関東地区新聞労連役員会における意見発表について -モラル崩壊の元凶「押し紙」-
福岡・佐賀押し紙弁護団・ 江 上 武 幸 (2024年「令和6年」12月19日)
去る11月29日(金)、ワークピア横浜で開催された関東地区新聞労連の役員会で、「新聞の過去・いま・将来」をテーマに意見発表する機会を得ましたのでご報告申し上げます。
私は、6月に第8回横浜トリエンナーレを見学しましたが、メイン会場に足を踏み入れた途端、ミサイルが空気を切り裂く音を口真似で再現した映像作品に出合い、ウクライナやパレスチナで悲惨な戦争が続いている現実に引き戻されました。
2歳の孫を連れていましたので、大量破壊兵器を用いた無差別虐殺が行われていることが信じがたい反面、世界平和への強い政治的メッセージをもったアート作品を展示している横浜市民の皆さんの懐の深さに敬意を覚えました。
横浜は、日本で一番古い新聞が発行された街であること、熊本出身の宮崎滔天と中国の革命家孫文が出会った街であること、それに日本新聞協会が運営する日本新聞博物館があることを知りました。
京浜東北線の関内駅を下車し、日本新聞博物館に立ち寄ったところ、先生方に引率された小・中学生が社会科見学にきていました。国民の知る権利・表現の自由を保障するうえで新聞の果たしている役割の大きさが一目でわかるように全国の新聞が展示されていました。
なお、私の見過ごしかもしれませんが「押し紙問題」を扱ったコーナーはありませんでした。
日本新聞協会が、押し紙問題を意図的に社会の目から隠そうとしているとしたら、日本新聞協会に将来の戦争を阻止することを期待することはできないでしょう。
書籍コーナーで、『AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争』2020年7月・光文社新書)という本を見つけました。カラー化された少年特攻隊の写真を見ながら、なんともやるせない気持ちになりました。その中に、東京大空襲の焼野原を視察する昭和天皇を撮影した写真がありました。天皇は、その年の3月にヒトラーが愛人と服毒自殺をしたこと、4月にムソリーニがパルチザンによって公開処刑されたことは当然知っているはずです。
古来の武士道や軍人精神からすると、敗戦を覚悟した将たるものは、我が身を犠牲にして部下や国民の助命を嘆願するものです。しかし、天皇と天皇制官僚および軍人らは、「国体の護持」(すなわち戦争責任の免除)を要求して無条件降伏を遅らせ、原爆で広島14万人・長崎7万人という多くの日本人の命を犠牲にしました。そのように多くの日本人の命を犠牲にしてまで自己の延命を図った戦争責任者らの卑劣さは同じ日本人として許しがたいものがあります。三島由紀夫が自衛隊に決起を呼びかけた時の心境も同じものがあったと評する向きがあります。
横浜のすきとおった秋空のもと、山下公園の芝生を元気に走りまわる子供達や青春真っ盛りの学生たちを見ながら、せっかく世界最高の憲法を与えられた日本人が真の独立をはかることなくアメリカの支配のもとにおかれ、「日本人の日本人による日本人のための政治」を行うことが出来なかったことの無念さを感じました。
アメリカは天皇制官僚、軍人、右翼活動家などのA級戦犯を釈放し、アメリカ支配に全面的に協力させました。
ドイツ・イタリア・フランスなどのヨーロッパ諸国は、国民が自らの手で戦争犯罪者の責任を追及しました。それに比べると日本人は自らの手で天皇制官僚・軍人らの戦争責任者を処罰することも、連合国の東京裁判で、戦争責任者を追及する機会ものがすことになりました。
冷戦の開始という国際環境の変化に助けられてA級戦犯の裁判を逃れた官僚らは、さっそく新憲法の学校教材「新しい日本国憲法の話」(副読本)を廃版にして、平和・人権・民主主義の憲法三原則の教育をサバボタージュしました。その結果、日本の子供達は道徳教育と称して戦前の価値観を教えられ、憲法3原則の価値を学ぶことも知ることも十分ないまま成長せざるを得ませんでした。
親たちは子供が飢えないように一所懸命に働きながら戦後の荒廃した国土を立て直し、再び世界の経済大国の地位をとり戻しました。しかし、戦前からの古い支配者層は、日本の若者が世界に通用する人材になるための高等教育の無償化や返還不要の奨学金制度を設けることもせずに放置し、その結果、国民の過半数が中流意識をもった国から、中国・台湾・韓国・ベトナムより経済力が見劣りする貧困率の高い国に転落させてしまいました。非正規雇用・未婚少子化・高齢化世帯・ホームレス・子供食堂・災害ボランティア・生活保護受給者の急増といった寒々とした言葉があふれる日本になってしまいました。
会場の横浜ワークピアは、6月に宿泊したクラシックホテルのすぐ裏手にあり、氷川丸の向こうにはベイブリッジが見え、左手には横浜グランドマークタワーなどの高層ビル群がそびえていました。有楽町駅のガード下でみたホームレスの段ボール小屋は不思議と視界にはいってはきませんでした。
会場につき、これまでメールでしか連絡をとったことがなかった関東地区労連の役員の方々とお会いすることができました。皆さん、若い方ばかりでした。話の最後に九州出身の方がおられないか尋ねたところ、比較的年配の方が手をあげられたので少しほっとしました。
戦前、日本には1203の新聞社があったそうです。天皇制官僚と軍部は太平洋戦争に突入するために、これを55社に統合し、国論を戦争一色に染めあげることに成功しました。当時、「一県一紙」の新聞統合がなされたのを逆手にとって、全国の新聞社が一斉に戦争反対の論陣をはれば、国民世論を戦争反対に誘導することが可能だったとの見解も示されております。私もそのような気がします。
会場の新聞労連の役員の方々の若々しい顔ぶれを見ながら、近い将来、アメリカが自衛隊を米軍の補完部隊として前線に動員しようとしても、これらの若いジャーナリストの人達が戦争反対に立ち上がってくれれば、きっと戦争は阻止できるのではないかとの思いがしてきました。
私は、1951年(昭和26年)に福岡県南部の農村に生まれ、1970年(昭和45年)に地元の高校を卒業し、静岡大学から司法研修所29期に入所し、その後、郷里にもどって弁護士を開業し、今年で73歳を迎えました。すでに鬼籍にはいった高校や大学、司法研修所時代の友人・知人がいます。私もあと何年弁護士を続けられるか分かりませんが、人生とは、はかなく短いものです。
私は、戦後民主主義教育を受けて育った世代の人間です。戦後民主主義教育とは何ぞやということですが、子供たちが二度と悲惨な戦争のない平和な時代を送れるように親たちが平和の尊さを教える教育を先生方に期待したといえば大きくはずれることはなさそうです。小学校で鑑賞した木下恵介監督の「二十四の瞳」の映画がつよく印象に残っています。中学や高校時代は、戦車隊長とか騎兵隊長などとあだ名で呼んでいた軍人あがりの先生方がおられました。戦地での話をされることはありませんでしたが、二度と戦争はしてはならないとの強い思いは伝わってきました。初めて女性の手にふれたのも、高校の体育祭のフォークダンスの時が初めてでした。
「ぽつんと一軒家」という人気番組があります。人里離れた山奥に1軒だけ取り残された農家があり、両親の生活を支えながら弟や姉達を町に送りだし家を守ってきた一人暮らしの方の現在の生活が描かれています。兼業農家だった私の父親は食糧に困ることはなかったようですが、町部から着物や宝飾類を手に食料を求めて農家を訪ねてきた人たちの話をしながら、どんな時代になっても田んぼと畑だけは手放さないように常々いってました。ぽつんと一軒家に住む方も、町に出た弟姉妹のために一人残って先祖伝来の農地を守ってこられた方ではないかと勝手に想像したりします。
田舎には、若い兵隊さんの遺影を座敷に飾っている農家がたくさんあります。天皇・皇后両陛下の写真を並べて飾ってある家もありましたが、庶民にとっては天皇も皇后も他と何ら変わりのない普通の人間扱いされていました。
国境なき記者団によれば、日本の報道の自由ランキングは世界で70位です。閉鎖的な記者クラブ制度や政府や企業が日常的に経営に目をひからせ圧力をかけているのがその原因とされ、先進国では最低のランキングです。
私は、日本の報道の自由度が低いのは、新聞業界の最大のタブーである「押し紙」問題を政府に握られ、自ら解決しようともしていないからだと考えています。
日本の新聞社の経営は専売店による新聞の戸別配達によって成り立っています。販売店が購読者と契約を結び毎日読者に新聞を配達し、月単位で購読料を集金して新聞社に上納する日本独特のシステムです。販売店は本社の支援を受けながら、無代紙やサービス紙、高価な景品の提供など、なりふり構わないセールス活動を行って読者拡大をはかるような立場におかれています。本社の資金力の大小によって購読契約の成否が左右される構造です。
新聞販売の神様と評された読売新聞の務台光雄氏は、「読売と名がつけば白紙でも販売してみせる。」と豪語していたそうです。「記事の中身はどうでもいい。セールスの力で他社と競争する。」といった商売根性丸出しの営業政策です。
その跡を引き継いだ渡邉恒雄氏は、読売新聞1000万部の目標を設定し、目標を達成した後は1000万部体制を死守することを経営の史上命題としました。渡邊氏は「生涯一記者」を名乗ったようですが、1000万部を背景に政治の中枢部にまで影響力を行使し、憲法改正草案を提起したり、中曽根首相ら自民党の総理・総裁との緊密な関係を誇るなどおよそジャーナリストとは言えない政治的野心丸出しの人生を生きてきた人でした。
大王製紙元会長のユーチューバの井川意高氏は、渡邊恒雄・氏家斉一郎・堤清二3氏との東大同窓生の共産党細胞時代の交友関係を始めとして、その後の生きざまについて興味深い話を披歴してくれています。渡邉氏が、徹頭徹尾政治権力の中枢に登りつめることを学生時代から生きがいとしていた人物だったことがわかります。
私どもは、押し紙裁判で渡邊氏と長嶋茂雄氏を証人申請したことがあります。証人採用されることは期待しておらず、証人申請された事実が耳にはいれば、ひょっとしたら渡邉氏は押し紙をなくすかも知れないというかすかな期待がありました。
当時すでに、読売新聞発行部数1000万部のうち30~50%程度は購読者のいない押し紙でした。国会でも押し紙問題は再三に取り上げられており、安倍晋三氏も押し紙を知っていることは国会で認めていましたので、渡邊氏が自分は「裸の王様」であり押し紙問題は知らされていないという言い訳をすることは出来ない状況にありました。
今回、横浜に出かける前に、関東地区の読売新聞販売店の有志の方々が、公正取引委員会に対し、押し紙が50%ほどに及んでおり販売店経営が圧迫されているとして、読売に対する指導を求めた書面が私の事務所にもFAX送信されてきました。押し紙裁判やネット情報で読売新聞1000万部が張子の虎に過ぎないことが渡邉氏の存命中に社会に広く知れわたりましたので、押し紙裁判を提訴した意味は十分ありました。裁判で損害賠償は認められなくとも、読売の1000万部が虚偽であることを世間に知らしめることが出来たため、原告の方達も一矢報いることができたと前向きに受け止めていただいています。
今年は、読売新聞創刊150年ということです。1000万部が虚構の数字であることはもはや世間に明らかとなっていますので、渡邉氏が150周年記念行事でこの部数についてどのように説明されるのか興味のあるところです(注:先ほど渡邉恒雄氏が98歳の人生を閉じられたとのニュースが流れてきました)。
今回、「新聞の過去・いま・将来」というテーマで意見発表の機会を与えていただいたことから、初めて新聞の歴史を振り返ってみました。江戸時代のかわら版に始まる新聞が一貫して権力の監視下におかれ世論工作の役割を果たすよう強制されてきたこと。日本国憲法で表現の自由、取材・報道の自由が保障されるようになったにもかかわらず、GHQの占領下で新聞検閲が続き、占領終了後も、社有地の国有地払い下げやテレビの放送免許の付与、第三種郵便物、消費税の減税など、むしろ権力に積極的に接近し一体化することで新聞社の利益を優先する経営を行ってきたように思います。
戦後民主主義教育を受けた世代の人間として、マスコミに対する無条件の信頼というものを持っていましたが、それが幻想にすぎなかったことに気づき、目からうろこがとれたような気分を味わっています。
最近、失われた30年がいつ頃始まったのかについて考えることが多くなりました。さだまさしの「風にたつライオン」の「やはり僕たちの国は残念だけれど何か大切なところで道を間違えたようですね。」という歌詞と、吉田拓郎の「落陽」の「あんたこそが正直ものさ この国ときたら賭けるものなどないさ だからこうして漂うだけ」という歌詞が胸にひびきます。高校・大学のころに、全国に次々と革新自治体が誕生し、近い将来、革新政府が成立するかもしれないという時代を迎えたことがあります。
しかし、その後、革新自治体つぶしが始まり、革新政府の誕生の夢はあわと消えました。当時、新聞・テレビも革新自治体つぶしの世論工作の先頭に立ったようです。
時間の関係で失われた30年問題についての私の思いを話すことはできませんでしたが、わずかの時間でしたが最後の方で参加者の方々に対し私の期待するところを少し話すことが出来ました。
中選挙区制の廃止と小選挙区制の導入、国鉄分割民営化・郵政民営化による労働組合・野党の分断によって、自民党一党支配の政治体制の永続化が図られるようになりました。日本人の頭で考え出し、日本人だけで実行できるものではありません。アメリカ支配が揺るぐことを恐れて、日米合同委員会が意を通じて計画し実行したものと考えざるを得ません。
現在、最も危惧されるのは、アメリカの戦争に自衛隊が巻き込まれ日本が戦場になる危険性です。先の大戦で日本人約300万人、アジア人約2000万人といわれる犠牲者を出しました。日本の戦後の平和主義の原点はそこにあります。
日本人は他国の戦争にまきこまれることは絶対に避けなければなりません。どうしても戦争をしたい人がいれば、その人とその人の家族が戦場に出向くべきです。戦争反対の国民を巻き込んではいけません。
近い将来、戦争の危機が迫った場合、それを阻止する力は、新聞やテレビ等の既存のメディアに頼るほかないと考えます。政党や労働組合が分断され野党統一の展望は開けていませんので、一県一紙の地方紙とそこで働く方達によって構成されているわが国唯一というべき産業別労働組合である新聞労連の果たす役割は決定的に大きなものがあると考えます。
中央・地方を問わず政治家の質の劣化は目にあまります。国政レベルの世襲議員や、革新自治体の首長と現在の首長を比べてみただけで、そのことは一目瞭然です。地方紙が一社一名ずつ若い政治家を育てれば、「日本人の日本人による日本人の為の政治」を担う多数の政治家を輩出することが可能ではないでしょうか。そのことを最後に訴えて話を終えることが出来たことを、とても感謝しています。
私は、横浜から帰ってすぐにインフルエンザに罹患し、39度の高熱に悩まされ、最近、ようやく回復の兆しが見えたところです。文章が不正確で情緒的になっていることをあらかじめお断りします。
この問題については、渡邊氏が亡くなられたこともあり、引き続き私見を投稿していきたいと考えていますので、今後ともよろしくお願いします。