内閣府向けの手作りの請求書が4年間で約64億円分の異常、電通とは別の顔、児玉誉士夫と博報堂の闇を検証する
広告代理店・博報堂の体質が徐々に輪郭を現してきた。広告代理店の問題といえば、最大手の電通による事業の寡占化が問題視されることが多いが、業界2位の博報堂は、それとは異なる性質の問題を内包しているようだ。それに焦点をあてる前に、博報堂が巻き込まれた最新のトラブルを一件紹介しておこう。
博報堂の嘱託社員が、地位保全を求めて、福岡地裁で裁判を起こしていることが朝日新聞の報道で分かった。
訴状によると、女性は1988年4月、博報堂九州支社に嘱託社員として入社。1年契約の雇用契約を29回更新し、今年3月末まで経理などを担当していた。改正労働契約法の施行で、2018年4月には無期雇用に転換できる権利を得る予定だった。しかし、博報堂は17年12月、女性に18年度以降の雇用契約を更新しないと伝えた。
女性側は「無期雇用に転換されるのを阻止するためで、公序良俗に反し、無効だ」と主張。博報堂側は「契約書で18年4月以降は契約を更新しないと合意している」と反論している。
福岡労働局は今年3月、女性の契約打ち切りについて、「無期転換ルールを避けることを目的として、無期転換権が発生する前に雇い止めすることは、労働契約法の趣旨に照らして望ましいものではない」などと助言する文書を同社に出している。■出典
提訴した女性の場合、雇用契約を29回も更新していたのだから、実態としては正社員である。それにもかかわらず会社の都合でいつでも解雇できるように、博報堂は嘱託というかたちを取っていたのだろう。
◇インボイスナンバーの欠落
博報堂といえば、博学な人々の集まりというイメージがある。筆者も、2016年に取材するまでは、好印象を持っていた。ところが中央省庁から博報堂が請け負った政府広報業務を調査したところ、異常な実態が次々と明らかになった。電通とは別の問題があることが分かった。
たとえば2012年度から2015年度までの4年間に、博報堂は内閣府から約64億円の政府広報業務を受注している。額の大きさもさることながら、驚くべきことにこの64億円分の請求書には、インボイスナンバーが付番されていない。
読者は、これが何を意味するかご存じだろうか。結論を先に言えば、これらの収入が、会計監査やシステム監査の対象外になっている可能性である。
インボイスナンバーを付番する目的は、改めていうまでもなく、コンピューターを使った会計処理をするためである。見積書から請求書、さらに納品書まで、通常は共通番号で管理されるのだ。そのためにインボイスナンバーなのである。ところがそれが外してあるのだ。
クレジットカードに番号がなければ、金銭の収支をコンピューター処理できないのと同じ原理である。たとえ手作業を介して、処理を可能にすることが出来ても、わざわざ64億円分もの請求書から、インボイスナンバーをあえて欠落させる合理的な理由はない。考えられるのは、会計監査とシステム監査を意図的に免れる場合である。つまり裏金づくりの疑惑があるのだ。
ちなみにこれら64億円分の請求書は、コンピューターが発行したものではない。おそらくエクセルで作成したものである。昭和時代の八百屋さんが発行する請求書のレベルだ。上場企業としては、常識では考えられないしろものなのだ。
◇マスコミ支配の野望
博報堂のルーツを調べてみると、想像以上に闇に満ちている。『見えざる政府―児玉誉士夫とその黒の人脈』 (白石書店、竹森久朝著 、1976年)は、昭和のフィクサー・児玉誉士夫氏と博報堂の意外な接点を指摘している。
「児玉誉士夫が言論出版問題について『統制機関』をつくる構想をもっていた事実はあまりよく知られていない。だが、この構想は、彼が築いていった『見えざる政府』の組織の拡大強化とともに芽生え、ふくらみ、そして一部は実行に移されたのである。」
「とくに総会屋業界の『総元締』の地位に就いた昭和44年頃からのちは、いわゆる児玉系マスコミを積極的に動員することによって、容易に経済事件に介入できたし、フィクサーとしての役割も無難にこなせるようになった。」
「こうした体験が実は、さらに数多くのマスコミを児玉の支配下に組み込ませる構想へと発展したのである。もちろんこの考え方の根底には、児玉が世論は国民大衆が作るものではなくて、マスコミが扇動していく過程で作られることを知っていた。」
児玉氏が目を付けたのは、博報堂の持ち株会社「伸和」だった。1975年、伸和に児玉は、側近の太刀川恒夫氏を送り込んだのである。
「役員は、広田隆一郎社長のほかに、町田欣一、山本弁介、太刀川恒夫が重役として名を連ねたが、広田は福井の大学時代のラグビー部関係者で、警視庁が関西系暴力団の準構成員としてマークしていた要注意人物。町田は元警察庁刑事部主幹。山本は元NHK政治部記者。そして太刀川は児玉側近グループのナンバーワンで、児玉が脳血栓で倒れたあと、完全に児玉の分身となった人物であることはすでにのべた。」
伸和は後に博報堂コンサルタンツに社名変更するのだが、このあたりの事情について、当時の『週刊サンケイ』(1976年)は次のように書いている。
「特に、『伸和』が昨年7月に『博報堂コンサルタンツ』に社名変更した時に、太刀川が取締役に就任したことが、児玉ファミリーのマスコミ支配のための″博報堂進出″とみられている。」
博報堂も児玉氏との関係を認め、『週刊サンケイ』に対して次のようにコメントしている。
「博報堂乗っ取りとか、児玉が何を狙っているとかいろいろいわれているけれど、まったくナンセンス。博報堂コンサルタンツの取締役になってもらったのは、僕の方から頭下げてきてもらったんですからね。将来いろんなことやってくうえで、いつ、何をということなく、必要になった時、考え方などを聞かせてほしい、そういうために役員になってもらったんですよ。福井(当時の博報堂社長)さんと児玉さんが関係あると言われていますが、あれだって社長就任時に記念品をもって挨拶に行ったんで、何百人と回った中の1人ですよ。ええ、わたしも同席しました」(広田隆一郎、前博報堂取締役、前博報堂コンサルタンツ社長<肩書きは1976年同時>)
広田氏の言葉を借りれば、博報堂の側から、児玉氏に協力を求めていったのである。
◇天下りリストが示す中央省庁との関係
『現代の眼』(1975年7月)によると、乗っ取りの時期に次の人々が博報堂へ天下っている。博報堂が児玉氏とかかわりを持つようになった時期である。
・松本良佑(副社長):元警察大学教頭
・佐藤彰博(公共本部長):内閣審議官室審議官兼総理府広報室参事官
・千島克弥(顧問):総理府広報室参事官
・池田喜四郎(公共本部次長):内閣総理大臣官房副長官秘書
・毛利光雄(社長秘書):警視庁総監秘書
・町田欣一(特別本部CR担当):警視庁科学検査部文書鑑定課長
また、日本経済新聞の人事欄によると、旧大蔵省からの天下りも確認できる。
・近藤道生(社長):国税庁長官
・磯邊 律男(社長):国税庁長官
また、2017年3月の時点での天下り者は次の通りだ。
・阪本和道氏(審議官)[博報堂の顧問]
・田幸大輔氏(広報室参事官補佐・広報戦略推進官)[博報堂の顧問]
・松田昇(最高検刑事部長)[博報堂DYホールディングスの取締役]
・前川信一(大阪府警察学校長)。[博報堂の顧問]
・蛭田正則(警視庁地域部長)。[博報堂DYホールディングスの顧問 ]
筆者は、今世紀になってから博報堂が起こした経済事件の背景を考える場合、「社史」の検証は不可欠だと考えている。
◇登記簿に戸田・沢田の名前が
太刀川が伸和に乗り込んだ時代と、現在の博報堂に接点はあるのだろうか。この点に関して、興味深い事実がある。
既に述べたように、伸和はその後、博報堂コンサルタンツに名前を変え、さらに日比谷コミュニケート・コンサルタンツと名前を変更するのだが、日比谷コミュニケート・コンサルタンツの登記簿を調べたところ、「戸田裕一」という名前が記載されていた。戸田氏は、現在、 博報堂DYホールディングス代表取締役社長 兼 博報堂取締役会長である。
戸田氏は、元コピーライターである。コピーライターが博報堂の頂点に上りつめたのである。
また、株式会社博報堂取締役の沢田邦夫氏の名前も登記簿に記録されている。
ただ、日比谷コミュニケート・コンサルタンツの時代に太刀川氏らが博報堂に対して影響力を持っていたかどうかは、慎重な検証が必要だ。
【写真】日比谷コミュニケート・コンサルタンツの登記簿
警察と連携してきた博報堂の戦略、『見えざる政府―児玉誉士夫とその黒の人脈』②
『見えざる政府』が記録している博報堂コンサルタンツのその後の軌跡を紹介しよう。2回目、後編である。前編は次のリンクから。
児玉が乗っ取った博報堂コンサルタンツ(持ち株会社、前身は伸和)は、「まず企業を児玉の系列下に置く作業からはじめた」。
手口はブラックジャーナリズムである。メディアに企業スキャンダルの記事を書かせる。スキャンダルを暴かれた企業は、対策として博報堂と取引を開始する。それにより危機を回避する。『見えざる政府』によると、三越や味の素がこうした戦略の標的になったという。
このような戦略の裏付けは、はからずもロッキード事件を機に明らかになった。
「東京地検特捜部、警視庁、国税局のロッキード事件合同捜査本部は、51年2月24日、児玉誉士夫の自宅を家宅捜索した。その際、十数社にのぼる政治・経済雑誌の会社証券が多数発見された。それは、児玉がブラック・ジャーナリズムに資本金の形で出資し、連帯を深めていたことを物語っていた。これらの新聞、雑誌のなかには、児玉とは別に博報堂と資本提携を結んでいたものもあれば、博報堂の口ききで三菱地所など一流企業が所有するビルの中に事務所を開設していたものもあった」
「しかし、福井社長が(黒薮注:特別背任罪容疑で)逮捕され、児玉もロッキード事件の容疑者になったことで、『言論統制機関を作る構想は挫折したのだが・・・』」
◇警察と連携した新戦略
『見えざる政府』によると、その後、新しい戦略が浮上したという。結論を先に言えば、それは警察の情報を利用したものだった。
「福井が特別背任容疑で逮捕された事件を取材した新聞記者は、元警察関係役員とからませて次のように説明した。
『警視庁は今年の9月をメドに〝土地カン情報管理システム〝を発足させるが、児玉らはこれを利用して会社の乗っ取り、マスコミ支配を進めようとしていたのではないか。このシステムは都内を2万7000個のメッシュ(網の目)に分けて、前歴者、素行不良者、非行少年をプット・インしてコンピューターに覚え込ませるほか、氏名、生年月日、本籍、住居、勤務先なども記憶させている。だから企業乗っ取りの場合など社長からヒラ社員に至るまで必要な全情報を短時間に入手できるわけだ。そして、児玉はこの警察の資料をもとに言論出版を自由にコントロールしようとした。そのためにも、元警察高級官僚を役員に入れて、警察関係とコネクションをもつ必要があった。』」
元警察高級官僚を天下りさせて、このような路線を選択した可能性があるというのだ。
◇国税局におびえる企業
以上が『見えざる政府』に描かれた博報堂に関する記述の要約である。どこまでが真実であるかは、検証する必要があるが、少なくとも博報堂への天下りに関しては、信頼できる。筆者が調査した範囲でも、児玉が博報堂を乗っ取った1975年以降、現在まで博報堂へ多人数の警察関係者と内閣府の官僚が「天下って」いる。
財務省からも元国税局長官が2名天下り、いずれも社長に就任している。これでは企業は、国税局の摘発を警戒せざるを得なくなる。ある意味では、児玉が目指したブラックジャーナリズムよりも脅威だ。
『現代の眼』(1975年7月)によると、乗っ取りの時期に次の人々が博報堂へ天下っている。博報堂が児玉とかかわりを持つようになった時期である。
・松本良佑(副社長):元警察大学教頭
・佐藤彰博(公共本部長):内閣審議官室審議官兼総理府広報室参事官
・千島克弥(顧問):総理府広報室参事官
・池田喜四郎(公共本部次長):内閣総理大臣官房副長官秘書
・毛利光雄(社長秘書):警視庁総監秘書
・町田欣一(特別本部CR担当):警視庁科学検査部文書鑑定課長
また、日本経済新聞の人事欄によると、旧大蔵省からの天下りも確認できる。
・近藤道生(社長):国税庁長官
・磯邊 律男(社長):国税庁長官
また、2017年3月の時点での天下り者は次の通りだ。
・阪本和道氏(審議官)[博報堂の顧問]
・田幸大輔氏(広報室参事官補佐・広報戦略推進官)[博報堂の顧問]
・松田昇(最高検刑事部長)[博報堂DYホールディングスの取締役]
・前川信一(大阪府警察学校長)。[博報堂の顧問]
・蛭田正則(警視庁地域部長)。[博報堂DYホールディングスの顧問 ]
このほかにも多人数が確認されている。
筆者は、今世紀になってから博報堂が起こした経済事件の背景を考える場合、「社史」の検証は不可欠だと考えている。
フィクサーが博報堂に乗り込んだプロセスを描く『見えざる政府―児玉誉士夫とその黒の人脈』①
日本の広告業界は寡占化されている。その寡占化の下で、企業やメディアをコントロールできる暗黙の仕組みが構築されているようだ。当然、これではジャーナリズムは育たない。メディアを単なるプロパガンダの機関に変質させてしまう。
博報堂のケースを例に、この問題を検証してみよう。
筆者の手元に『見えざる政府―児玉誉士夫とその黒の人脈』 (白石書店、竹森久朝著 、1976年)という書籍がある。この中にある児玉誉士夫による博報堂支配に関する記述を紹介しよう。出版されたのは40年前だから、記述の正確さについては、再検証する必要があるが、筆者が調べた限りでは、信憑性が高いので、ありのまま内容を紹介しておこう。ひとつの資料として読んでほしい。
メディアによる世論誘導の舞台裏がどのようになっているのかが克明に描かれている。
◇暴力からブラックジャーナリズムへ
「児玉誉士夫が言論出版問題について『統制機関』をつくる構想をもっていた事実はあまりよく知られていない。だが、この構想は、彼が築いていった『見えざる政府』の組織の拡大強化とともに芽生え、ふくらみ、そして一部は実行に移されたのである。」
その背景には、民主主義や人権の感覚が社会全体に芽生えてきた事情があるようだ。社会が成熟するにつれて、「黒い利権」を追い続ける中で当たり前になっていた脅しすかしの手法が通用しなくなってきた事情がある。警察も暴力を放置しなくなっていた。そこで児玉は新戦略を模索したのだ。
それはマスコミ支配だった。記事による恫喝(ブラックジャーナリズム)である。近代国家では、暴力よりも、こちらの方が有効なのだ。
「とくに総会屋業界の「総元締」の地位に就いた昭和44年頃からのちは、いわゆる児玉系マスコミを積極的に動員することによって、容易に経済事件に介入できたし、フィクサーとしての役割も無難にこなせるようになった。」
児玉系マスコミの代表格のひとつは、東京スポーツである。児玉系マスコミを使ったブラックジャーナリズムの手法で、児玉は暗黙のうちに企業に圧力をかけるようになったのである。企業にとってイメージダウンは命取りになる。
「こうした体験が実は、さらに数多くのマスコミを児玉の支配下に組み込ませる構想へと発展したのである。もちろんこの考え方の根底には、児玉が世論は国民大衆が作るものではなくて、マスコミが扇動していく過程で作られることを知っていた。」
児玉がターゲットにしたのが博報堂だった。博報堂を支配することで、広告やCMをコントロールできる。児玉の意にそぐわないメディアに対して、広告やCMの取引を中止すると恫喝する戦略だったようだ。
「博報堂はわが国の広告業界では電通につぐ第2の大手。宣伝、PR、マーケッティングが主な業務だが、あらゆる業種の広告をマスコミに橋渡しする際に、『わが社の意向に添わないマスコミに広告を扱わせるわけにはいかない』と拒否権を発動して、博報堂の意のままにマスコミを操縦できる利点があった。」
◇博報堂コンサルタンツ
「博報堂が児玉誉士夫によって乗っ取られたのは、瀬木庸介(社長)を社外に追放、福井純一が社長に就任した昭和47年11月30日である。」
福井が社長に就任した経緯は、いくつかの説があるが、博報堂の社史によると、瀬木庸介(社長)が新興宗教・白光真宏会(「人類みな教団」をモットーとする団体)の活動に専念するためだったという。一方、『見えざる政府』は、福井による陰謀説を紹介している。
「『情報新聞』、『中央世論新聞』を使って、瀬木社長が「新興宗教に狂った』とか『某女性に横恋慕した』というニュースを流させた。とくに『情報新聞』には、前後3回も社長の醜聞を特集させて、博報堂内にばら撒かせたのである。このスキャンダル攻勢にたまらず瀬木社長は退陣した。」
児玉のブラックジャーナリズムの手法を福井もまねたのである。福井は、
「『株式を持たないサラリーマン社長では経営はできない』と瀬木前社長から博報堂の持株会社「伸和」と財団法人「博報堂児童教育振興会」(博報財団)、それに瀬木の所有株について議決権行使の委任状を取り、全社員に対しては、『5年後には、電通の総水揚げの5割台まで博報堂の扱いを増やす』とぶちあげた」
福井体制下の戦略は次のようなものだった。
「一つは、博報堂の取引き先の会社を児玉系列に組み込んでいく。こうすることによって、博報堂の水揚げも増え、また系列化された企業からマスコミに対する苦情、注文が直接児玉のところに持ち込まれやすくなる。二つは、この苦情や注文をよりどころにしてマスコミを操作し、それでも児玉の側につかない情報産業は、博報堂を経由した宣伝広告を受け付けないようにすることだった。」
この役割を担ったのが、博報堂の持株会社・伸和(後の博報堂コンサルタンツ)だった。人事は次の通りである。
「役員は、広田隆一郎社長のほかに、町田欣一、山本弁介、太刀川恒夫が重役として名を連ねたが、広田は福井の大学時代のラグビー部関係者で、警視庁が関西系暴力団の準構成員としてマークしていた要注意人物。町田は元警察庁刑事部主幹。山本は元NHK政治部記者。そして太刀川は児玉側近グループのナンバーワンで、児玉が脳血栓で倒れたあと、完全に児玉の分身となった人物であることはすでにのべた。」
ちなみに博報堂コンサルタンツ(改名:日比谷コミュニケートコンサルタンツ)の閉鎖登記簿を調べたところ、取締役として戸田裕一会長と沢田邦夫取締役の名前があった。一方、博報財団の登記簿にも、社内の重要人物の名前がある。
◇広告業界の寡占化とジャーナリズム
現在の博報堂に、1975年ごろの方針が継続されているかどかは、調査する必要があるが、筆者は、少なくとも思想的な面では、共通点があると解釈している。また、今世紀になってから、社員が郵政がらみの諸事件を起こしたり、準強制わいせつ容疑で逮捕されているが、これも「児玉機関」の体質から起こった、半ば必然的な事件なのかも知れない。ドラスチックな体質の名残ともいえる。
日本の広告業界は寡占化されており、その寡占化の中で、ジャーナリズムを殺してしまう構図があるのだ。
【続く】
注:資料の公開については、連載終了後にまとめておこなう。
博報堂コンサルタンツの取締役に児玉誉士夫の側近・太刀川恒夫氏が就任していた、極右勢力と博報堂の関係、①
メディアの歴史をさかのぼってみると、ひとつの権力を手に入れた者が、次のステップとしてメディア支配を企てることがままある。世論誘導の道具に利用できるからである。
その典型的な例としては、読売新聞社に乗り込んだ元特高警察の高官・正力松太郎と博報堂の支配を企てた右翼の児玉誉士夫の例がある。
児玉と博報堂の関係を検証する際に、どうしても無視できないのが、博報堂事件である。これは昭和47年11月30日に、創業家の3代目である瀬木庸介社長を福井純一副社長が追放して、社長に就任した事件である。
日経新聞などの報道によると、福井氏は博報堂を私物化するために、みずからの資金で「亜土」を設立して、「博報堂の持ち株会社『伸和』の株を庸介氏から買い取ったり」「違法な方法で新株式割り当てなどで、『伸和』の株式83.5%を支配下に収めた」。伸和は「博報堂の発行済み株式の30%を保有」しており、博報堂は実質的に福井社長の支配下に置かれたのである。ちなみに福井氏は後に、特別背任容疑で逮捕され有罪になっている。
このお家騒動の時期に「伸和」に乗り込んできたのが、児玉氏の側近であり、等々木産業(株)の代表取締役である太刀川恒夫氏らだった。
◇児玉に協力を求めた博報堂
伸和は後に博報堂コンサルタンツに社名変更するのだが、このあたりの事情について、当時の『週刊サンケイ』(1976年)は次のように書いている。
特に、「伸和」が昨年7月に「博報堂コンサルタンツ」に社名変更した時に、太刀川が取締役に就任したことが、児玉ファミリーのマスコミ支配のための″博報堂進出″とみられている。
博報堂も児玉との関係を認め、『週刊サンケイ』に対して次のようにコメントしている。
「博報堂乗っ取りとか、児玉が何を狙っているとかいろいろいわれているけれど、まったくナンセンス。博報堂コンサルタンツの取締役になってもらったのは、僕の方から頭下げてきてもらったんですからね。将来いろんなことやってくうえで、いつ、何をということなく、必要になった時、考え方などを聞かせてほしい、そういうために役員になってもらったんですよ。福井さんと児玉さんが関係あると言われていますが、あれだって社長就任時に記念品をもって挨拶に行ったんで、何百人と回った中の1人ですよ。ええ、わたしも同席しました」(広田隆一郎、前博報堂取締役、前博報堂コンサルタンツ社長<肩書きは1976年同時>)
広田氏の言葉を借りれば、博報堂の側から、児玉氏に協力を求めていったのである。
その後、福井前社長の逮捕などもあったが、博報堂コンサルタンツは社名を変更しながら存続する。博報堂コンサルタンツの次は、日比谷コミニュケートコンサルタンツとなる。そして2001年(平成13年)に博報堂に合併したのだが、興味深いことに日比谷コミニュケートコンサルタンツの時代の会社登記簿に現在の博報堂の舵を取っている人々の名前が確認できる。たとえば次の方々である。
戸田裕一(博報堂代表取締役)
沢田邦彦(博報堂前取締役副社長・降格され現在は取締役)
児玉らが「乗り込んできた」時代の博報堂と現在の博報堂の接点については、今度、検証する必要があるが、少なくとも次の重大な事実が確認できる。
意外なことに内閣府の官僚や警察関係者の天下りは、この時代から始まって、現在まで続いているのである。極めて長期にわたる癒着なのだ。(続)