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2018年04月10日 (火曜日)

中米グアテマラの「ヒトラー」、リオス・モントが死す、先住民族に対するジェノサイドで2013年には禁固80年の実刑

中米グアテマラの(元)独裁者、リオス・モントが、4月1日に亡くなった。91歳だった。リオス・モントの名前は、日本ではほとんど知られていないが、中央アメリカでは、「グアテマラのヒトラー」として人々の記憶に刻まれている。1982年にクーデターで大統領に就任すると、先住民族に対するジェノサイド(皆殺し作戦)を繰り返した人物である。

1996年に内戦が終わった後、グアテマラでは急速に民主化が進み、戦争犯罪の検証が始まった。リオス・モントは起訴され、2013年に禁固80年の実刑判決を受けた。しかし、憲法裁判所が再審の決定を下し、再審が続いていた。

憲法裁判所が再審を決めたのは、内戦の和平に至るプロセスで、旧軍人に対する恩赦が和平の条件になっていたためである。リオス・モントだけが法廷で裁かれることに、再考を促したのである。

リオス・モントに禁固80年の刑が下されたニュースは、米国でも衝撃を持って受け止められた。独立系放送局「Democracy Now!」は、判決の場面を実況中継している。それは日本でも紹介された。感動的な場面である。

グアテマラの元独裁者リオス・モントに歴史的判決下る

◇グアテマラの春

意外に知られていないが、グアテマラは戦後のラテンアメリカで最も先進的な国のひとつだった。1944にリベラル右派の政権が誕生して、次々と改革を進めた。しかし、農地改革の中で、米国の多国籍企業であるUFC(ユナイティド・フルーツ・カンパニー)の土地に手を付けたとたんに、軍事クーデターが起きて政権が崩壊する。1954年のことである。この改革の時代は、「グアテマラの春」と呼ばれている。

この軍事クーデターは、海外派兵と多国籍企業の関係を明確に物語っている。

チェ・ゲバラが旅の途中でグアテマラに立ち寄り、「グアテマラの春」に衝撃を受けたといわれている。ゲバラは、軍事クーデターの後、メキシコに逃れ、そこでフィデル・カストロに出逢い、グランマ号の遠征に加わる。

軍事クーデターの後、グアテマラの人々は黙り込んでしまったわけではなかった。1960年頃から、北部の山岳地帯でゲリラ活動が始まった。第2次世界大戦後のラテンアメリカで最初のレジスタンスが始まったのである。それが頂点に達したのは、1982年2月、それまでばらばらだったゲリラ組織が統一して、URNG(グアテマラ民族革命連合)を結成した時である。

この時期は、1979年のニカラグア革命の影響が近隣諸国にも及び、1980年には、エルサルバドルでFMLN(ファラブンド・マルティ・民族解放戦線)が結成された。URNGの結成で、「中米紛争」が広域性を帯びてきたのだ。

リオス・モントがクーデターを起こして登場したのは、こうした時期だった。ジェノサイドの手口は至って単純で、ターゲットにした先住民族の村に、いきなり軍を送り込み、住民を一箇所に集合させ、人気がなくなった民家を家宅捜索する。武器が発見された家の住人を、そのまま連行して即座に処刑する。こんな手口があちこちで繰り返されたのである。

ちなみにリオス・モントの前任者、ルーカス・ガルシア将軍の政権下でも、軍部による人権侵害は激しく、たとえばグアテマラの最高学府であるサンカルロス大学の教授だけでも、97人が殺されている。

1980年代のグアテマラは、政府に疑問を抱く者は、キリスト教徒も含めて容赦なく弾丸を撃ち込まれたのだ。この時代を象徴する人物がリオス・モントだった。

◇冒頭の動画

既に述べたように、戦後、グアテマラは奇跡的なスピードで民主主義を回復させた。そして裁判所がリオス・モントに禁固80年の刑を言い渡した。しかも、その場面をテレビが中継した。ある意味では、日本の民主主義のレベルをすでに超えているのである。

冒頭の動画は、米国の映像ジャーナリストらが記録したグアテマラ内戦の記録、When the Mountains Tremble の一場面である。URNG(グアテマラ民族革命連合)の兵士が、住民をオルグする光景が克明に記録されている。グアテマラ内戦の貴重な記録だ。

 

2016年01月14日 (木曜日)

中米グアテマラで進む戦争犯罪の検証、ジェノサイド作戦を指揮した元軍人18人を逮捕

軍事政権の時代に住民に対するジェノサイド(皆殺し作戦)を指示するなど著しく人権を侵害した当時の軍事政権の元大統領に対して、禁固80年の刑罰を課すなど、急激な社会変革を遂げている中米グアテマラ。そこで、また新しい動きがあった。キューバのプレンサ・ラティナ(Prensa Latina)紙などの報道によると、グアテマラ警察は、恩赦により刑罰を逃れていた18人の元軍人を逮捕した。

戦争犯罪を検証した結果である。

同国の検事総長の報告によると、逮捕された軍人らは、1981年から88年までの間に、グアテマラ北部のアルタベラパス県のコバンで、武器を持たない住民に対して、誘拐、拷問、レープ、などありとあらゆる人権侵害を行ったという。

発掘された558体の遺体には、90人の子供と3人の老人が含まれていた。遺体には拷問の証拠といえる猿ぐつわの跡、胸部の銃弾跡、首筋に刻まれたナタの跡、それに鎖の跡などが残っていた。

◇ラテンアメリカで最も古い内戦

グアテマラは1960年から1996年までの36年間、内戦状態にあった。ジャーナリズムの視線を釘づけにるすような激しい銃撃戦が都市部で交わされていたわけではなかったが、北部の山岳地帯では銃声が止むことがなかったのである。ニューヨークに本部を置く人権擁護団体・Human Rights Watch's の報告によると、内戦の死者は約20万人。その大半は、政府軍による戦闘とテロによるものである。

グアテマラは、第2次世界大戦後、ラテンアメリカで最初に米国の傀儡(かいらい)政権に対するゲリラ活動が始まった国である。その引き金となったのは、1954年の米国CIAによる軍事クーデターだった。

内戦が勃発するまでの10年、グアテマラはリベラル右派の政権であった。ところが当時の政府が農地改革のプロセスの中で、米国の多国籍企業、UFC(ユナイティド・フルーツ・カンパニー)の土地に手を付けたとたんに、UFCとCIAの謀略による軍事クーデターが起こり、その後、極めて強権的な軍事政権が敷かれたのである。将軍たちが国を牛耳るようになったのである。

これに対抗して山間部で解放戦線が組織されて行った。内戦が大きな転機を迎えるのは、1980年代である。79年にニカラグアのサンディニスタ(FSLN、サンディニスタ民族解放戦線)が、ソモサ王朝を倒し新政権を打ち立てると、新生ニカラグアの風に押されるように、エルサルバドルの5つのゲリラ組織が統一してFMLN(ファラブンド・マルティ民族解放戦線)を結成し、首都へ向けて大攻勢をかけた。

あせった米国のレーガン政権は、ホンジュラスを米軍基地の国に変え、そこから地理的な利点を利用して、ニカラグア、エルサルバドル、それにグアテマラに対する本格的な軍事的介入へ乗り出したのである。

こうした状況の中で、グアテマラは「殺戮の荒野」と化し、ゲリラに親和的なグアテマラ先住民族に対するジェノサイド作戦が大規模に断行されたのだ。

とはいえ1980年代の初頭にグアテマラの軍事政権が標的にしてのは、先住民だけではない。先住民は言うまでもなく、カソリック教会のリーダー、大学教授、ジャーナリストなども標的になっている。

国際政治の表舞台に出て、ジャーナリズムの光が当たっていたニカラグアとエルサルバドルとは異なり、グアテマラ内戦は、ほとんど報じられなかった。しかし、米国の映像ジャーナリストたちが、素晴らしい記録を残している。(冒頭と文末のYouTube参照)

◇戦争犯罪の検証

1996年に和平が成立した。その後、長い歳月を費やして戦争犯罪の検証が進んだ。2014年には、1980年代の初頭に大統領職にあったグアテマラ軍の元将軍リオス・モントに対して禁固80年の判決を下した。

しかし、和平の条件として軍人に対する恩赦があるために、憲法裁判所が再審の決定を下した。裁判は現在も続いている。

その後、2015年の1月、グアテマラの裁判所は、当時の警察トップに対して、禁固90年の判決を下した。これは、1982年のスペイン大使館焼き討ち事件に連座したものである。先住民族と学生37人が、軍による暴力を世界にむけてアピールするために、スペイン大使館に駆け込んだところ、軍が大使館のドアと窓を釘付けにして放火し、館内にいた人々を皆殺しにしたのである。生存者は、大使会員を含めて2人。事件後、スペインはグアテマラとの国交を断絶した。この事件の責任を問われたのだ。

今回の18人の元軍人の逮捕も、こうした民主化の流れの中で可能になったものである。

■グアテマラ内戦の記録・When the Mountains Tremble

※冒頭の動画:グアテマラ民族革命連合(URNG)の支配地域

 

2015年08月28日 (金曜日)

現職大統領に対して「不逮捕特権」を奪う決定、三権分立の理想を示した中米グアテマラの最高裁判所

【サマリー】汚職事件に関与したとされる中米グアテマラの現職大統領に対して、同国の最高裁は、「不逮捕特権」を取り上げる決定を下した。グアテマラでは、世界に先駆けて三権分立のあるべき理想を実践している。

これに先立つ2013年には、軍政時代の元将軍であり大統領であったリオス・モントに対して禁固80年を言い渡した。また、今年の1月には1982年にスペイン大使館焼き討ち事件を指示した元警察のトップに対して禁固90年の判決を下している。

三権分立が正しく機能した時、社会正義はどう実現されるのか。グアテマラは世界に先駆けて、その模範を示している。

時事通信が26日付けで、「初の不逮捕特権剥奪か=グアテマラ大統領―汚職追及、政界頂点に迫る」と題する記事を掲載している。最高裁判所の決定により、オットー・ペレス=モリナ大統領が、大統領の不逮捕特権を奪われることになったというのである。原因は税関汚職事件である。

現職の大統領に対して裁判所がこうした判断を下すのは、世界的にみても極めてめずらしい。しかも、前世紀までは内戦などの影響で、民主主義の後進国と評価されてきた国で、このような変化が起きているのである。

グアテマラに激変の兆候が見えたのは、2013年5月、1980年代の初頭に大統領職にあったリオス・モント将軍に対して、「ジェノサイドと人道に対する罪」で禁固80年の判決を下した時である。

その後、2015年の1月になって、今度は1982年のスペイン大使館焼き討ち事件を命じた当時の警察トップに対して、禁固90年の判決を下した。これは、同国の先住民族と学生37人が、軍による暴力を世界にむけてアピールするために、スペイン大使館に駆け込んだところ、軍が大使館のドアと窓を釘付けにして放火し、館内にいた人々を皆殺しにした事件である。生存者は、大使会員を含めて2人。事件後、スペインはグアテマラとの国交を断絶した。

そして今回、2015年8月、現職大統領に対して最高裁判所が弾劾の決定を下したのである。実は、このオットー・ペレス=モリナ大統領は、前出のリオス・モント裁判の中で、1982年当時、直接、先住民の虐殺事件に関与したことが指摘されていた。

グアテマラでこのところ起こっている現象は、三権分立が正常に機能したときに、正義が実現されるという真理の証である。とはいえ、本音と建て前に支配された社会では、それはそう簡単なことではない。

日本の裁判所の実態をみればそれが理解できるだろう。新聞社をはじめ権力を持つ者に圧倒的に有利な判決を下してきたのが日本の裁判所である。が、地球の裏側では、三権分立の模範的な手本が示さるようになっているのだ。

◇だれがテロリストだったのか?

しかし、グアテマラはもともと民主主義の思想に敏感な国だった。同国の歴史には、1944年から1954年までのあいだ「グアテマラの春」と呼ばれた時代があった。この時期、2代の大統領がそれぞれ米国大統領ルーズベルトが提唱したニューデール政策(政府による市場への介入を基調とするリベラル右派の経済政策)を導入して民主化を進めた。左派の政権ではないが、ラテンアメリカの中でもいち早く民主的な制度の構築を進めていたのである。

ところが、このリベラル右派の政権は、1954に米国の多国籍企業UFC(ユナイテッド・フルーツ・コンパニー)とCIAの謀略により崩壊する。当時の政府が農地改革のプロセスで、UFCの土地に手をつけたとたんに、クーデターが起こったのだ。

その後、軍事政権が敷かれた。これに対抗して山岳地帯では、ゲリラ活動が始まり、1996年にグアテマラ民族革命連合(URNG)と間で和平が実現するまで内戦状態にあった。が、終戦後は、急激なスピードで民主化が進んでいる。

ちなみに日本の公安調査庁は、URNGをテロ集団と位置づけているが、取材不足もはなはだしい。取材をしていないのではないかと思う。参考までに、公安調査庁のウエブサイトにあるURNGの説明を紹介しておこう。間違いだらけである。

■公安調査庁のウエブサイト

内戦中、だれがグアテマラを「殺戮の荒野」に陥れ、だれが生命を奪われたのかを現地へ行って再取材すべきだろう。情報は客観的でなければいけない。

2015年08月18日 (火曜日)

グアテマラにみる民主主義の成熟、かつては殺戮の荒野、今は将軍を裁く法廷をビデオカメラで中継

【サマリー】2015年4月から6月期の国内総生産(GDP)の実質成長率は前期と比べて1・6%減となり、安倍政権が進める新自由主義の失敗が明らかになった。新自由主義は、地球規模で世界を支配しているが、ラテンアメリカについては例外である。すでに新自由主義からの脱皮に向かい、公平な社会へ確実に近づいている。

 2013年にグアテマラの裁判所は、80年代に大統領職にあり、先住民に対する虐殺を繰り返した元グアテマラ軍の将軍リオス・モントに対して禁固80年の判決を下した。さらに2015年の1月には、やはり80年代にスペイン大使館の焼き討ち事件などを起こした元警察のトップ、ペドロ・ガルシア・アルマンドに対して禁固90年の判決を下した。

 これらの裁判の様子は、法廷内に持ち込まれたビデオカメラで世界へ配信された。日本では考えられないことである。同時代史の中で、ラテンアメリカはより先進的な社会へ近づいている。

2015年4月から6月期の国内総生産(GDP)の実質成長率は前期と比べて1・6%減となった。原因として消費の落ち込みや輸出の減少などが指摘されている。

大企業は別として、大半のひとが所属する中小企業は、業績を悪化させているうえに、消費税がアップしているわけだから、消費が落ち込むことは最初から分かっていた。

また、アベノミックスで円安に誘導しても、日本企業が生産の拠点を海外へ移し続けているわけだから、国内生産をベースとした輸出が延びるはずがない。それどころか海外の日本企業からの「逆輸入」が増えて、ますます貿易赤字は大きくなる。これも最初から分かり切ったことだ。

安倍政権が押し進めている新自由主義=構造改革失敗がいよいよ顕著になってきたといえる。

◇グアテマラ30年の驚くべき激変

ところで新自由主義の道を進んでいるのは、なにも日本に限ったことではない。米国や欧州をはじめ新自由主義が世界的な流行となっている事実は否定できない。脳がない政治家ほど、欧米の真似をしたがる。

そしてその矛盾が、ギリシャ、スペイン、さらに日本などでは、隠し切れなくなってきた。

それは単に経済的な行き詰まりだけではなく、「先進国」が利権を確保するために、軍事力によって「ならず者国家」を抑え込み、その反動として暴力が世界中を支配する状況をも誘発している。そこからさらに極右が台頭している。

が、こうした世界の主流から、すでに方向転換して別の方向へ歩み始めている地域もある。もちろん歴史の進歩は一直線ではなく、先進と後退の繰り返しはつきものであるが、わたしが知る範囲では、相対的にラテンアメリカが同時代史の中で極めて先進的な方向へ進んでいる。

たとえば中米のグアテマラである。
わたしがこの国を最初に訪れたのは、1985年である。その時の状況を、わたしは拙著『バイクに乗ったコロンブス』(現代企画室)に、次のように記録している。

1985年に初めて中米を訪れたとき、ぼくはニカラグアからグアテマラへ入国しようとして、空港の税関で解放戦線のシンパの疑いをかけられ、逮捕されかけたことがある。

ニカラグアの革命政府の母体、ダンディニスタ民族解放戦線が発行している機関誌『バリカダ』の切り抜きを集めたスクラップ・ブックを、係員が荷物の中にみつけ、1ページずつ丹念に調べながら、入国の理由やニカラグアでの行動をしつこく詰問して来たのだ。

結局、この時は、「賄賂」を支払って逃げたのだが、この件に象徴されるように凄まじい人権侵害が進行していた。たとえば80年代初頭だけで、グアテマラの最高学府・サンカルロス大学の教授97人が軍部に殺害されている。彼らは決して左翼とは限らない。政府に少しても批判的と見なされると、容赦なく抹殺の対象になっていたのだ。

グアテマラの人権侵害は、隣国のエルサルバドルとニカラグアの内戦の激化の影で、あまり取りざたされることはなかったが、軍事政権の下、水面下ではとんでもないことが起こっていたのである。エルサルバドルとニカラグアよりも人権侵害の実態が遥かに劣悪だったとする見方もある。

◇法廷で裁かれた元政府高官ら

意外に知られていないが、第二次世界大戦の後、ラテンアメリカで最初のゲリラ活動が起こったのがグアテマラだった。1954年に当時の政府が農地改革に着手したとたんに、米国の多国籍企業UFC(ユナイティド・フルーツ・カンパニー)とCIAが手を組んで軍事クーデターを起こし、軍政を敷いたのである。

これに対抗するかたちでゲリラ活動が始まったのである。結局、内戦は延々と続き、和平が成立したのは1996年である。

しかし、1996年の和平が成立した後の社会進歩は目を見張るものがあった。それが典型的な形で現れたのは、2013年5月の事件である。1980年代の初頭に大統領職にあった元グアテマラ軍の将軍、リオス・モントが「人道に対する犯罪とジェノサイド」で禁固80年の判決を受けたのである。

リオス・モントは軍隊を使って、グアテマラ北部の山岳地帯で繰り返した先住民に対する集団虐殺の責任を問われたのである。判決の様子は、グアテマラのメディアを通して実況生中継された。

これ自体が革命的な変化である。日本の裁判所でも実現していないことだ。
次に示すのは、米国の独立系メディアDemocracy NOWの画像である。

■リオス・モントに禁固80年

判決を受けたリオス・モントは、法廷から逃げ出そうとするが、女性裁判長の指示で再拘束された。(現在は、リオス・モントの再審が行われているらしい。)

こうした民主化の流れが、一時的なものではなかったことは、2015年の1月に再び立証された。やはり1980年代の初頭に大きな犯罪を犯した元警察のトップ、ペドロ・ガルシア・アルマンドに対して、グアテマラの裁判所は禁固90年の判決を下したのである。

■ペドロ・ガルシア・アルマンドに禁固90年

罪となったのは、1980年に起こしたスペイン大使館の焼き討ち事件だった。この事件は、グアテマラ政府による人権侵害の実態を海外へ知らせるために、農民と学生がスペイン大使館を占拠したものである。この活動に加わった人物のひとりに、後にノーベル平和賞を受けることになるリゴベルタ・メンチューの父親も含まれていた。

グアテマラ政府が取った対抗策は、大使館の窓と戸を釘づけにして、火を放つという残忍なものだった。生存者は2名。大使館の職員と活動家である。このうち活動家は、搬送された病院から誘拐され、殺害された。スペインはグアテマラとの国交を断絶した。

この事件の詳細は、米国の映像ジャーナリストらが制作したWhen the Mountins Tambleという有名なドキュメンタリーの中でリゴベルタ・メンチューが証言している。

■When the Mountins Tamble

◇次世代の社会モデル

元大統領を含む政府の高官に対して、自国でこれだけ厳密な判決が下されるほど、グアテマラは激変しているのである。それはラテンアメリカ全体が変化してきた証とも言える。もちろんキューバと米国の国交が回復した背景に、こうした時代の変化があることを忘れてはいけいない。

新自由主義からの脱皮を確実に進めて公平な社会の構築を目指すラテンアメリカは、同時代史の中では、最も注目に値する地域である。これから新自由主義が破たんしていくにつれて、次世代のモデルとして注目を集めることは間違いない。それしか生存の道は残されていないからである。