1. 受験体制と深刻な社会病理、裁判官の人事異動と不可解な判決 第2次真村裁判と木村元昭裁判官

裁判・読売に関連する記事

2013年07月12日 (金曜日)

受験体制と深刻な社会病理、裁判官の人事異動と不可解な判決 第2次真村裁判と木村元昭裁判官

「木を見て森を見ない」とは、物事の本質を見極める代わりに、枝葉末節の部分を取り上げて、それを全体像とみなす論法である。いわゆる揚げ足取りである。真村裁判では、さまざまな面で、「木を見て森を見ない」現象が観察できる。

たとえば真村事件の本質は何かという問題である。本サイトで繰り返し説明してきたように、事件の発端は2001年に読売が真村さんに対して、営業・配達区の一部を返上するように求めたことである。

新聞は再販商品であるから、各販売店の営業・配達区は厳密に区割りされている。そのために店主になるに際しては、前任者にお金を支払って営業・配達区を買い取る。真村さんも、販売店開業の準備資金を含めると1000万円を優に超える額を投資している。

従って読売の申し入れを断る権利がある。真村さんはそれを行使したに過ぎない。しかも、真村さんが申し入れを受け入れた場合、返上された営業・配達区は、地元の有力店主の弟が経営するYCへ譲渡される予定になっていたという。

理不尽な要求を断ったところ、「改廃」カードを突き付けられ、やむなく裁判所へ訴えたのである。これが真村事件の本質である。

ところが裁判の結果は、1次裁判では完全勝訴したが、2次裁判で敗訴したあげく、約3600万円の間接強制金返済を読売から迫られ、自宅兼事務所を仮差押えされる状態になっている。これだけでも異常なことである。

真村さんに謝罪して、慰謝料を支払うのは、読売の側ではなだろうか?

◇欠落した想像力、エリートの悲劇

だれが現在のような泥沼に真村さんを追い込んだのだろうか。結論を先に言えば、読売新聞社と読売弁護団、それに裁判所である。日本を代表するエリートたちである。受験競争を勝ち抜いて、社会の頂点に立った人々である。

かつてわたしは空手の師範から次のような話を聞いたことがある。

「最も危険なのは、勉強ばかりして子どものころに喧嘩をしたことがない人が、路上などで逆上して、他人に殴り掛かる時です。まったく手加減を知りませんから、偶然に体重が乗ったパンチが顔面の急所に的中すると、死に至ることがあります。本当にあぶないですよ」

受験競争の弊害は、昔から指摘されてきた。漠然とではあるが、エリートは想像力に乏しく「冷酷」だといった指摘がなされてきた。しかし、具体的にその冷酷さがどのようなかたちで表に現れるのかは、曖昧にされてきた。実生活の中で、その実態を観察するジャーナリズムの役割は果たされていない。

真村事件を通じて、わたしは社会病理を見た。真村事件の異常さを短絡的にエリートにありがちな性質に結び付けるつもりは毛頭ない。例外も多い。知力を社会正義に結び付けている人々もいる。が、何人もの弁護士が手を変え品を変え、一介の店主に過ぎない真村さんを執拗に攻撃し、全財産を剥ぎ取ろうとしている様には、深刻な社会病理を感じる。想像力が欠落していないだろうか?今後、教育問題の脈絡の中で再検証する必要がある。

このような実態を裁判所が是認しているのも異常だ。