1. 横浜副流煙裁判の映画「窓」のエンディング、重い楽曲の効果

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2024年09月17日 (火曜日)

横浜副流煙裁判の映画「窓」のエンディング、重い楽曲の効果

小説であれ、ルポルタージュであれ、映画であれ、作品のエンディングが読者や視聴者に強い印象を与えなければ、作品全体の評価が目減りする。横浜副流煙裁判をドラマ化した映画「窓」(麻王監督、西村まさ彦主演)は、はからずもこの原理を示した作品である。エンディングの歌が重要な役割を果たしている。

ミュージシャンで、映画のモデルにもなっている藤井将登氏(Ma*To)が30年以上も前に作曲した作品で、曲名も映画と同じ「窓」である。と、いうよりも映画のタイトルの方が、藤井氏の楽曲に由来していると推測される。それほどこの曲は、映画「窓」を構成する上で重用な役割を果たしているのだ。

■窓(作詞:工藤順子、作曲:Ma*To、歌:小川美潮)

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念を押すまでもなく横浜副流煙裁判は、実在する事件である。事件の現場は横浜市のマンモス団地。荒漠たる都会の砂漠でおきた煙草の副流煙をめぐる隣人トラブルである。藤井氏と同じ棟に住むA家3人が、藤井氏の煙草の煙が原因で「受動喫煙症」になったとして、2017年11月、4518万円の損害賠償を求めて横浜地裁へ提訴した事件である。

しかし、藤井氏はヘビースモーカーではない。1日に2,3本の煙草を嗜むにすぎない。しかも、喫煙場所が防音構造になった自宅の音楽室なので、副流煙は外部には漏れない。たとえ漏れたとしても原告の家族が住むユニットは二階の斜め上で、藤井氏の音楽室からは8メートルの距離がある。藤井氏が吸った煙草の煙がA家に流れ込む余地はない。

実際、裁判が進むにつれて次々に疑問が浮上してくる。まず、「受動喫煙症」の病名を付した診断書を交付した作田学医師が、問診(患者からの聞き取り)を過大に重視して「病気」の認定を行っていたことである。診断書の中で、「病気」の原因がミュージシャンの煙草であるとまで摘示している。

さらに裁判の審理の中で、原告のひとりであるA家の娘に精神疾患がある疑惑が浮上したことである。実際、藤井氏が自分に危害を与えているという被害妄想のような主張を繰り返した。A家の夫が、数年前まで煙草を吸っていたことも明らかになった。

副流煙を含む化学物質による健康被害、いわゆる「香害」の被害を訴える人々の中に、かなり高い割合で統合失調症などの患者が含まれていることは、数年前から専門医らにより指摘されてきた。その具体的な実態が裁判の中で、はじめて表に出たのだ。それまでは市民運動体や『週刊金曜日』などの旗振りで、「香害=化学物質過敏症」と決めつける風潮が広がっていた。

裁判は、藤井氏の勝訴で終わった。その後、藤井氏が妻の敦子氏と一緒に、元原告や医師を相手どって、「反スラップ」裁判を起こした。この裁判は、現在も続いている。単純に見るとA家と藤井家の抗争なのである。

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横浜副流煙裁判の一連の経緯は、拙著『禁煙ファシズム』(鹿砦社)やメディア黒書で記録してきた。これらの記述に一貫しているのは、藤井家とA家の敵対関係である。新聞記事のように外面的な事実の記述に終始し、人間の心理面には踏み込んでいない。

しかし、映画「窓」には、わたしのルポルタージュに欠落していた視点がある。「窓」を時系列に鑑賞していくと、エンディング手前までは実在する事件と同様に両家の敵対関係を描いた作品のような印象を受ける。ところがエンディングの歌が、まったく別の世界を運んでくる。

どのような事情があるにせよ、A家の娘が大変な苦しみを味わってきたことは紛れない事実である。「窓」から街を眺めるしか生の証がない悲劇は重い。そのことに対する深い同情の思いがエンディングの歌に溢れでるのだ。

麻王監督が示したこの点こそ、「香害」をめぐる問題の複雑さを社会に提示しているのである。

映画「窓」の撮影現場になった団地は、麻王監督が生まれ育った場所である。同じ棟の2階にA家がある。当然、麻王監督は、A家3人の生活史を何十年にも渡って垣間見てきた。わたしのようなルポライターが、数年取材して作品にまとめるとは取材の蓄積が違う。

映画でも描かれているようにA家は、円満で、強い絆で結ばれた家族である。藤井家を法廷に立たせるなど、露骨な敵意を示しても、利権で私服を肥やすような人々ではない。麻王監督は、そのことを知っているからA家の娘をひとりの人格のある人間として描いたのだ。

そのための決定的な役割を果たしたのが、エンディングの楽曲なのである。