最高裁が受け付ける事件は年間で4000件超、3小法廷で処理できるのか?
「最高裁判所における訴訟事件の状況」と題する最高裁による報告書によると、2010年度に受け付けた上告事件は2036件、上告受理事件は2485件である。
上告は、高裁の判決内容が日本国憲法の趣旨に合致していないと判断した時などに行うことができる。上告受理申立は、高裁の判決内容が既に存在する判例と乖離していると判断したときに行うことができる。
上告事件と上告受理申立の件数の総計は、2010年度の場合、4521件である。
周知のように最高裁には小法廷と大法廷があり、大半の事件は小法廷で処理される。小法廷は、第1から第3に分かれて、それぞれに4名から5名の判事が配属されている。
最高裁が1年間に受け付ける事件数が4000件を超え、小法廷の数はたったの3つ。読者はこれらの数字を前に、疑問を感じないだろうか。次の計算式で導きだされる数字は興味深い。
4000件÷3=1333件
単純に計算するとひとつの小法廷が年間に1000件を優に超える事件を処理することになる。それぞれの事件について膨大なファイルが存在し、しかも、裁判はひとの人生を左右するわけだから、「速読」するわけにもいかない。ひとつひとつの記述を慎重に検証していかなければならない。それが最高裁判事という公務員の役割である。
しかし、常識的に考えて、最高裁に上告(あるいは、上告受理)された事件が、綿密に検証されているとは思えない。第一に、物理的に不可能ではないか。大半の事件が、判事の「めくら印」で終結している可能性が高い。
◆明らかな憲法違反=第2次真村裁判の判決 ?
たとえば第2次真村裁判。この事件は、上告が棄却させたが、高裁判決は常識的な判断をすれば憲法21条(1.集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。)の趣旨に明らかに反している。下記の箇所である。
被控訴人(読売)の指摘する黒薮の記事等には、別件訴訟における控訴人(真村)の主張のほか、被控訴人(読売)が、販売店に押し紙を押し付け、それが大きな問題となっていることなどが記載されているが、押し紙の事実を認めるに足りる証拠はなく、控訴人(真村)及び黒薮において、押し紙の存在が事実であると信じるにつき正当な理由がると認めるに足りる証拠もない(かえって、控訴人は、平成13年には、現実には読者が存在しない26区という架空の配達区域を設けていたところ、これを被控訴人[読売]も了解していたと認めるに足りる証拠はない。)???
そうすると、控訴人において、被控訴人による違法不当な行為の存在を指摘することが容認される場合があるとしても、本件は、これに当たらないというべきである。??
そして、控訴人(真村)や控訴人代理人(江上弁護士ら)が、上記のような記事の執筆に利用されることを認識、容認しながら、黒薮の取材に応じ、情報や資料の提供を行ったことは明白であり、控訴人は、少なくとも、黒薮の上記記事等の掲載を幇助したというべきであるから、たとえ控訴人自身が、押し紙等の批判をウェブサイト等を通じて行ったものではないとしても、その情報や資料の提供自体が、被控訴人の名誉又は信用を害するというべきであり、本件販売店契約の更新拒絶における正当理由の一事情として考慮し得る 。
判決内容を予約すると、次のようになる。
?黒薮は、「押し紙」についての記事を執筆しているが、「押し紙の事実を認めるに足りる証拠はなく、控訴人(真村)及び黒薮において、押し紙の存在が事実であると信じるにつき正当な理由があると認めるに足りる証拠もない」。
?それゆえに真村さんや真村さんの弁護団が黒薮の取材に協力したことは、黒薮の名誉毀損的なジャーナリズム活動を「幇助」したことになる。
??それは読売の名誉と信用を害するものである。
??従って真村さんを解任する理由として正当である。
◆幅広い「押し紙」論と憲法21条
「押し紙」が存在するか否かを巡っては、昔から論争が交わされてきた。国会でも問題になった。「押し紙」に関する週刊誌の記事や書籍も多数ある。こうした言論状況は、周知の事実である。
と、すれば個々の人間がどのような見解に賛同しようと、それは個人の自由である。選択肢である。ところが福岡高裁の木村元昭裁判官は、真村さんがわたしの取材に応じ、「押し紙」の存在を肯定する立場で発言したことを、店主解任の理由として認めているのだ。
逆説的に言えば、真村さんが「押し紙」を否定する立場で取材に応じていれば、店主解任の理由として認められない、ということになる。
つまり木村裁判官は、個人がどのような思想、あるいは見解を表明するかで、ある地位を解任しても違法行為にはあたらないと判断しているのだ。が、憲法にはそんなことは書かれていない。言論の自由を認めているのである。まして、幅広い意見がある「押し紙」問題においては、なおさら憲法の精神を尊重しなければならない。
改憲を先取りした判決とは、このことである。