1. 「押し紙」70年⑥ 1980年代の国会における新聞販売問題の追及、読売「北田資料」も暴露

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2015年08月13日 (木曜日)

「押し紙」70年⑥ 1980年代の国会における新聞販売問題の追及、読売「北田資料」も暴露

サマリー】1980年代に入ると国会質問の場で共産・公明・社会の3党が超党派で、景品を使った違法な新聞拡販や「押し紙」問題などを追及した。質問回数は、1980年3月5日から1985年4月13日までの期間、総計で16回である。

 当然、「押し紙」問題も取り上げられた。共産党の瀬崎博義議員は、読売新聞・鶴舞直配所の内部資料を暴露した「北田資料」を根拠に、「押し紙」(広義の残紙)を取り上げた。

1980年代に入ると新聞販売の諸問題は、国会で反響を呼んだ。これについてはメディア黒書でも繰り返し記述してきたが、新聞史における大事な歴史的転換期なので、改めて何が起こったのかを記しておこう。

結論を先に言えば、共産・公明・社会の3党が超党派で、景品を使った違法な新聞拡販や「押し紙」問題などを追及したのである。質問回数は、1980年3月5日から1985年4月13日までの期間、総計で16回である。

具体的な質問日時と質問者は次の通りである。

■新聞に関する国会質問リスト

こんなことはかつてなかった。政党にとっても、新聞社を攻撃することは大きなリスクを背負うからだ。

これらの質問を水面下で準備したのは、新聞販売の業務に携わる社員と店主で組織する全販労(全日本新聞販売労組)の事務局長を務めていた沢田治氏である。沢田氏は滋賀県で毎日新聞の販売店を経営するかたわら、組合運動の指揮を取っていた。

国会質問に立った共産党の瀬崎博義議員と公明党の草川昭三議員は、いずれも滋賀県選挙区から国会へ送りだされていた。沢田治氏は地元出身の瀬崎博義議員と草川昭三議員に接触し、膨大な裏付け資料を提供し、国会質問を依頼したのである。

共産党の市川正一参院議員も質問に立っているが、彼も関西を基盤とした政治家であることから、沢田氏が接近したのである。市川氏の秘書が筆坂肇氏であったことから、沢田氏は筆坂氏に資料を届けていたという。かつて沢田氏は、わたしに対して、筆坂氏を次のように評していた。

「とにかく理解力がすごかった。多量の資料を短期に整理して体系づけた」

◇北田資料

1982年3月8日、瀬崎議員は国会質問で、俗にいう「北田資料」を取り上げた。これは読売新聞の北田敬一店主(奈良県読売新聞鶴舞直配所)が暴露した自店の経営実態を裏付ける内部資料である。その中に「押し紙」(残紙)に関する資料が含まれていた。(読売は、「押し紙」は一部たりとも存在しないと主張してきたが、ここでいう「押し紙」とは、広義の残紙のことである。必ずしも押し売りの証拠があるとは限らない。)

瀬崎氏は、この北田資料を国会質問の中で暴露したのだ。瀬崎氏は、次のように述べている。

これで見てわかりますように、51年の1月、本社送り部数(注:搬入部数のこと)791、実際に配っている部数556、残紙235、残紙率29.7%、52年1月送り部数910にふえます。実配数629、残紙数281、残紙率30・9%に上がります。・・・・・・・

■瀬崎氏による国会質問録DPF

これが国会で「押し紙」問題が取り上げられた最初である。
しかし、これら一連の新聞販売問題をメディアが取り上げることはなかった。唯一の例外が新聞研究者で創価大学の新井直之教授だった。新井氏は月刊誌『潮』に連載していた「マスコミ日誌」で、次のように述べている。

(略)新聞社側には、国会で共産党議員がその資料をもとに問題を取り上げていることから、(注:全販労が)共産党系組織として警察に働きかけ、裏からの切りくずしをはかっているとも聞く。しかし「生まれたばかりの組織で、支援してくれるものはどこもこばまない」(佐藤議長)というのが全販労の考え方で、共産党系組織というのはいいがかりに過ぎない。この問題について、公明党、社会党議員も国会で取り上げているのも、その現れである。

新聞販売の過当競争や、販売店従業員のタコ部屋的状況は周知の事実で、各社は、公取委の批判や全販労の告発に、十分に、誠意をもって答え、対応すべきであろう。新聞が、自ら内部にかかえている矛盾や後進性を克服せずして、真の国民のための新聞ということは、決してできない。

驚くべきことに新井氏が指摘している新聞販売店の実態は、新聞社の系統によっては、今もほとんど変わっていない。