1. キューバ革命の終わりと、航海を続けるグランマ号

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2017年01月03日 (火曜日)

キューバ革命の終わりと、航海を続けるグランマ号

1月1日、キューバは58回目の革命記念日をむかえた。今年はフィデル・カストロなき革命記念日だ。また、この日は、中米エルサルバドルの内戦が終結した日でもある。

前者については、当然、わたしには記憶がないが、後者については鮮明に覚えている。当時、わたしはメキシコシティーに在住していた。露店で元旦の朝刊『ホルナダ』を買ったところ、第一面に大きな見出しが、「エルサルバドル内戦終わる」と出ていた。FMLN(ファラブンド・マルティ民族解放戦線)の兵士たちが抱き合って喜んでいる写真が掲載されていた。1992年のことである。

◇エルサルバドル和平から25年

その後、FMLNは合法政党になり、2009年の大統領選挙でマウリシオ・フネスが勝利して政権の座についた。現政権はFMLNの2期目である。

内戦中、当時のエルサルバドル政府は、内戦の原因がキューバにあるとしてカストロ政権を厳しく批判していた。米軍も同じ口実の下で、指揮官をエルサルバドルに送り込み、政府軍の軍事訓練の指揮を執っていた。

これに対しフィデルがどこかのメディアで、内戦の原因は空腹であり、軍による暴力であり、文盲の放置であり、人命軽視であり、・・・と反論していた。実際、エルサルバドル政府軍による人権侵害は凄まじかった。

たとえば1980年3月24日、首都サンサルバドルのロメロ大司教がミサの最中に政府軍の兵士に狙撃された。さらに軍部は、ロメロ大司教の告別式に集まってきた民衆に向かって無差別に銃を乱射した。犠牲者は40名とされている。政府軍が標的にしていたのは、左派だけではなかった。

この年の10月に、それまでばらばらだった5つのゲリラ組織が統一してFMLNを結成した。そして首都サンサルバドルへ向かって大攻勢をかけたのである。首都陥落は時間の問題との見方が有力だった。ところが米軍の介入が始まったのだ。こうしたエルサルバドルは泥沼の内戦に突入した。

◇民族自決主義者たち

米国はニカラグア革命についても、その背景にキューバがいるとして、1979年の革命後、FSLN(サンディニスタ民族解放戦線)による新政権に対し、武力攻撃に乗りだした。ニカラグアを経済封鎖し、隣国ホンジュラスを米軍基地の国に変え、コントラと呼ばれる傭兵部隊を組織して、内戦を仕掛けたのである。

1980年代から90年にかけて展開された中米紛争の背景にキューバの影響があったことは間違いない。が、より決定的だったのは、精神的な影響だった。解放戦線の戦士らが理想としていたのがフィデル・カストロやチェ・ゲバラといったキューバ革命の戦士だった。

もちろんサンディノやファラブンド・マルティといった中米の民族自決主義者の影響も大きいが、キューバの支援があったことは否定できない。アフリカのアンゴラについても、キューバは支援していた。

◇グランマ号の遠征

フィデル・カストロについて、わたしが思いをめぐらせたのは、1985年、マイアミから空路、新生ニカラグアへ向かう機の中だった。カリブ海の上空を縦断しながら、眼下に広がる海を見ていると、エメラルド色の海面に自分が吸い込まれてしまうような恐怖に襲われた。太陽の輝き。白い波。光の乱反射。空とも海とも見分けがつかない不思議な空間が広がっていた。

国民が混乱し、苦しんでいるのを見る者は、平和と名誉のために見えざる扉を探し求めよ。そうでない者は名誉ある人間ではない。(ホセ・マルティ)

この海を1956年に、フィデルら84人の戦士が12人乗りのクルーザー「グランマ号」で渡ったのである。それはだれが見ても、人命よりも理想を優先した無謀な冒険に違いなかった。が、同時にそれは青春にしか与えられない特権でもあった。

グランマ号の遠征から60年。2016年、キューバは米国との国交を回復した。それを見届けるようにフィデルがその年の11月にこの世を去った。キューバ革命の時代は終わったのである。

しかし、グランマ号に象徴される精神は不滅に違いない。
それはおそらくジャーナリズムの世界でも応用できるだろう。