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 このビデオ・ドキュメンタリーは、1982年に米国の映像ジャーナリスト4人が中米エルサルバドルのFMLN(ファラブンド・マルチ民族解放戦線)の支配区に入って、FMLNサイドから内戦を記録したもの。6部構成のうち、今回、紹介するのは4部6部

 エルサルバドル内戦(1980年~92年)は、米国の全面支援を受けたエルサルバドル政府軍と、FMLNの間で繰り広げられた。政府軍が住民に銃を向けるなど、中米紛争の中でも、最も残忍な戦争とも言われている。

 貴重な歴史の記録である。巨大な権力に正面から対峙する勇気が感動を呼ぶ作品だ。

[4部] FMLNの解放区でボランティアとして働く米国人の医師が登場する。かれはベトナム戦争にパイロットとして参加したが、途中で侵略行為の誤りを認識して職務を拒否し、そのまま除隊された過去がある。その後、医師になりカリフォルニア州の病院に勤務しながら、戦争難民を救援するボランティア活動に参加する。そこで戦争難民を通じて、エルサルバドルで起こっていることを知り、医師としてエルサルバドルへ向かう。

 政府軍の暗号による通信をキャッチ。FSLNのリーダーが、暗号を解説。

 軍事訓練の様子。

 ゲリラ式の結婚式。

「6部」FSLNの軍事作戦を記録した部分。なまなましい戦闘の場面を撮影している。最後の部分に、このフィルムを撮影した18カ月の間に知りあった戦士の多くが、その後、戦死したり行方不明になったことを語り、彼らを記憶に留めるために、フレッシュバックの画像に名前が刻まれる。【全文公開】

 「エドウィン・カストロ(ニカラグア)の生年月日は不明。彼は四年間の投獄と拷問ののち、一九六〇年五月十八日、ラ・アヴィアシオンの牢獄で殺された。」(出典:大島博光記念館のHP)

   詩人でパブロ・ネルーダの翻訳者としても知られる大島博光氏が訳したエドウィン・カストロの詩『明日 すべては変るだろう 息子よ』がインターネット上で紹介されている。

 上記の注釈にも記されているように、エドウィン・カストロは、ニカラグアの革命戦士である。没年が1960年になっているから、FSLN(サンディニスタ民族解放戦線)が1961年に再建される前のメンバーである。

 この詩は申し分のない傑作である。少なくとも1979年のサンディニスタ革命の20年前に書かれていたことになる。おそらくは息子への遺言である。

  この詩がどのような経路で日本に紹介されたのかを調べてみたところ、どうやら最初は、メキシコの月刊誌『第三世界(tercer mundo 冒頭写真)』のニカラグア特集に掲載され、それをメキシコ在住の日本人バイオリニスト・黒沢ユリ子氏が岩波書店の『世界』で紹介したらしい。その後、大島訳が世に出たものと思われる。

 この詩には、3つの世代が登場する。やはり革命家で亡命先で「祖国の風景を見たいと熱心に願いながら」死んでいった自分のおやじ。青春を牢獄に閉じ込められた自分自身。解放された自由な社会に生きるであろう自分の息子。

  ニカラグアの人々の闘いが、世代から世代いへと受け継がれていたことがうかがい知れる。

  今世紀に入って、ラテンアメリカは激変している。それが一夜にして起こった奇跡ではなかったことが、この詩から読み取れる。誰がラテンアメリカの歴史を作ってきたのか?そんな自問を発するとき、『坂の上の雲』とは、異なった歴史観が見えてくるのである。


明日(あす) すべては変るだろう 息子よ
苦しみは うしろの扉から出て行くだろう
その扉を 新しい人間たちの手は
永遠に 閉めてしまうだろう
農民は これから自分の土地で笑うだろう
──小さくとも 自分の土地で──
楽しい労働にいつくしまれて花咲く土地で
労働者の娘たちも 農民の娘たちも
もう身を売らなくてすむだろう
りっぱな労働で 彼女たちは
パンや着物を 手に入れるだろう
プロレタリヤの家から 涙は消えるだろう

おまえは満足げに 笑いを浮かべて統治するだろう
アスファルトを敷いた街まちを
河の流れを 田舎の道路を

明日 すべては変るだろう 息子よ
もう 思想を抑えつける
鞭もない 牢獄もない 銃弾もない

おまえはすべての町の通りを歩いてゆくだろう
おまえの手に おまえの子供の手を引いて
きょう おれがおまえにしてやれないことをして

牢獄も おまえの青春の歳月を閉じこめないだろう
おれの青春を閉じこめているように
おまえは亡命の身で死なないだろう
ふるえる眼で
祖国の風景を見たいと熱心に願いながら
おれのおやじが死んだように

明日 すべては変るだろう 息子よ
 出典:記念館のHP【全文公開】

 読売ジャイアンツの清武英利前球団代表(61)が、25日、外国人記者クラブで会見を行った。事前の報道では野球以外の新事実も暴露する予定になっていたようだが、それが何だったのかはさっぱり分からない。「肩すかし」という声が多い。

 清武氏が渡邉氏を本当に批判したいのであれば、「読売1000万部」の信ぴょう性を問題視すべきはずだが、この点に関する言及もなかった。

 そもそも一企業内の人事問題を巡る対立を記者会見で明らかにするのもおかしな話だ。ジャイアンツ内部に議論できる条件がないのであれば、外部からの攻撃も仕方がないが、暴力で反対意見を制圧するような状況があるはずはなく、外部から攻撃しなければならない必然性はない。

 企業内部の人事問題を外部から攻撃したのだから、解任は当然の処分である。裁判をしても勝ち目はないだろう。

 わたしは清武氏が読売とは決別するつもりで、外部から攻撃したものと思っていた。それゆえに一定の評価をしたが、認識が完全に誤っていた。

 さらに奇妙なことに、渡邉氏と清武氏の双方ともが係争を法廷に持ち込む予定らしい。しかも、互いに法廷闘争の勝利宣言をしている。

 本来、新聞人は言論で戦うものなのである。清武氏のように30年も記者をすれば、それだけの力もあると思うが、両人とも弁護士だのみの姿勢を露呈している。

 わたしは彼らのプロ意識を疑う。新聞拡販に頼ってジャーナリズムを展開してきたので、報道姿勢の厳しさもない。自分の言葉に対する重さ、それに対する責任も感じられない。そのうえ問題の解決を司法に委ねている。

 この人たちは、言論活動をどのように考えているのだろうか?

 プロフェショナルの問題以前に、抵抗には生命や失職のリスクが伴う事がよく分かっていないのではないか。次に紹介する画像は、抵抗とは何かを教えてくれる。
 
 http://bit.ly/bnsKcL

 1980年3月24日にエルサルバドルの軍部に射殺されたオスカー・ロメロ大司教の葬儀に集まった民衆に向かって軍が発砲する現場をカメラマンが撮影したものである。興味深いのは、一旦、大聖堂の中へ逃げ込んだ民衆が降伏する代わりに、ただちに反撃の体制を取っている事ことである。

 [カウント8:15秒]あたりの画像には、手に手にピストルを持った人々が軍を迎え撃つ姿勢を取っているのがはっきりと映っている。

 それから半年後の10月10日、それまでばらばらだった左翼ゲリラが統一され、FMLN(ファラブンド・マルチ民族解放戦線)が結成さた。以後、92年まで内戦が続く。

   FMLNの解放区の画像:http://bit.ly/s7M05Z
                       :http://bit.ly/vSUmfL

  読売という日本の中の狭い世界で内紛を演じても、あまり得るものはない。世界の笑い者になるのがおちだ。(全文公開)

 7月19日は、ニカラグア革命の32周年である。次に紹介するのは、FSLN(サンディニスタ民族解放戦線)が大統領選挙で敗北して政権の座から降りた5年後、1995年に取材した時の記録である。全体が4部から構成されている。今回紹介するのは、そのうちの第2部、FSLNが革命後に導入した徴兵制度について取材した記録である。

  改めて言うまでもなく、FSLNの政権下で徴兵制度が導入された背景には、米国のレーガン政権が傭兵部隊コントラを使って仕掛けた戦争から、自国を守ることが目的だった。

 戦後、この徴兵制度を内戦の犠牲になった元兵士や遺族はどのように感じているのかを取材した。


■第2部 裏庭の生存者たち
 FSLNが導入した徴兵制度で、息子をなくした母親と話す機会を、ポロさんが作ってくれた。個人の生命が国家の所有物でない限り、徴兵制の背景に米国による戦争の挑発があったとはいえ、徴兵した側の責任を不問に付すわけにはいかない。

 母親たちはだれに対して憎しみを抱き、内戦が終結した今はどのような思いで暮らしているのかを、わたしは知りたいと思った。

 今回の取材でわたしは、バス停や大衆市場、それに公園などで人々と話すとき、相手の表情に注意を払うようにしていた。経済的な窮地とはうらはらに、一抹の陰りを感じさせながらも、笑みを湛えた人が多いことに気づいた。それが魅力的にも不思議にも感じられた。

 ところがポロさんの紹介でインタビューさせてもらった二人の婦人は、どの角度から見ても陽気さからほど遠かった。わが子の戦死が刻印した悲しみがそのまま表情に張り付いてしまったような印象があった。

 もちろん、相手が戦死者の遺族であるという先入観がわたしの感じ方にも影響を及ぼしていたこともあるだろうが。

 最初の婦人は、息子さんを死に追いやった責任をだれに帰するのかというわたしの質問にしばらく押し黙った。それから目頭を指で押さえて、こんなふうに答えた。

「だれも非難しませんよ。戦争は地震や津波、台風、竜巻、洪水といった自然災害と同じです。息子が戦争で死んだのは神の思し召しです。戦争から無事に生還しながら、交通事故や病気で死ぬ人もいます。コントラに一家皆殺しにされた家族もあります。すべて神の思し召しですよ。憎しみの対象などありません」

  予想外の答えだった。責任の向けどころとしてFSLNかコントラ、あるいはレーガン大統領といった具体的なものが婦人の口から語られるだろうという予想がはずれ、わたしはしばらく黙りこんだ。

◆◆◆
  ポロさんにとっても意外だったらしく、二人目のインタビューの対象として、徴兵制度を導入したFSLNを明らかに憎んでいる母親を選んだ。ポロさんによれば、息子を戦争で奪われた婦人は、FSLNの支持基盤である低所得階層の人であっても、FSLNに憎しみを抱いているという。

 わたしが案内されたのは、レンガ造りのみすばらしい家だった。天井を兼ねたブリキ屋根を支える梁から裸電球がひとつ吊り下げられているが、点灯されていないので、あたりが薄暗い。床は土。隣の部屋とは段ボールで仕切られている。バネが壊れたソファーに腰かけて、わたしとポロさんは婦人が現れるのをまった。

 五分ほどして真っ黒に日焼けした女性が戸口に姿を見せ、無言のまま椅子に腰を下ろした。ポロさんがわたしを紹介すると、戦死者の母親は、ひときわ鋭い光を放っている両眼をわたしに向けた。瞳の輝きなのか、涙が光っているのか判断に迷った。

 が、婦人は予想外にしっかりとした口調で死んだ息子さん・アルベルトのことを話し始めた。

「息子が戦死したのは18才の時でした。召集されて半年も過ぎたころに連絡がなくなり、いったいどこの部隊に所属しているのかさえも分からなくなりました。それから3カ月ほどして突然戦死の通知を受けたのです。後で聞いた話によりますと、戦闘中、ほんの10センチほど頭を上げた所へ弾丸が来て即死だったそうです」

  婦人は涙をぬぐった。
 遺体と対面したとき、婦人はアルベルトの日焼けした顔に凍てついた笑みを読み取り、話しかけると懐かしい声が返ってくるような気がしたという。唇を噛みしめて、放心したまましばらく棺の傍らに立ちつくしていたが、死顔に止まった黒いハエに気付くと、急に激しい悲しみに襲われて遺体に取りすがった。

「息子さんはFSLNが導入した徴兵制についてどのように考えていましたか?」

「戦争には行きたがりませんでした。徴兵逃れをするために、たくさんの家族が米国へ亡命しましたが、わたしの家族にはそんな金はありません」

「息子さんを戦争でなくして、あなたはFSLNを憎みますか、それとも米国とコントラを憎みますか?」

「FSLNです」

「なぜ?」

「戦争に行きたがらなかった息子を強制的に行かせたからです」

「戦死者の家族に対する補償はありますか?」

「ほどんど何もしてくれません。この家を見ただけで、わたしたちがいかに貧しいかが分かるでしょう」

 婦人の一家はコーヒーの収穫や牧場での作業に雇われて細々と生活を支えているという。実際、婦人の手は枯れ木のようにごつごつしている。指と指の間にコーヒーの枝を挟んで豆をもぎ取るので、長い歳月のうちに指が変形してしまったのである。

 婦人は古びた写真をわたしに見せてくれた。年の頃、二十歳前後の男性が三人並んで映っている。背景は豊かな緑。コーヒーの木である。左の端の小柄な青年がアルベルトである。兄弟三人で撮影した写真だった。

「アルベルトもコーヒー園で働いていたんです。戦争に行く前にアルベルトが摘んだコーヒー豆は今も大切に保存しています。わたしの人生は息子が死んだときに終わったのです。悪い運命の星を背負っているのでしょう」

 暗い気持ちでわたしは会話を切り上げた。立ちあがって丁寧にお礼を言うと、

「お役に立てて嬉しいです」

 と、初めて微かな笑みを浮かべた。

◆◆◆
 内戦で負傷した元兵士の会があるというので事務所を訪ねることにした。祖国のために名誉の負傷をしたので悔いはないといった紋切り型の美談は、マスコミを通じて何度も耳にしていたので、今回はもっと生身の人間らしい証言、つまり徴兵に応じたことへの後悔の念や、国家権力への憎悪をむきだしにした言葉を聞きたいと思った。しかし、事務所は年末の休暇で閉まっていた。

 露天商が軒を連ねたにぎやかな道路を、ポロさんが運転するオートバイで通り抜けた。なだらから坂の中腹で、ポロさんは両足を着地して、オートバイを止めた。
 
 黄色い野球帽の庇の下から細い目を覗かせ、頬髭をはやした青年がブロック塀にもたれて煙草を吸っている。ポロさんの知人らしい。近づいてきてわれわれに握手の手を差し出した。ポロさんがわたしを紹介してくれた。

「内戦で負傷した人で、インタビューに応じてくれそうな奴を探しているんだが、だれが適当だろうか?」

「コントラ側の負傷者がいいのか、それともFSLN側の負傷者がいいのか?」

「どちらでもいいよ」

 と、わたしは答えた。

「徴兵制の犠牲者を取材するのなら、やはりFSLN側の負傷者の方がよくはないか?」

「どちらでもいいよ」

 わたしは同じことを繰り返した。

「セルヒオはどうだ」

「あの男は何も話したがらない」

「ビセンテは?両足を失くした男だ」

 話を聞き出す相手は決まった。街を外れ、赤土が剥き出しになった急な下り坂にポロさんはオートバイを乗り入れた。近くにゴミ捨て場でもあるのか、物が腐敗した匂いがかすかに鼻についた。

  砂ぼこりをかぶった緑の樹木が茂った小高い丘の斜面に、レンガや板で出来た掘っ立て小屋まがいの民家が点在している。

 オートバイを止めて、ポロさんは急な坂道を上がりきった所にある錆びたトタン屋根の民家を指差した。われわれは滑らないように足元に注意しながら、坂を上りはじめた。頭上に枝を広げた熱帯樹の葉群の間に広がる空の輝きがまぶしい。おびただしい光を浴びた緑の中で、内戦の後遺症を背負った元兵士が静かに心の傷を癒しているような予感がして、わたしの緊張は高まった。

 一軒の民家の開けぱなした戸口の内側に人の気配がした。幾つかの視線がわたしを捉えた。あご髭をはやした青年が、車椅子の両輪に手をかけたまま、ポロさんとわたしを交互に見た。両脚が切断されているので、車椅子の上に胡坐をかいて座っているように錯覚する。が、注意すると半ズボンから切断された脚が見えた。

 ポロさんが訪問の目的を説明すると、車椅子の青年は静かな口調で、

「わたしは内戦で負傷したのではないです」

 と、言った。

「そうですか」

   わたしは引き返そうと思った。相手のプライバシーに踏み込む自信はなかった。いきなり目の前に現れた日本人に、自分の胸の内を話すはずがなかった。

「本当は内戦で両足を失くしたんだが」

「話したくないんだろう」

「内戦のことは全部忘れたいのだと思う」

  坂道を下りきったところで、わたしはもう一度、後ろを振り返って緑樹の陰の住居を見上げた。

  皮肉なことに米国は戦闘ではFSLNに勝てなかったが、ニカラグア国内にFSLNを憎悪する人々を作ることに成功した。戦争の犠牲者が増えれば増えるほど、政府が危機に立たされることは、ベトナム反戦運動から米国政府が最もよく知っていた。だからこそ、FSLNの打倒には、直接に米軍を投入する代わりに、傭兵部隊コントラを使ったのである。

 コントラの戦術は町や村を支配下に収めることよりも、一人でも多くの戦争犠牲者を作りだすことにあった。そのために戦闘のスタイルも部隊による襲撃と同時に、私服の下に武器を隠し持って市民に向かって発砲するなど、テロリストの手口が大きな比重を占めていた。FSLNが政権の座から降りない限り、ニカラグアに平和はやってこないという暗黙のメッセージを振りまき、長い歳月をかけて住民の怒りをFSLNへ向けることに成功したのだ。

 こうして暴力と暗黙の脅迫を上段に振りかざし、1990年の大統領選挙でFSLNを政権の座から引きづり下ろしたのである。 (全文公開)

  激動の時代を迎えているラテンアメリカで、5日、ペールにも左派の大統領が誕生した。当選したのは、新自由主義からの脱却を政策として掲げるオジャンタ・ウマラ氏。

 New  York Times(6日付け)の報道によると、開票率88.4%の段階で、得票率はウラマ氏が50.087%、右派のフジモリ氏が48.7%だった。ウラマ氏は軍部の出身。前回の大統領選挙では、決選投票でアラン・ガルシア氏に破れていた。

  ラテンアメリカにおける新自由主義からの脱却と民族自決の波は、1998年にベネズエラの大統領選挙でチャベス氏が当選したのを皮切りに始まった。 以後、次の国々が右派から左派への政権交代を実現した。

1998年 ベネズエラ

2002年 ブラジル

2003年  アルゼンチン

2004年 ウルグアイ

2005年 ホンジュラス(注;クーデターで右翼政権が復活)

2006年 エクアドル
      ボリビア
            チリ(注:現在は右派)

            ニカラグア

2007年 グアテマラ

2008年 パラグアイ

2009年 エルサルバドル

2011年 ペルー

  こうした状況の中で、孤立していたキューバの状況も変わってきた。ラテンアメリカ諸国の大半が親キューバ国となっている。

◇傀儡(かいらい)の典型モデル・ソモサ王朝
 しかし、現代の変革に至る前史では、計り知れない人的な犠牲を払っている。スペインからの独立の闘いの後には、米国支配を断ち切る闘いが続いた。

  たとえばニカラグアにおける民族自決の闘いは、1920年代に始まっている。 米国の海兵隊がニカラグアを占領したとき、アウグスト・サンディノは中央アメリカで最初の解放戦線を結成した。サンディノが率いる小部隊は、執拗なゲリラ戦を繰り返して米軍に対抗し、撤退を余儀なくさせた。

 しかし、怒り心頭に達した米国は、米国の軍人学校の卒業生ソモサに接近して、サンディノの暗殺を企てる。

 ソモサは自宅で開いたパーティーにサンディノを招待した。そして深夜にソモサ邸の玄関でサンディノを送りだした。そのわずか数分後に闇の中で待ち伏せしていた兵士が、サンディノを拘束し、ただちに射殺したのである。

 その2年後、ソモサは軍事クーデターを起こして政権の座に就いた。こうして米国を後ろ盾として親子3代に及ぶソモサ王朝が成立したのである。米国の傀儡(かいらい)政権の典型モデルである。

 しかし、サンディノの闘いは、その後、FSLN(サンディニスタ民族解放戦線)へと受け継がれていく。そして1979年にFSLNはソモサ王朝を倒したのである。

  これに憤慨した米国は、ニカラグアの隣国・ホンジュラスを米軍基地の国に換えて、ニカラグアの革命政権の攻撃に乗り出した。1980年代のことである。ニカラグアが国際ニュースの表舞台に浮上してきたのはこの時期である。

  米国に支援された反政府ゲリラは「コントラ」と呼ばれた。コントラの大半は傭兵で、世界一の武器で武装していたといわれている。彼らが攻撃の標的としたのは、農場や工場などニカラグア経済を支える要所だった。また、武器を隠し持って、民間人をいきなり攻撃するスタイルを採用していた。

 内戦による混乱の中で人々のいらだちが膨らんでいった。しかし、米国はFSLNが政権の座にいる限り、ニカラグアに平和は訪れないと公言した。
 
  こうした状況の中、1991年の大統領選挙で、FSLNは敗北して政権の座から下野する。しかし、その16年、 FSLNは再び政権を奪還して現在に至っている。(2400/4900文字)

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 1980年3月24日、中米エルサルバドルのロメロ大司教はミサの司式の最中に、軍の暗殺部隊に無声銃で射殺された。軍部に対する批判がその引き金となっている。
 紹介する画像は、大司教の葬儀に集まってきた群衆に向かって、軍が発砲して大混乱に陥っている場面。エルサルバドル内戦の貴重な証言である。

      画像: http://www.youtube.com/watch?v=EN6LWdqcyuc
 

 ラテンアメリカに関心を寄せてきた者にとって、「9・11」といえば、1973年に起こったチリの軍事クーデターを思い浮かべる。今年で37年の歳月が流れた。チリの軍事クーデターは、わたしが最初に関心を持った国際事件ということもあって、常にラテンアメリカを見るときの指標にしてきた。

◇UP成立からクーデターまで
 1970年に社会党、共産党、キリスト教民主党が推すサルバドル・アジェンデ(写真:左の人物。右はパブロ・ネルーダ)が大統領に当選して、UP(Unidad Popular人民連合)が成立した。これは世界史の中で初めて選挙により成立した社会主義政権である。当時、チリは南米の中ではもっとも議会制民主主義が進んだ国だった。

   アジェンデは政権に就くと、ただちに外国資本の鉱山などを国有化するなど、民族自決の政策を推し進めていく。これに反発した富裕層は、「資本家スト」などを決行する。富裕層の夫人らは、フライパンやナベを叩きながら、「パンをよこせ!」と叫んでデモ行進を繰り広げたのである。

 73年の総選挙で人民連合が躍進すると、合法的な手段ではアジェンデ政権を倒せないことが明白になる。同時にアジェンデ政権に対する右翼の挑発行為がエスカレートする。6月には大統領官邸が襲撃された。8月にはアジェンデに忠実な軍の将軍が暗殺される。そして9月11日に、軍部と警察によるクーデターが起きたのだ。

 クーデターで政権についたのは、アウグスト・ピノチェト将軍だった。クーデターの背後に米国のニクソン政権とCIAが関与していたことは、現在では歴史の事実として認定されている。

 クーデターに伴う死者や行方不明者は3000人を超えた。この中には、チリの著名な歌手・ビクトル・ハラも含まれている。

 また、1970年のノーベル文学賞の受賞者、詩人のパブロ・ネルーダも犠牲者の1人である。ネルーダはクーデターの衝撃で持病の白血病が悪化し、血ぬられていく祖国を見ながら、2週間後に失意のうちに亡くなった。

 ネルーダは共産党の大統領候補だったが、辞退してアジェンデの支援に回った経緯があった。

  軍部は最初、アジェンデに対して海外への亡命を勧めた。アジェンデはこれを拒否。大統領官邸から大半の職員を退却させた後、ラジオ放送で最後の演説を行ったのである。

◇アジェンデ最後の演説
 アジェンデの最後の演説は、YouTubeにも収録されている。(アジェンデ最後の演説・日本語の字幕付き


 人民は破壊され、蜂の巣にされたままであってはなりません。屈服したままであってはなりません。

 わが祖国の労働者たちよ!

 私はチリとその運命を信じています。

 私に続く者たちが、裏切りが支配するこの灰色の苦い時代を乗り越えていくでしょう。

 遅かれ早かれ、よりよい社会を築くために、人々が自由に歩くポプラ並木が再び開かれるでしょう。

  チリ万歳! 人民万歳! 労働者万歳!

 私が犠牲になることは無駄ではないと確信しています。

 少なくとも、裏切り・臆病・背信を断罪する道徳的な裁定となると、私は確信しています。

◇チリからニカラグアへ

 言論弾圧によって、言論や表現の自由を封じ込めることは可能か?

 これはチリのクーデターを通じて、わたしがよく考える例題である。

 ピノチェトによる軍事政権の下で、言論や表現の自由が徹底的に弾圧されたことは言うまでもない。

 たとえば、当時、チリには「新しい歌の運動」と呼ばれる潮流があった。これは殺されたビクトル・ハラらが中心になっていた運動で、チリの伝統的な音楽と社会性の強いメッセージを特徴とする。

  「新しい歌の運動」の代表的なグループには、来日したこともあるキラパジュンやインティ=イジマニがある。クーデターが起きたとき、彼らはたまたま海外公演でチリを離れていて難を逃れた。しかし、祖国へ戻れなくなり、亡命を余儀なくされた。

 チリ国内では、「新しい歌の運動」も弾圧された。ケーナなどの楽器も禁止されたと聞いている。軍事政権の下で、人々はかもくになり、力による言論封殺が成功したかのような印象があった。

 クーデターから12年。わたしは意外なところで、アジェンデの影響の大きさを知ることになる。1985年の夏、わたしは新生ニカラグアの首都、マナグアにいた。中米紛争についての本を書こう思って、自費で取材を続けていた。

 ニカラグアは1979年の革命でFSLN(Frente Sandinista de Liberación Naciona、サンディニスタ民族解放戦線)が政権の座にあった。革命前のニカラグアは、「ソモサ王朝」と呼ばれるラテンアメリカでも極悪の独裁国家だった。ソモサ一家は、ニカラグアの産業も政治も軍部も掌握していた。

  ソモサ王朝の崩壊で勢力を失った米国は、ニカラグア中の航空写真を撮り、ホンジュラスを基地の国に変え、傭兵部隊を組織してFSLNの攻撃に乗り出す。こうして1980年代の本格的な内戦に突入したのである。

  あるとき強い日差しを避けるために、わたしは首都マナグアの大衆市場に立ち寄った。市場の中は、野菜や果実で一杯だった。人々の熱気に包まれていた。
 
 市場の中を歩いていると、わたしの耳に聞き覚えのある音楽が耳にはいった。その音楽は、野菜の群れの中に無造作に置かれたカセット・プレーヤーからもれていた。

 チリの軍事政権が封殺したはずのチリのインティ=イジマニのものだった。アジェンデ政権の時代に生まれた歌が、ソモサが逃げていった新生ニカラグアで息を吹き返していたのだ。

 この時、わたしは真実の声や言論を封殺することが、まったくの無意味であることを瞬時に感じ取ったのである。

 ニカラグア革命をやり遂げたFSLNの名前は、民族主義者アウグスト・サンディーノの名前に由来している。サンディーノは、第2次世界大戦前の1927年に、米国海兵隊がニカラグアを占領したとき、ゲリラの小部隊を結成。執拗なゲリラ戦を展開して、海兵隊を撤退させた。しかし、ソモサ邸で開かれたパーティーに呼び出され、その帰りにソモサに暗殺された。

 その後、ソモサはクーデターで政権を掌握し、親子3代に渡るソモサ王朝を打ち立てる。一方、サンディーノ主義者たちは、1963年代に解放戦線を再建した。再建の中心メンバーだったカルロス・フォンセカは、自分の家族をキューバにあずけてニカラグアへ戻った。

 こうしたラテンアメリカの先人たちの戦いを、博学なアジェンデが知らなかったはずがない。チリのクーデターの日、亡命を断って戦ったのは、自分も先人の例にならったからだ。そのアジェンデに励まされて、79年の革命にニカラグアの人々が立ちあがったことは論をまたない。

  アジェンデ大統領の死から37年。2010年の段階で、ラテンアメリカ諸国の大半はすでに軍事政権から脱却し、新自由主義からも決別しようとしている。前世紀まであれほど頻繁に繰り返された米軍による軍事介入は、もうできなくなっている。

 これが歴史の進歩に違いない。(全文公開)

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 エルサルバドル内戦中(1980~92年)のジャーナリズム活動。ラジオ・ベンセレーモス局が展開した報道活動は、日本のジャーナリズムとは、かなり大きな温度差がある。空爆を避けるために、放送の機材を移動させながら報道を続けた。

  Radio Venceremos FMLN

    10 years of taking the sky by storm
 

 1979年から31年。7月19日は、ニカラグア革命の31周年である。79年の7月17日、親子3代にわたりニカラグアに40年あまり君臨した独裁者ソモサが、FSLN(サンディニスタ民族解放戦線)の首都接近におびえて、自家用ジェット機でマイアミへ亡命した。その2日後、FSLNが首都に入城して新政権を樹立する。

 歓喜に沸いたニカラグアであったが、その数日後には早くも米国の偵察機「ブラック・バード」がニカラグアの領空に侵入。ニカラグア中の航空写真を撮影して自国へ持ち帰る。

 それから米国は、ニカラグアの隣国ホンジュラスを軍事基地の国に変え、傭兵部隊コントラを養成して、新生ニカラグアの攻撃の乗りだした。こうしてニカラグア内戦の80年代が始まったのである。

◇ニカラグア革命の影響
  ニカラグア革命の影響を受けて、80年にエルサルバドルでFMLN(ファラブンド・マルチ・民族解放戦線)が結成され、首都へ向けて大攻勢をかける。米国はエルサルバドルに対する軍事援助を強化。それと同時に全土に軍によるテロが広がった。

  さらにグアテマラでも、解放戦線が急激に勢力を広げていく。

 1980年代におけるこれら3国の紛争を、俗に「中米紛争」と呼ぶ。(900/1500文字、◇生命の犠牲の上に現在の民主主義)

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この動画は、エルサルバドルの内戦中(80年~92年)、FMLN(ファラブンド・マルチ民族解放戦線)のラジオ局が解放区の生活やジャーナリズム活動を記録したもの。(ここをクリック。

 

 21世紀に入って10年。2001年の「9・11」の後、日本の新聞とテレビは、21世紀が戦争と憎しみの世紀であるかのようなプロパガンダを流し続けてきた。しかし、事実は異なる。第3世界が急激に台頭してきて、武力で他国の民族自決権を踏みつぶす戦術が通用しなくなっているのだ。実際、イラクでもアフガニスタンでも、米国の軍事作戦は破綻した。
  この時代に海外派兵を唱えている日本の新聞社は、頭を冷やすべきではないか?
  ¡Latinoamerica unida y libre del imperialismo!

 1979年のニカラグア革命の映像、「われらがアメリカ」。アメリカという言葉は、日本では米国を意味するが、ラテンアメリカでは、南北アメリカを意味する。

 動画の最後で演説しているのは、サンディニスタ民族解放戦線の幹部・トマス・ボルヘ。「わたしは世界に訴える、わたしは北アメリカ人民に訴える、ここでわれわれの涙が流れている。ここでわれわれの血が流れている」

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    「ベトナム戦争の後、報道規制が厳しくなり、戦争の最前を取材できなくなった」
  新聞社のこんな言い訳を聞いたことがないだろうか。紹介したビデオは、1989年11月、中米のエルサルバドル内戦で、FMLN(ファラブンド・マルチ民族解放戦線)が首都サンサルバドールに接近し、政府軍との間で激しい戦闘になったときのもの。まさに最前線の映像である。

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 When the Mountains Tremblesは、米国の映画人らが制作したもので、グアテマラ内戦(1960~1996年)を先住民の視点から記録している。第2次世界大戦の後、ラテンアメリカで最初にゲリラ活動が始まったのはグアテマラである。1954年のCIAとユナイテッド・フルーツ・カンパニーによるクーデター勃発の数年後である。日本ではゲリラといえば、テロ活動のようなイメージがあるが、この記録を見ると、軍部のテロに対する正当防衛だったことが分かる。

 紹介している部分は、解放戦線のオルグの場面。語り手として登場しているの女性は、ノーベル平和賞受賞者のリゴベルタ・メンチュ。彼女の生死の証言は、『私の名はリゴベルタ・メンチュウ』(新潮社)に詳しい。
 

 1986年、チリの映画監督ミゲル・リティンは、偽のパスポートを所持し、ビジネスマンに変装して、亡命先から軍事政権下の祖国へ潜入した。コマーシャルの撮影を口実に合法的に送り込んだ映画チームと協力し、軍事政権の「傷跡」を映像で記録した。紹介する画像は、冒頭の部分。


 潜入体験については、『チリ潜入記』(岩波新書)という題で、コロンビアのノーベル賞作家で『百年の孤独』(新潮社)の著者、ガルシア=マルケスがまとめている。。

 

10 years of taking the sky by storm

この動画は、エルサルバドルの内戦中(80年~92年)、FMLN(ファラブンド・マルチ民族解放戦線)のラジオ局が解放区の生活やジャーナリズム活動を記録したもの。

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