1. 元日にNHKが放送した「神々の道をたどる」、放送を通じて国民を非科学的な世界観で洗脳

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2021年01月03日 (日曜日)

元日にNHKが放送した「神々の道をたどる」、放送を通じて国民を非科学的な世界観で洗脳

1月1日の午前7時20分から9時までの時間帯に、NHKは「超体感!ニッポン創世 神々の道をたどる~出雲・日向 神秘と絶景の参詣道~」という番組を放送した。この番組は、「観念論」(注:後述)による国民の洗脳という問題を孕んでいる。見過ごせない危険な内容だった。

番組の内容は、次に引用するNHKの番組案内に明記されている通りである。

古くから語り継がれてきた神々の物語。その重要な舞台とされる地が、島根県の出雲地方、そして宮崎・日向。神話に彩られた崇高でミステリアスな二つの地を巡る。貴重な神事、代々続くしきたりを守りながら自然と共に生きる人々の暮らし、そして、お正月らしい絶品グルメなどなど…絶景映像満載、日本の神様たちに出会える、神秘と発見に満ちた豪華絢爛(けんらん)な初詣紀行。

番組を通じて制作者は、日本が神の国であること、神秘に満ちた国であることを伝えたかったようだ。少なくとも、わたしはそんなふうに感じた。

同じ元旦の夜に放送された「NHKスペシャル『三千万年の旅 列島誕生ジオ・ジャパン』」にも、神社が出てきた。この番組は、日本列島の成り立ちを科学の視点から解明したものであるが、なぜか紀伊半島の地形形成に関するナレーションの中に神社が登場する。地形の形成にもやはり神秘的な要素があると言いたいのだろう。

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これらの番組に限らず毎年元旦には、神社や寺院を扱った番組が数多く放映される。さらにそこから派生して、富士山を筆頭とする日本の自然などが取り上げられる。皇室に関する話題も定番となっている。ニュースでも、菅首相の伊勢神宮参拝がコロナウィールの感染拡大のために中止になったといった話題が報じられる。

このような実態を前に、わたしはテレビが世論誘導や洗脳の役割を果たしていることを痛感した。わたしは宗教や神秘の世界を頭から否定しているわけではないが、それを公共の場に持ち込むのは、問題があると考えている。特に政治など、科学が最優先されるべき分野に持ち込んではいけない。非科学的な世界観を広げる危険性があるからだ。

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「超体感!ニッポン創世 神々の道をたどる~出雲・日向 神秘と絶景の参詣道~」をはじめとする一連の「神秘」をテーマとする番組の何が問題なのだろうか。この点を説明するためには、あらかじめ「観念論」と「唯物論」の違いを明確にしなければならない。

とはいえ、日本では「観念論」と「唯物論」の違いが議論されることはない。義務教育の中でも両者の違いを教えない。と、いうよりも教員自身が知らないので教えようがない。これに対して中国では、義務教育の中で両者の違いを教えている。

「観念論」と「唯物論」の違いが論じられない状況を漫画家の故・青木雄二氏が嘆いていたが、それも遠い昔のことである。現在では、書店に行っても、「観念論」と「唯物論」の違いを説明する手ほどきの本すら見当たらない。

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「観念論」というのは、ごく簡単に言えば、われわれの世界は精神によって支配されているとする世界観である。その典型が神の存在の肯定である。人間や大地を作ったのは神であり、心の正体も神の存在と直結していると考える。従って神をうやまい、心がけをよくすることが、物事を好転させる絶対的な条件だということになる。努力こそが成功の鍵という単純な考えになる。それは一面では真理だが、むしろ間違っている点の方が多い。

たとえば観念論では、賃金が安いのは、普段から心がけに問題があるからだと考える。そこで心がけをよくして、目上の人から気に入られることが、成功への道だという論理になる。

スポーツで活躍したければ、心がけと努力を重視する必要があるという論理になる。その結果、MLBのイチローが模範的な人物になる。実際、日本新聞協会は昨年の新聞大会でイチローに講演を依頼した。

「観念論」はある意味では極めて単純で分かりやすいが、「唯物論」の立場からすれば、逆立ちした世界観にほかならない。

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これに対して、「唯物論」は世界を動かしているのは、精神ではなく、広義の物質的なもの(客観的な社会制度など)だという考え方である。「存在が意識を決定する」という思考方法だ。

 ※多くの人が、商品を浪費することを良しとする考えが「唯物論」だと思っているが、これは完全な誤解である。

たとえば「階級」という概念について考えてみると、「観念論」の立場から言えば、生まれながらにして人間が持つ支配欲や名誉欲が階級を生み出したと考える。だから支配欲や名誉欲を捨てれば、ユートピアが実現することになる。

これに対して「唯物論」は階級発生の起源を心ではなく、客観的な社会状態の中に位置づける。食料の備蓄ができない太古の時代には階級の概念はなかった。ところが農業や狩猟の技術が発達して、食料を蓄えることが可能になった結果、貧富の差が生まれ、それに伴って階級という概念が生まれたとする考えである。

原始時代に人々が洞窟で生活をしている絵を見て、われわれは「寒そうだ」と考えるだろうが、太古には、高度な衣類や暖房が存在しなかったので、人間の意識もそれに準じていた。つまりわれわれが想像するほど古代人は生活に苦痛を感じていなかった。

教育学における知力とは何かという問題にしても、「観念論」と「唯物論」ではまったく捉え方が異なる。「観念論」の立場からいえば、知力というものは、生まれながらのもので、基本的には大きく変化しないという考え方である。それゆえにかつては、知能指数などを過信していたのである。

これに対して、「唯物論」は、知力というものは、外界とのかかわりの中で発達するという考えである。知力の発達の根源となっているものは、生き延びることを目的とした思考の発動である。それが進化の誘因にほかならない。

政治改革というテーマについても、「観念論」と「唯物論」では、まったく捉え方が異なる。「観念論」の立場の人々からみれば、政治家の心が清くなり、正義感に満ち、真剣になれば、明日からでも政治は変わるのである。

資本主義を廃止しなくても、政治家が私欲を捨て、国民の側も心がけをよくすれば、日本はすばらしい国になるのだ。それゆえに多くの人々が、小沢一郎や山本太郎に期待しているのである。が、彼らはこのような期待に応えることができない。その原因は、社会悪の客観的な原因が資本主義という制度にあるという捉え方をしていないからだ。その結果、「政治改革」を叫んでも、何も変わらないとうことになる。

これに対して「唯物論」の立場の人は、心がけ以前の問題として、資本主義の体制を改めることが根本的な解決方法ということになる。

新聞ジャーナリズムが機能しない原因にしても、「観念論」の立場から言えば、記者の心がけが悪いからだということになる。記者魂がないことが原因という解釈になる。そこからみんなが東京新聞の望月記者を目指せという論理になる。が、これは「観念論」なのである。

これに対して「唯物論」は、新聞ジャーナリズムが機能しない原因を精神的なものではく、客観的なものに求める。たとえば、新聞に対する軽減税率の適用という既得権の存在である。

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改めて言うまでもなく、以上、述べたことはわたしの持論ではなく、「観念論」と「唯物論」を考える場合のガイドラインである。常識である。日本では、公の場で両者の違いを教えることはないので、わたしが記したに過ぎない。

「観念論」と「唯物論」の違いについて考えなくなった結果、NHKの「超体感!ニッポン創世 神々の道をたどる~出雲・日向 神秘と絶景の参詣道~」のような、非科学的な番組が公共放送で制作される事態になっている。

「観念論」はいたるところに根を下ろしている。国家権力の思想なのである。

NHKが意図的に神仏に関する情報を流しているのか、それとももともとNHK職員が観念論の影響下にあって、このような番組を制作したのかは不明だが、いずれにしても無知の最たるものだ。

放送を通じて国民全体を「観念論」で洗脳していることは疑いない。