1. 裁判員制度の危険な側面 主観と偏見で人を裁く恐るべき制度

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2013年03月29日 (金曜日)

裁判員制度の危険な側面 主観と偏見で人を裁く恐るべき制度

2009年5月に始まった裁判員制度は、どのような位置づけで解釈すべきなのだろうか。

司法関連の社会問題としては、スラップや高額訴訟がある。また、読売の渡邊恒雄氏のように、「法廷なら我が方の最も得意とするところだ。俺は法廷闘争で負けたことがない」と公言して、反対言論に対して徹底して裁判で戦う新聞社主筆の出現にも注視する必要がある。

最高裁の元判事が大手弁護士事務所へ再就職(広義の天下り)する例も後を絶たない。裁判員制度のPRをめぐる電通との契約で、「不適正行為」を行った最高裁の経理部長が、最高裁判事に「出世」している例もある。

弁護士会サイドの問題点としては、有名弁護士に対する懲戒請求に対しては、2年も3年も処分決定を遅らせ続けているケースがある。第2東京弁護士会である。

これらの事柄は社会問題として認識しやすい。しかし、日本の司法界には、もっと重大な社会問題がある。日弁連も導入に奔走してきた裁判員制度である。 マスコミは一致団結して裁判員制度をPRしてきたが、この制度を詳しく検証してみると、危険極まりない前近代的な制度であることが分かる。

小田中聡樹著『裁判員制度を批判する』(花伝社)は、この制度の問題点を鋭く指摘している。

【問題点1】公判審理の方向はほとんど公判前に決まると言っても過言ではないほどだ。ところが、この公判前整理手続きは裁判官、検察官、弁護人の間で行われる秘密、非公開の手続きで、裁判員はもちろん一般国民の目にも触れない。整理結果だけが公判廷に出され、その枠組みに従って公判審理が行われる。枠組みからはみ出す弁護活動や被告の主張は規制されてしまう。

公判前整理手続の危険性を理解するためには、週刊誌記事ができるプロセスとその弊害を考察すると分かりやすい。週刊誌の記事は、最初にタイトルと筋書を決めて、それにそって取材を進めることが多い。つまり最初に結論を決めて、それに向かって「証拠」を肉付けする。(もちろん、週刊誌の全記事がそうだとはいわないが、そのような傾向があることは否定できない)

その結果、客観的な事実との間にギャップが生じる。おもしろおかしいストーリーになることもある。

記事の構成やタイトルは取材する中で固めていくのが原則であるはずだが、実際には最初にタイトルと構想を決める。こうして制作の時間を節約するのだ。

公判前整理手続は不十分な証拠をもとに、一般常識で争点を決める。しかも、このプロセスは密室で行われるのだ。

このような制度を導入した背景に、裁判の迅速化を図ろうという狙いがあるらしい。確かに最初に筋書を決めてしまえば、審理は早く進む。が、不十分な証拠をもとに組み立てた筋書が間違っていれば、冤罪が発生することになる。

また、裁判を5日程度で行うわけだから、弁護士の負担は大変なものになる。

結果として刑事裁判が形骸化して、安易な判決が下されるようになる可能性が高い。

【問題点2】裁判員の氏名は開示されず秘密とされ、検察官・弁護士が「正当な理由がなく」洩らすと1年以下の懲役や罰金に処せられるとされていますが、これも不思議なしくみです。(略)判決書の中に裁判員の名前を書かずに、3人ないしは1人の裁判官の名前を書く。ですから例えば死刑の判決を言い渡すときにも、その判断に裁判官のほかに裁判員としてだれが関与したかは一切公にされません。いわば匿名裁判、「覆面」裁判です。

法律の素人が、一般市民の感覚(厳密に言えば個々の主観)で死刑の判決を下しても、裁判員の名前が公表されない仕組みになっているのだ。社会や人間に対する関心が希薄な裁判員、あるいは偏屈者の裁判員に死刑判決を下されたら、容疑者はたまったものではない。しかも、誰が死刑判決を下したのかわからない。

【問題点3】裁判員はご承知のように有権者の中からくじで決められます。くじで選ばれますと関与は義務的なものとなり、70歳以上とか介護・養育の必要がある場合など、一定の理由がある場合を除いて辞退できず、呼び出されて裁判所に出頭しないと、10万円以下の過料を科せられます。ですから国民にとって裁判員になることは強制的な義務なのであります。

司法制度に関心を持つことは大切だが、それを強制すれば憲法にも違反する。 国民を強制的に参加させる理由は、統治主体意識(権力意識)を持たせることである。「私は統治する人、私は裁判する人、そういう権力的な意識を国民に持たせ、国民を権力層に巻き込んていくのが狙い」である。

【問題点4】弁護の統制・管理の制度が飛躍的に強化・拡大されています。開示証拠の目的外使用の処罰がその例です。今迄のように、開示された証拠を救援関係者や学者やマスコミ・ジャーナリストなどに渡して検討を依頼するというわけにはいかなくなっています。うっかりすると救援関係者や学者もその共犯として処罰されかねません。

新聞記者は裁判資料を利用してルポルタージュを書くことができなくなる。 ジャーナリズム活動の領域を極端に狭める。それにもかかわらず新聞社は一貫して裁判員制度のPRに協力してきた。裁判員制度の公共広告で得る収益に目が眩んだ結果だった。

具体的に朝日、読売、毎日、日経がどのような社説を掲載してきたのか、以下検証してみよう。その驚くべき内容にあきれるばかりだ。

◇中央紙の社説?

たとえば2004年5月21日に成立した裁判員制度を設置する法律についての社説を朝日、読売、毎日、日経について調べたところ、設置に反対する社説はひとつもなかった。

朝日は、「社会を変える可能性を秘めた制度である。うまく出発できるかどうかは、これからの準備にかかっている」と書き、毎日は、「実施まで5年、法の不備や不具合をおくせず改善しながら、果敢に改革を断行したい」と書き、日経は、「裁判員制度は、『お上の権威』をバックとする裁判から『国民の参加』を支えとする裁判への転換をもたらすものだ」と書いている。

読売は、裁判員に課せられる秘密義務などの問題を指摘したうえで、「最高裁は『5年以内』の施行を前にまず、解決すべき問題を精査しなければならない。政府は、その過程で必要があれば制度の根幹を見直す、思い切った改正も考えるべきだ」とか、「裁判員の裁判での負担を軽減するには極めて迅速な集中審理が行われなければならない。そのための刑事訴訟法の改正も不十分なままだ」などと述べて、よりドラスチックに裁判員制度を導入するように主張しているのだ。

◇中央紙の社説?

さらに実際に裁判員制度が施行された2009年5月にも、裁判員制度を支持する社説を掲載している。朝日は、「裁判への参加を、自由で民主的な社会を支える自然な行為と考える世代を作り出すためにも、裁判員制度を失敗させるわけにはいかない」と書き、毎日は、「肝心なのは、お上意識の呪縛から脱却することだ。役所に任せきりにせず、正邪や是非善悪などを自ら判断する習慣を身につけて、?丸投げ民主主義?とやゆされる社会のありようを一新しなければなるまい」と書いている。

日経は「制度の効用は、大きく分けて、二つの方向で期待できる」と前置きしたうえで、「一つは刑事司法を良くする効果」で、もうひとつは「『司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する』(裁判員法1条)効果であり、また国民が司法権の一端を担い社会秩序と人権を守る刑事司法の任務を分担すれば主権者としての自覚が高まる」と述べている。

読売の社説は、「国民の参加意識も低いままである。『参加したくない』という人は79%に達している。『自信がない』『人を裁くことに抵抗を感じる』といった理由が多い」と述べるなど、裁判員制度の問題点も指摘しているが、「改善点が浮かび上がれば、制度を柔軟に見直していくことが肝要だ」として、他社に比べるとトーンダウンしながらも制度の導入そのものはやはり是認している。