1. フィクサーが博報堂に乗り込んだプロセスを描く『見えざる政府―児玉誉士夫とその黒の人脈』①

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2017年05月15日 (月曜日)

フィクサーが博報堂に乗り込んだプロセスを描く『見えざる政府―児玉誉士夫とその黒の人脈』①

日本の広告業界は寡占化されている。その寡占化の下で、企業やメディアをコントロールできる暗黙の仕組みが構築されているようだ。当然、これではジャーナリズムは育たない。メディアを単なるプロパガンダの機関に変質させてしまう。

博報堂のケースを例に、この問題を検証してみよう。

筆者の手元に『見えざる政府―児玉誉士夫とその黒の人脈』 (白石書店、竹森久朝著 、1976年)という書籍がある。この中にある児玉誉士夫による博報堂支配に関する記述を紹介しよう。出版されたのは40年前だから、記述の正確さについては、再検証する必要があるが、筆者が調べた限りでは、信憑性が高いので、ありのまま内容を紹介しておこう。ひとつの資料として読んでほしい。

メディアによる世論誘導の舞台裏がどのようになっているのかが克明に描かれている。

◇暴力からブラックジャーナリズムへ

 「児玉誉士夫が言論出版問題について『統制機関』をつくる構想をもっていた事実はあまりよく知られていない。だが、この構想は、彼が築いていった『見えざる政府』の組織の拡大強化とともに芽生え、ふくらみ、そして一部は実行に移されたのである。」

その背景には、民主主義や人権の感覚が社会全体に芽生えてきた事情があるようだ。社会が成熟するにつれて、「黒い利権」を追い続ける中で当たり前になっていた脅しすかしの手法が通用しなくなってきた事情がある。警察も暴力を放置しなくなっていた。そこで児玉は新戦略を模索したのだ。

それはマスコミ支配だった。記事による恫喝(ブラックジャーナリズム)である。近代国家では、暴力よりも、こちらの方が有効なのだ。

「とくに総会屋業界の「総元締」の地位に就いた昭和44年頃からのちは、いわゆる児玉系マスコミを積極的に動員することによって、容易に経済事件に介入できたし、フィクサーとしての役割も無難にこなせるようになった。」

児玉系マスコミの代表格のひとつは、東京スポーツである。児玉系マスコミを使ったブラックジャーナリズムの手法で、児玉は暗黙のうちに企業に圧力をかけるようになったのである。企業にとってイメージダウンは命取りになる。

「こうした体験が実は、さらに数多くのマスコミを児玉の支配下に組み込ませる構想へと発展したのである。もちろんこの考え方の根底には、児玉が世論は国民大衆が作るものではなくて、マスコミが扇動していく過程で作られることを知っていた。」

児玉がターゲットにしたのが博報堂だった。博報堂を支配することで、広告やCMをコントロールできる。児玉の意にそぐわないメディアに対して、広告やCMの取引を中止すると恫喝する戦略だったようだ。

「博報堂はわが国の広告業界では電通につぐ第2の大手。宣伝、PR、マーケッティングが主な業務だが、あらゆる業種の広告をマスコミに橋渡しする際に、『わが社の意向に添わないマスコミに広告を扱わせるわけにはいかない』と拒否権を発動して、博報堂の意のままにマスコミを操縦できる利点があった。」

◇博報堂コンサルタンツ

 「博報堂が児玉誉士夫によって乗っ取られたのは、瀬木庸介(社長)を社外に追放、福井純一が社長に就任した昭和47年11月30日である。」

福井が社長に就任した経緯は、いくつかの説があるが、博報堂の社史によると、瀬木庸介(社長)が新興宗教・白光真宏会(「人類みな教団」をモットーとする団体)の活動に専念するためだったという。一方、『見えざる政府』は、福井による陰謀説を紹介している。

「『情報新聞』、『中央世論新聞』を使って、瀬木社長が「新興宗教に狂った』とか『某女性に横恋慕した』というニュースを流させた。とくに『情報新聞』には、前後3回も社長の醜聞を特集させて、博報堂内にばら撒かせたのである。このスキャンダル攻勢にたまらず瀬木社長は退陣した。」

児玉のブラックジャーナリズムの手法を福井もまねたのである。福井は、

「『株式を持たないサラリーマン社長では経営はできない』と瀬木前社長から博報堂の持株会社「伸和」と財団法人「博報堂児童教育振興会」(博報財団)、それに瀬木の所有株について議決権行使の委任状を取り、全社員に対しては、『5年後には、電通の総水揚げの5割台まで博報堂の扱いを増やす』とぶちあげた」

福井体制下の戦略は次のようなものだった。

「一つは、博報堂の取引き先の会社を児玉系列に組み込んでいく。こうすることによって、博報堂の水揚げも増え、また系列化された企業からマスコミに対する苦情、注文が直接児玉のところに持ち込まれやすくなる。二つは、この苦情や注文をよりどころにしてマスコミを操作し、それでも児玉の側につかない情報産業は、博報堂を経由した宣伝広告を受け付けないようにすることだった。」

この役割を担ったのが、博報堂の持株会社・伸和(後の博報堂コンサルタンツ)だった。人事は次の通りである。

「役員は、広田隆一郎社長のほかに、町田欣一、山本弁介、太刀川恒夫が重役として名を連ねたが、広田は福井の大学時代のラグビー部関係者で、警視庁が関西系暴力団の準構成員としてマークしていた要注意人物。町田は元警察庁刑事部主幹。山本は元NHK政治部記者。そして太刀川は児玉側近グループのナンバーワンで、児玉が脳血栓で倒れたあと、完全に児玉の分身となった人物であることはすでにのべた。」

ちなみに博報堂コンサルタンツ(改名:日比谷コミュニケートコンサルタンツ)の閉鎖登記簿を調べたところ、取締役として戸田裕一会長と沢田邦夫取締役の名前があった。一方、博報財団の登記簿にも、社内の重要人物の名前がある。

◇広告業界の寡占化とジャーナリズム

現在の博報堂に、1975年ごろの方針が継続されているかどかは、調査する必要があるが、筆者は、少なくとも思想的な面では、共通点があると解釈している。また、今世紀になってから、社員が郵政がらみの諸事件を起こしたり、準強制わいせつ容疑で逮捕されているが、これも「児玉機関」の体質から起こった、半ば必然的な事件なのかも知れない。ドラスチックな体質の名残ともいえる。

日本の広告業界は寡占化されており、その寡占化の中で、ジャーナリズムを殺してしまう構図があるのだ。

 

【続く】

注:資料の公開については、連載終了後にまとめておこなう。