1. 公取委に販売店から批判が集中、「押し紙」政策を防衛するための新聞人の奇策と新聞特殊指定の歪曲

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2018年01月12日 (金曜日)

公取委に販売店から批判が集中、「押し紙」政策を防衛するための新聞人の奇策と新聞特殊指定の歪曲

新聞販売店主の間で公正取引委員会に対する不信感が沸騰している。筆者のところへ、「公取委はなぜ動かないのか?」という問い合わせがあった。自殺する店主が増えているのに、問題を直視して、「押し紙」の排除に乗りださないエリートの冷酷ぶりに、納税者として、あるいは人間として納得できないというのである。

筆者は公取委の職員ではないので、彼らが仕事をしない本当の理由は分からないが、それを推測することはできる。公取委という組織は、一見すると政府から独立した機関のようにも見えるが、委員長と委員を首相が任命する仕組みからも察せられるように、政府の承諾を得ず独自に行動を起こすことはありえない。正義の仮面をかぶった「ガス抜き」的役割をはたす組織に過ぎない。

新聞人と安倍首相が会食を重ねているような異常な状況下で、「押し紙」を排除できるはずがないのだ。「押し紙」を取り締まらないことで、新聞・テレビをコントロールしているのである。

これまで販売店主らは次々と、自店における「押し紙」の証拠を公取委に提出してきた。しかし、公取委は腰を上げない。その論理上の根拠は、新聞社が販売店に新聞を強制的に注文させた証拠がないからというものである。確たる証拠がない限り、「押し紙」を排除するための行動は取れないのだという。

◇「押し紙」は1部もありません

実際、新聞人たちは、このような論法を熟知しているかのように、自社の販売店には、1部たりとも「押し紙」は存在しないと主張してきた。たとえば、筆者に対する名誉毀損裁判の尋問の中で、読売の宮本友丘専務(当時)は、自社の代理人・喜田村洋一自由人権協会代表理事の質問に答えるかたちで、次のように証言している。太字の部分に注意してほしい。

喜田村弁護士:この裁判では、読売新聞の押し紙が全国的に見ると30パーセントから40パーセントあるんだという週刊新潮の記事が問題になっております。この点は陳述書でも書いていただいていることですけれども、大切なことですのでもう1度お尋ねいたしますけれども、読売新聞社にとって不要な新聞を販売店に強要するという意味での押し紙政策があるのかどうか、この点について裁判所にご説明ください。

宮本:読売新聞の販売局、あと読売新聞社として押し紙をしたことは1回もございません。

喜田村弁護士:それは、昔からそういう状況が続いているというふうにお聞きしてよろしいですか。

宮本:はい。

喜田村弁護士:新聞の注文の仕方について改めて確認をさせていただきますけれども、販売店が自分のお店に何部配達してほしいのか、搬入してほしいのかということを読売新聞社に注文するわけですね。

宮本:はい。

◇新聞特殊指定でいう「注文部数」とは

独禁法の新聞特殊指定は、以下の行為を禁止している。

3 発行業者が、販売業者に対し、正当かつ合理的な理由がないのに、次の各号のいずれかに該当する行為をすることにより、販売業者に不利益を与えること。

一 販売業者が注文した部数を超えて新聞を供給すること(販売業者からの減紙の申出に応じない方法による場合を含む。)。

二 販売業者に自己の指示する部数を注文させ、当該部数の新聞を供給すること。

ここで特に注目すべきは、「注文した部数を超えて新聞を供給すること」という部分である。新聞人らは、「注文した部数」という言葉を捉え、店主が決めた部数が注文部数にあたると主張してきた。先に引用した尋問の議事録でも、喜田村弁護士が「販売店が自分のお店に何部配達してほしいのか、搬入してほしいのかということを読売新聞社に注文するわけですね」と質問して、宮本氏が「はい」と答えている。

この点を根拠に、「押し売り」を否定してきたわけだが、新聞特殊指定でいう注文部数とは、普通の商取引でいう「注文」とは若干意味が異なる。結論を先に言えば、それは新聞の「実配部数+予備紙」のことである。それを超える部数は、理由のいかんを問わずすべて「押し紙」なのだ。新聞社による優越的地位の濫用を防ぐために、こうした解釈にしているのである。それが新聞特殊指定でいう「注文部数」の定義なのだ。

この解釈は、佐賀新聞の「押し紙」裁判の中で、江上武幸弁護士ら原告弁護団が、公取委の文書を過去にさかのぼって検証して再発見したもので、岐阜新聞を被告とする「押し紙」裁判の名古屋高裁判決の中でも採用されている。次のくだりである。

 独禁法が「一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進することを目的とする」経済取締り法規であり、これに基づく本件告示が特殊指定であり、もっぱら客観的要件を重視していることにかんがみると、主観的認識の有無を不法行為に関する違法性について考慮することはともかく、「押し紙」の有無について考慮することは適当ではないというべきである。

ここでいう「主観的認識の有無」とは、「新聞の買い取りを強制されたか否か」といった主観により結論が左右されるあいまいな要素の有無である。それを違法性についての判断をする場合に考慮してもいいが、だからといって「押し紙」の有無を判断する基準にしてはいけないと言っているのだ。

となれば、何を基準に「押し紙」の有無を判断するのか。答は既に述べたように、「実配部数+予備紙」を新聞の商取引における注文部数と定義し、それを超える部数は、理由のいかんを問わず機械的に「押し紙」と認定すべきだと言っているのだ。公取委の職員は、この解釈を知らないのだろうか。

予備紙の割合は、搬入部数の2%とする業界ルールがかつて存在したが、新聞人たちは、残紙はすべて店主が自分の判断で注文した予備紙であるという論法をつくりあげるために「2%ルール」を削除したのである。これは同時に「押し紙」政策を防衛するための奇策だった。そして実際、延々と「読者がいない新聞」の搬入を続けてきたのだ。

が、冷静に考えれば、残紙が梱包を解かれないまま回収されているわけだから、残紙を予備紙と解釈するのは無理がある。予備紙というのは、①配達用の破損に備えたり、②見本紙として期間限定で使われるものなのだ。梱包されたまま回収されている事実は、予備紙として使われていないことを意味する。つまり残紙は、2%分を除いてすべて「押し紙」なのだ。

公取委は、店主の自殺防止のためにも、まじめに「押し紙」問題に取り組むべきだろう。それが国家公務員の正義である。

 

「押し紙」回収の場面