恫喝裁判の対策、係争を容赦なくジャーナリズムの土俵に乗せること
「訴えてやる」という言葉を頻繁に聞くようになったのは、ここ数年である。
日常会話の中にも、ツイッターの舞台でも、「訴えてやる」とか、「法的措置を取る」といった恫喝めいた言葉が飛び交っている。
そもそもこうした現象が生まれた背景に何があるのだろうか。筆者は小泉純一郎氏が、首相時代にみずから本部長に就任して着手した司法制度改革が原因だと考えている。
2001年6月に発表された司法制度改革審議会意見書には、名誉毀損賠償額の高額化の必要性を述べた記述がある。郵便事業と同様に、裁判をも市場原理にのせようという意図があったのではないか。
損害賠償の額の認定については、全体的に見れば低額に過ぎるとの批判があることから、必要な制度上の検討を行うとともに、過去のいわゆる相場にとらわれることなく、引き続き事案に即した認定の在り方が望まれる(なお、この点に関連し、新民事訴訟法において、損害額を立証することが極めて困難であるときには、裁判所の裁量により相当な損害額を認定することができるとして、当事者の立証負担の軽減を図ったところである。)。
ところで、米国など一部の国においては、特に悪性の強い行為をした加害者に対しては、将来における同様の行為を抑止する趣旨で、被害者の損害の補てんを超える賠償金の支払を命ずることができるとする懲罰的損害賠償制度を認めている。しかしながら、懲罰的損害賠償制度については、民事責任と刑事責任を峻別する我が国の法体系と適合しない等の指摘もあることから、将来の課題として引き続き検討すべきである。
このような流れの中で、公明党の漆原良夫議員が国会で次のような発言をするに至った。
私は過日の衆議院予算委員会で、メディアによる人権侵害・名誉毀損に対し、アメリカ並みの高額な損害賠償額を認めるよう森山法務大臣へ求めました。 善良な市民が事実無根の報道で著しい人権侵害を受けているにもかかわらず、商業的な一部マスメディアは謝罪すらしていません。 これには、民事裁判の損害賠償額が低い上、刑事裁判でも名誉毀損で実刑を受けた例は極めて少なく、抑止力として機能していない現状が一因としてあります。 私は、懲罰的損害賠償制度を導入しなくとも現行法制度のままで、アメリカ並みの高額な損害賠償は可能であると指摘しました。これに対し、法務大臣は、「現行制度でも高額化可能」との認識を示しました。(全文=ここをクリック)
◇日米の法理の違い
司法制度改革の背景には、ひとつには国際化の中のハーモニーゼーションがある。日本の司法制度を国際基準にあわせる動きである。さもなければ多国籍企業を日本に誘致できないという考えがベースになっている。それゆえに裁判員制度を設けるなど、欧米の制度になるべく近づけようとしたのである。
法科大学院を設置して、国際業務ができる弁護士を「大量生産」したのも、ハーモニーゼーションの一環にほかならない。
しかし、故意に改革を避けた部分もある。それが名誉毀損裁判の法理である。
日本の名誉毀損裁判においては、訴因となった表現が真実であることを被告が立証しなければならない。たとえば、「Aさんは窃盗犯だ」という表現が訴因であれば、被告が、「Aさんが窃盗犯であること」を立証する責任を負わされる。それができなければ、賠償を命じられる。
これに対して米国では、逆の法理を採用している。原告側が、Aさんが窃盗犯であることを立証しなければならない。さらに米国では、勝訴の見込みがない裁判を起こしたと認定された場合、嫌がらせ裁判とみなされ、逆に賠償を命じる制度がある。反スラップ法である。そのために訴訟の国といっても、名誉毀損裁判は多発していない。
小泉司法制度改革は、一番肝心な部分の改革は避けたのである。
法理は変えずに、賠償額の高額化だけを図ったのだ。新自由主義=構造改革の中で、裁判をも市場原理に乗せてしまったのだ。その意味で小泉氏の責任は重い。
名誉毀損裁判の法理を従来どおりに放置した理由は、おそらくそれを国家的なレベルの言論統制に利用できると読んだからである。たとえばヘイトスピーチにおける言動を訴因とする名誉毀損裁判の逆利用である。判例を次々に増やし、それを口実に言論を規制するための法律や条令づくりを進めるのだ。そのためか、原告の勝率は100%に近いのではないか。
もちろんヘイトスピーチそのものは問題があるが、判例を利用して、言論を統制していく、政治力学が働いていることは間違いない。
名誉毀損裁判を多発したり、それをサポートしている原告と弁護士は、自分たちの活動が、社会全体にどのような負の影響を及ぼしているのか気づいていない。正義と思ってやっていることが、長い目に見れば、社会から言論の自由を奪い、それに気づいたときは、北朝鮮型の社会になっている悲劇も起こりかねないのである。
◇刑事告訴の多発
最近は、こうした流れに連動して、名誉毀損を理由とした刑事告訴も増えている。かつて名誉毀損事件といえば、大半が民事事件だった。ところが最近は、刑事事件が珍しくない。これは言葉を換えれば、警察や検察が、「表現」の問題に介入してきた証である。ここにも政治の力学が働いているのだ。
唯一の対策は、係争をジャーナリズムの土俵に乗せることである。法理そのものが異常なのだから、司法の土壌の他に、係争をジャーナリズムの土壌に乗せて対抗することが不可欠になる。裁判で明らかになった資料を、次々とインターネットで公開して、公衆の判断を仰ぐ。それが現実的な対抗策だ。