1. 烏賀陽弘道著『スラップ訴訟とは何か』、恫喝裁判で故意に外されるパブリック・イシュー(公的テーマ)

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2016年02月12日 (金曜日)

烏賀陽弘道著『スラップ訴訟とは何か』、恫喝裁判で故意に外されるパブリック・イシュー(公的テーマ)

 日本の法曹界には、スラップという概念がないと言われている。それに近い概念として、「訴権の濫用」があるが、少なくとも数年前までは、スラップという言葉すらなかった。

スラップとは、「Strategic Lawsuit Against Public Participation」の略語で、「公の場で発言したり、訴訟を起こしたり、あるいは政府・自治体の対応を求めて行動を起こした権力を持たない比較弱者に対して、企業や政府など比較優者が恫喝、発言封じ、場合によってはいじめることだけを目的に起こす加罰的あるいは報復的な訴訟」(スラップ情報センター)のことである。

が、これだけでは、具体的にスラップとはどういう行為を指しているのかよく分からない。その結果、若干誤解が生じているようだ。

◇オリコン裁判

2006年11月17日、一通の訴状が東京地裁に提出された。原告は、音楽ヒットチャートで有名なオリコン。被告は、ジャーナリストの烏賀陽弘道氏だった。月刊誌『サイゾー』に掲載された記事に引用された烏賀陽氏のコメントが名誉毀損に問われたのである。

しかし、版元は訴外になっていた。さらに烏賀陽氏のコメントは、編集部で勝手に変形されたもので、烏賀陽氏の意図とは異なっていた。

東京地裁での一審は、烏賀陽氏が敗訴した。しかし、控訴審でオリコンが請求を放棄して、烏賀陽氏が勝訴した。

本書は、烏賀陽氏がみずからが巻き込まれた事件を契機に、米国を取材してスラップの概念と実態を日本に紹介したものである。

◇パブリック・イシュー

日本では一般的に、高額訴訟=スラップという誤解があるが、厳密にいえば、スラップにはいくつかの要件がある。本書で烏賀陽氏は、それを詳しく紹介している。

誤解されがちな要件をピックアップしてみよう。

たとえば刑事告訴はスラップには当てはまらない。と、いうのも刑事事件の扱いは、検察官の手に委ねられ、「意のままに裁判を始めて相手に苦痛を与えることができるかどうか、原告の意思だけで決められない」からだ。その点、民事訴訟のほうが、自由自在に被告に苦痛を与えることができる。

また、スラップと定義するためには、パブリック・イシュー(公共性のあるテーマ)が必要になる。「私的な問題にかかわる提訴はスラップに該当しない。嫌がらせや報復、沈黙を目的として民事訴訟を提起しても、問題が私的であれば、スラップには当たらない」。

代表的なパブリック・イシューを拾い出してみると原発問題などがある。

烏賀陽氏が本書で指摘している最も重要な点は、スラップ裁判では、パブリック・イシューが争点から外れている点である。

たとえば中国電力が、2009年に原発の設置に反対する人々を工事妨害で提訴した事件がある。(上関原発事件)この裁判の争点は、被告とされた住民に工事妨害があったかどうかだけに矮小化されてしまい、肝心の原発設置の是非という公共性が極めて高い問題は放置された。

本来、議論すべきは、むしろ後者であるはずなのだが。

◇「押し紙」裁判

わたし自身がかかわった裁判でも、パブリック・イシューが争点にならなかった例がある。読売新聞社が、2009年にわたしと新潮社を提訴した事件である。読売は、わたしが『週刊新潮』の中で推定した読売の「押し紙」率が事実に反するということなどを理由に提訴したのだが、争点になったのは、わたしの推定値の信憑性、推定の根拠のひとつにしたデータの信憑性、さらには「押し紙」の定義などだった。

その一方で、日本の新聞各社がみずから公言している公器としての新聞が、実配部数を偽り、広告主を欺き、さらに「押し紙」の廃棄により重大な環境破壊を引き起こしている問題は、検証されなかったのだ。

それどころかわたしが敗訴したことで、「押し紙」問題は報道もされなくなったのである。

◇だれがスラップの概念を「輸入」すべきだったのか? 

国際化の中でバイリンガルの弁護士が急増している。本来、米国の弁護士資格を有している彼らが、スラップの概念を「輸入」して、訴権の濫用に警鐘を鳴らすべきだったのだ。ところがその仕事を烏賀陽氏に委ねたことになる。

新自由主義=構造改革の下で行われた司法制度改革でも、スラップの問題はなにひとつ対策が取られなかった。米国から学ぶのであれば、肝心な点を学ぶべきだろう。彼らが見習ったのは、裁判員制度と名誉毀損裁判の賠償金を高額化することぐらいだった。

■烏賀陽弘道著『スラップ訴訟とは何か』(現代人文社)