1. M君リンチ事件に見る言論抑圧・抑制の実態、だれが言論の自由を殺すのか?

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2018年05月15日 (火曜日)

M君リンチ事件に見る言論抑圧・抑制の実態、だれが言論の自由を殺すのか?

自分と対立する言論に対して、「裁判を起こすぞ!」と恫喝する行為が、もはや日常の一齣になっている。特に、ツイッター上でその傾向が顕著になっている。これは社会病理である。背景には、名誉毀損裁判では訴えた側、つまり原告に圧倒的な法理になっている事情があるのだが、それはさておき、このような風潮は、言論を萎縮させ、最終的に法律で言論活動をがんじがらめにする危険性を孕んでいる。

司法制度を利用した言論の抑圧を狙ったツィートの具体例を紹介しよう。下記のツィートの投稿主C.R.A.C.は、反差別の市民運動を展開している団体だ。前身は、しばき隊などである。

C.R.A.C.さんがHideta福島(被災地復興に一票)をリツイートしました


事実を反映してないネット情報をあまり気軽に拡散してると、あなた自身法的責任を問われかねないので気をつけてくださいね。「放射能デマ」だの「福島差別」だのいいかげんなことをいい散らかす前に、まずは「ファクト」に向き合う姿勢を身につけましょう。

一方、被害者側のツィートの事例としては、山口貴士弁護士のツィートを引用しておこう。元しばき隊・隊員の神原元弁護士(自由法曹団常任幹事)から、「懲戒請求をちらつかされ恫喝された」というものである。


  神原元弁護士が大量に不当懲戒請求された件、同業者として同情する気持ちはあるのですが、一方で、神原元さんから懲戒請求をちらつかされ恫喝された者としては、「因果応報じゃね?」という気持ちも少し有り、応援する気にもなれない訳です。はい。

さらに神原氏は、「フリーライター」について、次のようにツィートしている。このページの冒頭の画像である。

 もちろん、件のフリーライターが、裁判で無実が証明された人を記事で誹謗するなら、容赦なく法的措置をとる。冤罪被害者を守るため司法に救済を求めることをスラップ訴訟とは言わない。むしろ、人権擁護と社会的正義実現のために不可欠な訴訟であると断言できる。

筆者がこれら3つのツィートを引用したのは、C.R.A.C.と神原元弁護士が、在日の人々に対する反差別運動に取り組み、その運動の中でヘイトスピーチだけではなく、言論の自由にかかわる別の問題が浮上しているからである。

ここでは、M君リンチ事件を例に言論にかかわるあるひとつの問題を提起してみたい。それは言論人が、この事件をタブー視している事実である。

◇M君リンチ事件のタブー

裁判の提訴をほのめかして、言論を抑圧する風潮は、言葉を使って仕事をしている人間、つまり広義の文筆家にとっては、直接的な影響を受ける。表現が制限されると、仕事に支障をきたす。よほどの言葉の操り方が巧みでない限り、仕事ができなくなるだろう。

言葉が制限されている文藝ジャンルのひとつに児童文学がある。児童を対象とした文学であるから、当然、言葉に著しい制限がある。難解な言葉は使えない。素人の目には、児童文学は最も簡単な分野に映るが、書き手の側から見ると実はもっとも難しい分野なのだ。それは、繰り返しになるが、使える言葉が極端に制限されているからだ。

名誉毀損裁判が日常的になれば、司法当局によって「許可」される言葉と表現の範囲が極端に狭くなる。それが文学はルポルタージュを魅力のないものに変質させてしまうことは論を待たない。表現活動の障害となる。

それにもかかわらずM君リンチ事件に関心を示さない「文化人」があまりにも多い。この事件では、メインテーマである暴力のほかに、言論の問題も問われているのであるが。司法を利用して言論を抑圧する兆候がみられるのだ。

『カウンターと暴力の病理』(鹿砦社)には、 M君リンチ事件の取材班が、取材を拒否された「文化人」の名前がずらりと並んでいる。おそらく事件の重大性を理解していないか、理解していても、人間関係を忖度して沈黙しているのだろう。加害者の批判は、裁判というリスクを伴うから、加害者を批判したくないということなのかも知れない。

なかには逆に事件の隠蔽に協力しているとしか思えない人々も含まれている。

筆者は、1997年からフリーランスになったが、当時は、現在のような異常な言論環境はなかった。2000年後頃から、名誉毀損裁判が増え始め、それに伴い萎縮がはじまり、現在はツイッターのなかで、法律の素人までが、えらそうに名誉毀損裁判の提起をほのめかすようになっているのだ。

そのうちに、名誉毀損裁判が刑事事件のかたちを取り始めるではないか。

その時は、もう手遅れだ。