1. 日本新聞協会のNIE(教育の中に新聞を)運動、新聞記事で児童・生徒の知力は発達するのか(2)

「押し紙」の実態に関連する記事

2021年10月17日 (日曜日)

日本新聞協会のNIE(教育の中に新聞を)運動、新聞記事で児童・生徒の知力は発達するのか(2)

10月16日付け「メディア黒書」に、新しい記事を掲載した。タイトルは、日本新聞協会と文部科学省の親密な関係、売れない新聞を学校の教育現場へである。

日本新聞協会が主導して、文部科学省の支援を受け、学校教育の中で教材として新聞を使用する運動を展開している事を批判的に取り上げた記事である。教育現場における新聞の使用は、2020年度からはじまった小・中・高等学校の新しい学習指導要領にも明記されている。

国策により、学校が「押し紙」の受け皿になる構図が現れたのである。

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わたしは学校教育、特に国語の授業で新聞を使うことには、知力の発達に関連した深刻な問題があると考えている。

改めて言うまでもなく、国語を学ぶ最大の目的は、豊かな日本語を身に着けることである。思考の道具となる高いレベルの言葉を習得し、実際にそれを使えるようにすることで、児童・生徒は思考の範囲を広げることができる。

当然、国語の教材には、最高級の模範文を使うのがふさわしい。新聞記事のようなごく普通の散文を教材に使っても、日本語表現の可能性を教えることはできない。新聞の領域を超えることはできない。表現の幅が限定されてしまうのだ。複雑なことを簡潔に表現する助けにはならない。

それはちょうど、野球少年にバッティングやピッチングを指導するとき、草野球を手本にしてはいけないのと原理と同じだ。手本は、一流の質を備えていることが求められる。

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児童・生徒が教材として提供を受ける日本語についても同じことがいえる。たとえ児童・生徒が模範文を真似できなくても、それに接するだけで日本語の表現の可能性がどこまであり、現代日本語の到達点がどこにあるのかを認識することができる。

たとえば、次に紹介する記述などは卓越した模範文のひとつである。石川淳が永井荷風の死を描いた「敗荷風落日」の劈頭(へきとう)である。

【引用】一個の老人が死んだ。通念上の詩人らしくもなく、小説家らしくもなく、一般に芸術的らしいと錯覚されるようなすべての雰囲気を絶ちきったところに、老人はただひとり、身近に書きちらしの反故もとどめず、そういっても預金通帳をこの世の一大事とにぎりしめて、深夜の古畳の上に血を吐いて死んでいたという。このことはとくに奇とするにたりない。小金をためこんだ陋巷(ろうこう)の乞食坊主の野垂れじにならば、江戸の随筆なんぞにもその例を見るだろう。しかし、これがただの乞食坊主ではなくて、かくれもない詩文の家として、名あり財あり、はなはだ芸術的らしい錯覚の雲につつまれて来たところの、明治このかたの荷風散人の最期とすれば、その文学上の意味はどういうことになるか。

日常生活の中でこうした日本語に接する機会はほぼない。石川淳は、話し言葉ではなく、書き言葉の文体で、随分と込み入った内容を簡潔に伝えているのである。論理もイメージも兼ね備えている。

新聞人と教育者は、新聞記事ではなく、このレベルの教材を与えるべきだろう。新聞記事は、脳が凝り固まった後でも読める。

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教育学者であれば、こんなことは常識的な論であるのを知っているはずだが、だれもそれを指摘しない。やはり新聞社を批判することが恐いのだろう。

正常で当たり前の日本語教育が行われていないから、知力がどんどん劣化している。新聞=文化といった根拠のない暴論を払拭しなければならない。