1. 公取委との密約疑惑、「押し紙」を容易にした1999年問題(取材メモ)

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2024年04月18日 (木曜日)

公取委との密約疑惑、「押し紙」を容易にした1999年問題(取材メモ)

1999年に公取委と新聞業界の間で密約が交わされた疑惑がある。この点に言及する前に、1999年について言及しておく。この年、政治上の暴挙が矢継ぎ早に起きている。

周辺事態法、盗聴法、国旗・国家法、改正住民基本台帳法・・・

「僕としては99年問題の重大性を最大限強調したい。年表でいえば、ここはいちばん太いゴチックにしておかないとまずい」(『私たちはどのような時代に生きているのか』辺見庸、角川書店)

1999年問題という表現を最初に使ったのは、辺見庸氏でる。しかし、辺見氏は新聞業界の密約疑惑については言及していない。この密約は、新聞業界を日本の権力構造に組み入れたという観点から特に重要だ。

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当時の内閣総理大臣は、小渕恵三氏である。小渕は総理の職にありながら、同時に自民党新聞販売懇話会の会長を兼任していた。小渕が密約にかかわった証拠はないが、新聞を権力構造に組み込み、政治的に利用する構図について認識していた可能性が高い。というもの当時、自民党新聞販売懇話会の議員らは、日本新聞販売協会の政治団体から、政治献金を受けていたからだ。

1999年、公正委は、「押し紙」を禁じた独禁法の新聞特殊指定を改正した。発端は、1997年の暮れに北國新聞の「押し紙」が発覚したことである。これを受けるかたちで、日本新聞協会と公取委は協議を重ねたのだ。

常識からすれば、「押し紙」問題を解決するための協議でなくてはおかしい。ところが99年の改正により、新聞社は合法的に「押し紙」ができるようになったのだ。詳細については、日を改めて記述するが、最近の「押し紙」裁判の判決の中で、裁判所が99年の改正新聞特殊指定の法的な解釈を示したことで、「押し紙」がより簡単にできるように「改正」されていたことが判明したのだ。

実態、「押し紙」率が4割にも、5割にもなるケースが、2000年ごろから急増した。この点に関するデータは、当時の「押し紙」裁判の記録を閲覧すれば簡単に判明する。99年の改正により、新聞社は自由に「押し紙」ができるうえに、「押し紙」裁判になっても敗訴の確率が極めて低くなったのだ。

1999年に新聞社は、公取委との協議により莫大な収益をあげる仕組みを構築したのだ。それと引き換えに、権力構造に組み込まれジャーナリズムも放棄したのである。

わたしは両者の協議の記録を情報公開請求で入手したが、「押し紙」に関する記述は、すべて黒塗りになっていた。この黒塗りの部分に、両者が何を話し合ったのかが隠されているのだ。

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明日4月19日には、福岡高裁で「押し紙」裁判の判決がある。販売店が敗訴することはまず間違いない。しかし、敗訴判決の中に1999年問題の輪郭が刻まれている可能性がある。

ちなみに99年改正が行われた時期の公正取引委員長は、根來 泰周 (ねごろ やすちか)という人物である。この人物は、公取委を退職した後、なぜか日本野球機構 コミッショナー に就任している。