1. 「政治判断」の有無、12月1日の産経新聞「押し紙」裁判、もう一つの注目点

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2020年11月09日 (月曜日)

「政治判断」の有無、12月1日の産経新聞「押し紙」裁判、もう一つの注目点

既報したように12月1日に東京地裁は、産経新聞の元販売店主が起こした「押し紙」 裁判の判決を下す。改めていうまでもなく最大の関心事は、判決の行方であるが、それと平行して、注目されているのは、司法による「政治判断」の有無である。

昔から新聞社がらみの裁判において裁判所は、新聞社に圧倒的に優位な判決を下す傾向がある。新聞社販売局の担当者の中には、店主に向かって、「あんらた裁判しても絶対に勝てないよ」と豪語している者もいる。

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新聞社による「押し紙」が公式に認定されたのは、2007年に最高裁で判決が確定した真村訴訟(原告:真村さん、被告:読売新聞)においてである。

真村裁判・福岡高裁判決

本来であれば裁判所は、この判例に基づいて、「押し紙」問題を解決する方向性を判決に反映させるべきだが、実態は必ずしもそうはなっていない。真村訴訟の後、裁判所が「押し紙」を認定したケースは、2011年の山陽新聞(岡山地裁)、2020年の佐賀新聞(佐賀地裁)の2件に過ぎない。後者については、独禁法違反を認定した。

とはいえ2010年ごろから、「押し紙」裁判を和解で解決する流れは顕著になっている。新聞社が解決金を支払って、事件を解決するパターンである。たとえば、毎日新聞のケース(原告は、前出の元店主)では、解決金の額が推定3500万円になった。

なぜ、和解解決なのか?

わたしの推測になるが、権力構造に組み込まれている新聞社の「押し紙」政策を認定する判決を書くことを、裁判官が嫌がるからである。その結果、和解の提案、解決金の支払いという流れになる。

たとえば毎日新聞・関町販売店(東京・練馬区)の裁判で、双方が和解することが決まった時、最も喜んだのは、裁判所長だった。この裁判は、非公開(弁論準備のかたち)のかたちで行われた。

(ただし、わたしは傍聴が許可された。)

なぜ、非公開になったのか?

裁判官が新聞社に配慮したことが原因としか考えられない。

なぜ、裁判所が新聞社の顔色を気にするのか?

その理由はわたしにも分からない。勘ぐれば、新聞社が権力構造の一部であることを、裁判官も感覚的に把握していることが原因かも知れない。そこへメスを入れることは、大変なリスクを伴うのだ。

ちなみに公正取引委員会も「押し紙」を放置して来た。さまざまな理由をつけて、「押し紙」を放置している。これも不思議な現象である。

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12月1日に判決が下される産経新聞の裁判は、販売店の完全勝訴というのが客観的なわたしの見方である、事実、裁判官は、産経新聞に対して繰り返し和解を提案した。

裁判所が和解を提案するということは、新聞社に幾らかの損害賠償金を支払うように命じる方向性を持っていることを意味する。すなわち「押し紙」の存在を認定することが意中にあるのだ。販売店からの損害賠償請求を1円も認めないのであれば、わざわざ和解を提案するまでもなく、販売店を敗訴させる判決を下せばそれで済む話であるからだ。

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この裁判の「疑惑」は、結審の直前の5月、コロナウィルスの感染拡大で東京地裁が閉鎖されている間に、3人の裁判官のうち2人が交代したことである。不自然な動きだ。判決の直前に裁判官が交代に立った場合、「押し紙」裁判に限らず、裁判の流れが変わることがよくある。

たとえば滋賀医科大事件の大津地裁判決である。この裁判では、国立大学の在り方が問われていた。NTTドコモを被告とする三潴裁判の福岡地裁判決である。この裁判では、国の電波政策が問われた。

わたし自身は、対読売裁判で地裁、高裁と勝訴して、最高裁で逆転敗訴した体験がある。最高裁は、見解を示したにしても、わたしにしてみれば不自然なことである。読売のために、最高裁がわざわざ口頭弁論を開いて、判決を東京高裁へ差し戻したのである。

12月1日の判決は、勝敗だけではなく、司法における政治判断の有無も注目されている。かりに裁判所が販売店を敗訴させるとすれば、どのような理論構成の判決が下されるのか、特にネットメディアの注目が集まっている。