を繰り返していると、国民全体が知らない間に愛国心に染まっていく。テニス・プレーヤーの錦織圭の活躍を繰り返し報道していると、日本人の「優位性」を感じる層が増えていく。

スポーツの政治利用は古くから行われてきた。その中心的な役割を担っているのが、メディアであるが、記事を執筆・編集する側は、自分たちのスポーツ報道が国民にどのような負の影響を及ぼしているのかを自覚していないことが多い。

去る1月25日に、横綱・白鵬が33回目の優勝を果たした。その翌、記者会見の場で白鵬は、稀勢の里との対戦をふり返り、審判団を批判した。それが波紋を広げた。審判団批判はふさわしくないという趣旨の記事が次々と掲載されたのだ。白鵬をとがめる故大鵬婦人のコメントまで紹介された。

直接に白鵬をバッシングしていなくても、記事の行間から、「審判団批判は許さぬ」と言わんばかりのトーンが伝わってくる。

この「事件」に関する記事を検索するとおびただしい数になる。「事件」から2週間が過ぎても、スポーツ紙はいまだに白鵬批判を続けている。

当初は、朝日、読売、毎日、産経といった中央紙もこの「事件」を取り上げていた。次に示すのは、そのほんの一部である。いずれも電子版で、記事のタイトルと日付を抜書きしてみた。

「唐突」だった横綱白鵬の審判部批判なぜ…言葉の影響力再認識してほしい(産経新聞 2月7日)

宮城野部屋が稽古再開 審判部批判発言の白鵬は姿見せず(デイリースポーツ 2月6日)

大相撲「白鵬騒動」 外国人は劣等感を背負う運命?(週刊朝日2月4日)

バラエティー番組で謝罪 白鵬を増長させた相撲協会の“腐敗”(日刊ゲンダイ 2月2日)

白鵬、TVナマ謝罪から一夜明け審判部批判の質問にはだんまり(サンケイスポーツ 2月2日)

白鵬の審判批判問題は幕引き 相撲協会、責任追及せず(朝日新聞 2月1日)

白鵬「おわびしたい」=審判部批判で謝罪(時事通信 1月31日)

<大相撲>白鵬スマステで謝罪「迷惑、心配をかけおわび」(毎日新聞 1月31日)

<大相撲>ご法度の審判批判 「優等生」白鵬の胸の内は?(毎日新聞 1月31日)

謝罪は親方のみ 審判批判の白鵬はなぜ自ら頭を下げないのか(日刊ゲンダイ 1月29日)

審判部批判の白鵬、TV番組で「おわびしたい」(読売新聞2015年02月01日)

 北の湖理事長、親方を直接注意…白鵬の批判問題(読売新聞2015年01月30日)

◇「期待される人間像」

審判団の判定には絶対服従。これは、突き詰めれば、目上の人の言葉には服従するのがあたりまえという思想にほかならない。儒教の影響があるのかも知れないが、極めて前近代的な考え方である。

実は、このような意識は、学校教育の中でかなり巧みに植えつけられてきた。その典型例は、1960年代に中央教育審議会が打ち出した「期待される人間像」にみる教育観である。

誰に「期待される人間」になるように教育するのかは明記していないが、結論を先に言えば、企業や目上の人である。文句を言わない「イエスマン」になって、会社のために働く人間を作ることが教育の目的という観点に立って、学校教育が行われてきたのである。

それが高度経済成長期の「猛烈社員」を生み出した。

◇大衆がターゲット

白鵬による審判団批判についての記事に見られる思想は、軍事大国化を進める日本政府と財界にとっては歓迎すべきものである。上官の命令に服従しなければ、戦争は出来ないからだ。

たとえば直立不動で整列した戦闘員を前に、司令官が、

「石場ッ!貴様が先陣を切って敵の陣地に突進せんか」

と、命じる。この時、戦闘員が命令に服従しなければ、作戦は進行しない。

また、企業の中でも、ブレインに属する人々は別として、作業に従事する圧倒的多数の人々は、上司の命令に服従することが求められる。

その意味では、「目上の人に対する批判=悪」の考えが、脳に刻まれることは、日本の上層にいる人々にとっては、きわめて歓迎すべきことだ。

スポーツは大衆の娯楽だ。分かりやすい。しかも、視聴者が多い。それゆえに白鵬の審判団批判は、政治利用されやすい側面を持っている。