喜田村洋一弁護士らによる著作権裁判提起から10年、問題文書の名義を偽って黒薮を提訴、日弁連はおとがめなし①
10年前の2007年12月21日、わたしはメディア黒書(当時は新聞販売黒書)に、一通の催告書を掲載した。読売(西部本社)の江崎徹志法務室長から、わたしに宛てた催告書である。
この催告書は「江崎」の名前で作成されているが、後になって、実は喜田村洋一弁護士(自由人権協会代表理事)が作成していた高い可能性が、東京地裁と知財高裁で認定される。つまり名義を偽った文書だったのである。それがどのような意味を持つのかを説明する前に、まず、事件の全体像を紹介しておこう。
◇公募で新聞販売店主に
事件の発端は、2001年にまでさかのぼる。YC広川を経営していた真村久三氏と読売の係争が前段としてあった。
真村氏は、もともと自動車教習所の教官として働いてきたが、40歳で新聞販売店の経営を始めた。読売が販売店主を公募していることを知り、転職に踏み切ったのである。脱サラして自分で事業を展開してみたいというのが、真村氏のかねてからの希望だった。
幸いに真村氏は店主に採用され、研修を受けたあと、1990年11月からYC広川の経営に乗りだした。ところがそれから約10年後、読売新聞社との係争に巻き込まれる。
その引き金となったのは読売新聞社が打ち出した販売網再編の方針だった。真
村氏は、YC広川の営業区域の一部を隣接するYCへ譲渡する提案を持ちかけられた。しかし、YC広川の営業区域はもともと小さかったので、真村氏はこの提案を受け入れる気にはならなかった。それに自助努力で開業時よりも、読者を大幅に増やしていた事情もあった。
読売の提案を聞いたとき真村氏は、自分で開墾した畑を奪い取られるような危機を感じたのだ。
当然、真村氏は読売の提案を断った。これに対して読売は、真村氏との取引契約を終了する旨を通告した。その結果、裁判に発展したのだ。これが真村訴訟と呼ばれる有名な訴訟の発端だった。
しかし、係争が勃発したころは、単に福岡県の一地方の小さな係争に過ぎなかったのだ。真村氏の代理人・江上武幸弁護士も、読売の実態をあまり知らなかったし、後にこの判決が「押し紙」問題の有名な判例になるとは予想もしていなかった。
真村事件の経緯は膨大なので、ここでは省略するが、結論だけを言えば、裁判は真村氏の勝訴だった。喜田村弁護士が東京からやってきて加勢したが及ばなかった。判決は、2007年12月に最高裁で確定した。
◇真村訴訟
わたしが読売との係争に巻き込まれたのは、真村訴訟の判決が最高裁で確定する数日前だった。真村氏が福岡高裁で勝訴したころから、YC店主が次々と江上弁護士に「押し紙」(残紙)の相談を持ちかけるようになっていたのだが、こうした状況下で、読売も方針を転換したのか、それまで「死に店扱い」にしていたYC広川への訪店を再開することにした。そしてその旨を真村氏に連絡したのである。
しかし、読売に対して不信感を募らせていた真村氏は即答を控え、念のために江上弁護士に相談した。訪店再開が何を意味するのか確認したかったのだ。江上弁護士は、読売の真意を確認するための内容証明郵便を送付した。これに対して、読売の江崎法務室長は、次の書面を送付した。
前略 読売新聞西部本社法務室長の江崎徹志です。
2007年(平成19年)12月17日付け内容証明郵便の件で、訪店について回答いたします。当社販売局として、通常の訪店です。
◇回答書に続いて催告書を公表
わたしは、メディア黒書で係争の新展開を報じ、その裏付けとしてこの回答書を掲載した。何の悪意もなかった。しかし、江崎氏(当時は面識がなかった)はわたしにメールで次の催告書(PDF)を送付してきたのである。
冠省 貴殿が主宰するサイト「新聞販売黒書」に2007年12月21日付けでアップされた「読売がYC広川の訪店を再開」と題する記事には、真村氏の代理人である江上武幸弁護士に対する私の回答書の本文が全文掲載されています。
しかし、上記の回答書は特定の個人に宛てたものであり、未公表の著作物ですので、これを公表する権利は、著作者である私が専有しています(著作権法18条1項)。 貴殿が、この回答書を上記サイトにアップしてその内容を公表したことは、私が上記回答書について有する公表権を侵害する行為であり、民事上も刑事上も違法な行為です。
そして、このような違法行為に対して、著作権者である私は、差止請求権を有しています(同法112条1項)ので、貴殿に対し、本書面到達日3日以内に上記記事から私の回答を削除するように催告します。
貴殿がこの催告に従わない場合は、相応の法的手段を採ることとなりますので、この旨を付言します。
◇著作権裁判の開始
当然、わたしはメディア黒書から回答文書を削除することを断った。そして今度は、支離滅裂な内容の催告書を、怪文書としてメディア黒書に掲載したのである。こうして回答書も、その削除を求める催告書もネット上で閲覧が可能になったのだ。
読者は、この催告書を作成したのは、誰だと推測するだろうか?おそらく法律の素人と推測するだろう。ところがそれは喜田村弁護士だったのである。少なくとも東京地裁と知財高裁は、後にそういう判断を下すことになる。
さて、回答書が著作物だと強弁する催告書が、ネット上で公になったとすれば、催告書の名義が江崎法務室長になっていることもあり、読売の法務関係者の見識が嘲笑の的になりかねない。それが理由かどうかは不明だが、読売の江崎氏は催告書の削除を求めて、仮処分を申し立てた。喜田村弁護士の名前で、仮処分申立書を東京地裁へ提出したのである。
申立書の内容は、催告書の著作者は江崎氏なので、メディア黒書から催告書を削除するように求めたものだった。東京地裁は、江崎氏の仮処分申し立てを認めた。この命令に納得できなかったわたしは、本裁判を希望した。こうして2008年2月、東京地裁を舞台にして、わたしと江崎氏との著作権裁判が始まったのである。
◇催告書の作成者は喜田村弁護士だった
ところがこの裁判の途中で、前代未聞の疑惑が浮上する。催告書の著作権者は本当に江崎氏なのかという疑惑だった。「たとえ代筆にしろ問題はない」と考える読者も多いかも知れないが、法的に見ればそうではない。江崎氏らは、著作者人格権を根拠に裁判を起こしたからだ。
著作権法は著作者人格権と著作者財産権の2つの権利を保障している。このうち他人に譲渡できる権利は、著作者財産権である。これに対して、作品を公表する権利などを保障した著作者人格権の方は、著作者だけが持っている権利で、譲渡したり、相続したりすることはできない。一身専属権なのである。
既に述べたように江崎氏らは、催告書の作者が江崎氏であり、著作者人格権が江
崎氏にあるという理由で、催告書を削除するように求めて裁判を起こしたのである。従って、催告書が喜田村弁護士の代筆であれば、著作者が江崎氏だという虚偽の事実をでっちあげて、わたしを提訴したことになる。
2009年3月、東京地裁で判決が下った。わたしの勝訴だった。判決は地裁から最高裁までわたしの勝訴だった。裁判所は、催告書が著作物かどうかを判断する以前に、催告書を執筆したのは、江崎氏ではなく、喜田村弁護士である高い可能性を認定し、読売を敗訴させたのだ。知財高裁判決から、核心部分を引用しておこう。
上記の事実認定によれば、本件催告書には、読売新聞西部本社の法務室長の肩書きを付して原告の名前が表示されているものの、その実質的な作者(本件催告書が著作物と認められる場合は、著作者)は、原告とは認められず、原告代理人(又は同代理人事務所の者)である可能性が極めて強い。
つまり催告書の作成者ではない江崎氏は、もともと提訴する権利がないのに、
強引に裁判を起こしたのである。喜田村弁護士も、提訴権がないことを知っていたのに、敢えて代理人を引き受けて、提訴に及んだのである。これが重大な訴権の濫用でないはずがない。こんな事件は、過去に一件もない。
なお、裁判所が喜田村弁護士を代筆者と判断するに至った根拠については判決で述べられているが、たとえば過去にマイニュースジャパンへ送付した喜田村名義の催告書の書式や構成がまったく同じだったことなどが上げられる。やたらに他人に催告書を送付していると、こんな失敗をするのだ。
地裁での勝訴を受けて、わたしの弁護団は、声明を発表した。弁護団は、この事件を「司法制度を利用した言論弾圧」と位置づけている。
判決は次の通りである。
◇弁護士懲戒請求
判決が確定した後、わたしは喜田村弁護士に対して弁護士懲戒請求を申し立てた。懲戒請求の準備書面2を掲載しておこう。事件の性質をコンパクトにまとめている。ただし、申し立ては認められなかった。
読売は、著作権裁判を提起した後、1年半の間に、わたしに対してさらに2件の裁判を提起した。請求総額は、約8000万円となった。(続)