報道・出版活動に大きな支障をきたしていた可能性も、読売・江崎法務室長による著作権裁判8周年②
読売新聞西部本社の江崎徹志法務室長が、2008年に起こした著作権裁判の検証の2回目である。この裁判では、江崎氏が書いた次の文章が著作物であると述べた催告書が争点になった。
前略 読売新聞西部本社法務室長の江崎徹志です。
2007年(平成19年)12月17日付け内容証明郵便の件で、訪店について回答いたします。当社販売局として、通常の訪店です。
催告書は、この文章が著作物であると述べているのだが、裁判所は催告書の内容自体を争点にしなかった。わたしの弁護団は書かれた内容を問題視したが、裁判所は争点にしなかった。
争点になったのは催告書の方である。次の文面である。
冠省 貴殿が主宰するサイト「新聞販売黒書」に2007年12月21日付けでアップされた「読売がYC広川の訪店を再開」と題する記事には、真村氏の代理人である江上武幸弁護士に対する私の回答書の本文が全文掲載されています。
しかし、上記の回答書は特定の個人に宛てたものであり、未公表の著作物ですので、これを公表する権利は、著作者である私が専有しています(著作権法18条1項)。 貴殿が、この回答書を上記サイトにアップしてその内容を公表したことは、私が上記回答書について有する公表権を侵害する行為であり、民事上も刑事上も違法な行為です。
そして、このような違法行為に対して、著作権者である私は、差止請求権を有しています(同法112条1項)ので、貴殿に対し、本書面到達日3日以内に上記記事から私の回答を削除するように催告します。
貴殿がこの催告に従わない場合は、相応の法的手段を採ることとなりますので、この旨を付言します。
この文章の著作物性が争点になったのだ。
◇「思うこと」と「客観的な実在」の混同
催告書が江崎氏の著作物であるとして、著作者人格権に基づいた救済を求める喜田村弁護士の主張は、たとえば4月14日付け準備書面の「2 本件『催告書』の著作物性」の章に書かれている。
一部を引用してみよう。
著作物は、「思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう」(著作権法2条1項1号)と定義されている。
このうち「思想又は感情〔の〕表現」との要件については、本件「催告書」の内容が被告による原告の「回答書」無断掲載が違法であることを論じ、救済を求めたものであるから、これを満たすことが明らかである。
こうした思考のどこに誤りがあるのだろうか。結論を先に言えば、「思うこと」と「客観的な実在」の混同である。よくありがちな間違いで、いわゆる観念論の思考と、唯物論の思考の違いである。
「思うこと」とそれを言葉で表現した文章が存在することはまったく別次元なのである。なにかを心の中で考えたり、感じたりしても、それを言葉として表現できるとは限らない。むしろ出来ない人の方が多いのだ。
この催告書には、客観的な「思想又は感情〔の〕表現」はどこにもない。
わたしはこの催告書に著作物性があるかないかを、何人かの専門家に質問してみた。その結果、多少の著作物性があると回答した人もいた。しかし、削除を求めるほどのオリジナリティはないという意見だった。
東京地裁は、著作物性はないという判断を示している。知財高裁は、この点についての判断を避けている。
ちなみに喜田村氏らの敗因は、催告書の名義人を「江崎」に偽って提訴に及び、著作者人格権による救済を求めたことだった。虚偽を前提に、準備書面を作成し、それを裁判所に提出し、みずからの主張を展開していたのである。それが裁判の中で発覚したのだ。
仮に催告書が著作物として認定されていたら、日本の出版業界は、報道・出版活動に大きな支障をきたしていただろう。その意味でこの裁判はさらなる再検証を要する。
【参考資料】