1. 密室で争点整理、素人の主観で死刑判決も、裁判員を断れば罰金も、裁判員制度の恐怖、

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2013年04月02日 (火曜日)

密室で争点整理、素人の主観で死刑判決も、裁判員を断れば罰金も、裁判員制度の恐怖、

司法の劣化の象徴が裁判員制度の導入である。この制度は、冤罪を生みかねない恐ろしい制度である。

2007年に内閣府が発表した「裁判員制度に関する特別世論調査」によると、「あまり参加したくないが,義務であるなら参加せざるをえない」と回答した人が44・5%、「義務であっても参加したくない」が33・6%だった。つまり裁判員制度を歓迎しない人が約8割にも達してるのである。と、なれば導入を目指している政府や最高裁は、裁判員制度をPRしなければならない。こうした状況の中で新聞が世論誘導の装置と化したのである。

新聞報道とは裏腹に裁判員制度を危険な制度と認識している法曹人も多い。 理由は複数あるが、共通しているのは、たとえば公判前整理手続きのカラクリである。公判前整理手続というのは、審理に入る前段階で裁判官、検察官、弁護人が非公開で争点を整理するプロセスをいう。

通常の裁判では、審理を進める中で、ひとつひつの証拠を吟味して争点を絞り込んでいくが、裁判員裁判では、審理を開始する前に密室で争点を決てしまうのだ。当然、裁判員はどのような経緯で争点が決められたのかを知りようがない。しかも、公判審理に入ると、決定された争点に沿った検証作業になる。

このようなルールを設けたのは、裁判を迅速に進めることが目的である。しかし、人を裁くプロセスでは、慎重にも慎重を重ねて事実を検証しなければならない。主観や直観に頼って、迅速に犯罪の白黒を付けることで検証作業が形骸化してしまうと、冤罪の原因になる。

日本には死刑制度があるので、冤罪の発生を防ぐ措置は特に重要だが、裁判員裁判にそれを期待することはできない。

また、裁判員の名前が公表されず、記録にも残らないことも重要な反対理由のひとつである。裁判員が死刑判決を下し、後日、それが冤罪と判明しても、だれも裁判員の責任を問うことができない。

さらに裁判員になることが強制され、断ると10万円以下の罰金が科せられるようになっている。いわば裁判員に選ばれると、人を裁く行為を強制されるのである。しかも素人の主観で人を裁くのだ。

裁判員制度は、住民を強制的に裁判に参加させ、密室での争点整理に基づいて、猛スピードで容疑者を裁いていく制度であるというのが裁判員制度導入に反対する人々の共通した認識である。

◇新自由主義=構造改革

なぜ、このような制度の導入が図られたのだろうか?  結論を先に言えば、裁判員制度は新自由主義=規制緩和の導入に伴う社会の荒廃がもたらす犯罪の多発、それに伴い予想される住民運動の台頭に対処するための制度である。民主的な運営とは程遠い司法による社会秩序維持をもくろんだものである。

バブル経済が崩壊した後、日本は深刻な不況に突入した。これを打破するために財界が切望したのが、米国のレーガン、英国のサッチャー、それにチリのピノチエットなどが採用した新自由主義のモデルであった。福祉を切り捨てたり、公的機関を民営化することなどで、財政支出を抑えて大企業の税負担を抑制する一方で、様々な規制を緩和して市場にし烈な競争を持ち込む政策である。当然、大企業が生き残り、中小企業は淘汰される。

1996年の橋本内閣の時代に新自由主義の政策が導入されたが、皮肉なことにそれは自民党の支持基盤である中小企業の経営者の反発をかい、1998年の選挙で自民党は大敗する。

そのために橋本内閣の次に登場した小渕内閣、森内閣は新自由主義の導入に足踏みした。これが財界の焦りを誘った。そこへ彗星の如く登場して、ドラスチックに新自由主義を推し進めたのが、小泉内閣だった。

その結果、日本社会における格差が顕著になった。モラルが低下して、いじめや凶悪犯罪などが深刻な社会問題として浮上してきた。

こうした問題を解決する手段として、小泉の後継者・安部首相が打ち出したのが「美しい国プロジェクト」である。愛国心を育てることで社会秩序を維持しようという目論みである。が、それですべてが解決するわけではない。刑事事件に対しては、迅速かつ事務的に処分できる体制が求められる。そこから登場してきたのが裁判員制度である。

事実、構造改革の一環である司法制度改革の中で裁判員制度も浮上してきたのである。そして2001年、当時の小泉首相がみずから司法制度改革推進本部の長に主任し、内閣主導で司法改革を進めてきたのである。